田端文士村

明治から、大正・昭和にかけて、その時代を駈け抜けるように
大家も新進気鋭も、ごっちゃに集まって
詩に歌に文学に、そして陶芸、彫刻、絵画・・・に
燃え、輝き、慟哭した場所があります。

早稲田、新宿、浅草、本郷、田端、馬込・・・

この場所は、不思議に似通って、時には
文士村』『芸術村
と呼ばれて、独特の雰囲気です。

何が文士達を駆り立てたのか

共通項は、当時、どこも武蔵野の雰囲気があふれんばかりのところでした。
今は、名残さえ失せていますが、これ以上変わらぬ内にと
【田端
を訪ねてみました。

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田端駅南口を降りれば
直ぐ目の前は坂
芥川龍之介が
「雨のふるときは足駄で
下りるのは大分難渋だ」
と書いた不動坂で
今もつづれ折れ坂になっている。

田端駅東口を降りれば
緩やかな坂があり
微妙な円形に張り出す建物が
目に入る。
「田端文士村記念館」
こぢんまりした中に、基本的な
資料が、当時の世界を再現する。

(1)コース

 JR田端駅は「東」・「南」、どっちに降りても面白いですが、今回は、東口下車、「田端文士村記念館」を出発点にして、不動坂に回ることにします。
 この一帯は、昭和20年(1945)の空襲で焼けたため、古い建築物はほとんどありませんし、その後の開発によって、明治・大正の頃の景観はすっかりなくなってしまいましたが、結構バラエティに富んでいます。大まかなコースを紹介します。

 JR田端駅東口――田端文士村記念館――江戸坂――田端駅南口――不動坂――岩田専太郎――芥川龍之介旧居跡(反対側 岡倉天心、平塚らいちょう、川口松太郎、菊池寛などが居住)、香取秀真(芥川の隣家で鋳金家、板谷波山と親交、子規門下生)――与楽寺――天然自笑軒跡(「道閑会」会場、芥川の結婚披露宴会場)――下島勲医院跡(書家でもあり、芥川龍之介のかかりつけ医)

 ――下田端八幡神社・東覚寺(赤札仁王=江戸の病気治癒祈願、雀の供養塔=大田蜀山人狂歌)――堀辰雄3回目下宿――吉田三郎、堀辰雄1回目下宿(大盛館)――小杉未醒(放庵)・室生犀星1回目下宿――ポプラ坂――窪川鶴次郎下宿(同人雑誌「驢馬」編集、犀星がパトロン、下島勲が題字を書く。刊行記念パーティ会場に佐多稲子が働いていた縁で作品を寄稿→作家として出発)――ポプラ倶楽部跡(画家の仲間づくりの場)――

 ――板谷波山旧居(陶芸家=田端文士村の元祖、貧困で、「烏山」で徳利や猪口を売る――広瀬雄(堀辰雄を室生犀星に紹介)、室生犀星旧居(3回目=関東大震災の時、菊池寛が一時居住、文芸春秋の発刊に駆け回る)――上田端八幡神社・大龍寺(正岡子規・板谷波山墓)――紅葉館跡(堀辰雄2回目下宿)

 ――慈眼寺(芥川龍之介・谷崎潤一郎、斉藤鶴磯墓)――

(2)不思議と共通するムード

 文士村と呼ばれるところを訪ねると、不思議と共通するムードに出会います。

●地形が高台と下町の混成地で、坂が多い。
    田端も実に坂の多いところです。

●文士や芸術家の集まりの元祖が陶芸家や画家であることが多い。
 田端の場合も最初は画家、陶芸家で、居住の年代を追うと、こんな順序をたどっています。

  小杉未醒(画家 明治33年 1900)

  板谷波山(陶芸 明治36年 1903)

  北村西望(彫刻 明治40年 1907)

   吉田三郎(彫刻 明治40年 1907)
    板谷波山を慕って転入 室生犀星が吉田との金沢時代の縁で転入 
    萩原朔太郎が室生との友人関係から転入

  下島 勲(医師 明治40年 1907)

  香取秀真(鋳金 明治42年 1909)板谷波山を慕って転入

  鹿島龍蔵(実業 明治45年 1912)

●誰かがきっかけをつくる

  田端への文士の集まりは、芥川龍之介が鎌倉から転居してきたのがきっかけのようです。
  馬込は尾崎士郎・宇野千代でした。

  田端へ芥川龍之介が転居してきたのは、大正3(1914)年で、その後 

  室生犀星、野上弥生子 大正5年(1916)

  平塚らいちょう 大正7年(1918)

  野口雨情 サトウハチロー 大正9年(1920)

  竹久夢二 瀧井孝作 大正10年(1921)

  菊池寛(約3ヶ月) 窪田万太郎 大正10年(1921)

  堀辰雄 萩原朔太郎(約8ヶ月) 土屋文明 大正14年(1925)

  岩田専太郎 佐多稲子 川口松太郎 大正15年(1926)

と続きました。 

  田端文士村は昭和2年(1927)に、芥川龍之介が亡くなったことをきっかけに衰退し、馬込に移ったようです。例えば、室生犀星は芥川が亡くなると、ショックで、一時、軽井沢にこもり、その後、馬込に転居しています。

●文士・芸術家の集いは、出身地が呼び合うらしい

  明治36年、一面の菜畑と桃林の田端に「板谷波山」が窯をひらくと、明治40年、波山が金沢工業学校で教えた「吉田三郎」が波山をしたって、田端に移って来ました。その吉田と金沢で子供時代を一緒に過ごした「室生犀星」が上京後、最初は本郷にいましたが、大正5年、田端に移り、室生犀星との縁から、大正14年、「萩原朔太郎」が転居して来ています。芥川の東京府立第三中学校時代の恩師「広瀬 雄」も金沢出身です。


(3)歩いたところ

田端文士村記念館

bunnsimurakan4.jpg (4827 バイト)  田端駅東口を降りると目の前にアスカビル、その1階に、田端文士村記念館がある。平成5年開設、(財団法人)北区文化振興財団が運営。 

 田端文士芸術家村の開祖にあたる、板谷波山、小杉未醒(放庵)、吉田三郎などの芸術家の作品と、芥川龍之介など文士の書簡、原稿、初版本などを展示。
 ここで、無料で配布される『田端文士芸術家村しおり』は文学散歩地図として天下一品。

江戸坂

 記念館を出てそのまま右へ坂が続く。江戸坂と呼ばれる。坂を下れば、下谷・浅草方面につながり、登れば高台通り。

 写真の突き当たり左側に「露月亭」という茶屋があった。陶芸家の板谷波山が、自分の窯をつくる資金のため、徳利や猪口(飛鳥山焼)を焼いて売ったという。
 後に、文化勲章を受章する人が、窯をつくるのに、レンガを内職で稼いで買い、1年数ヶ月かかったという、明治の苦労話が伝わる。

 「・・・詩人の室生犀星、俳人の瀧井孝作、画家の池田輝方、岩田専太郎、詩人の福士幸次郎が住んでいました。・・・」と北区教育委員会の設置した案内板に書いてある。
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kawaguti2.jpg (4552 バイト) 江戸坂を上り詰めたところが、高台通りで、左折するとJR田端駅南口に向かう。写真右手に、岩田専太郎や川口松太郎が大正15年に住んでいたという。
 高台通りをJR田端駅南口に向かうと、「東台橋」を渡る。下は切り通しになっている。「田端駅前通り」と呼ばれ、昭和8年に完成した。田端に芸術家や文士が住んだ明治の頃には、切り通しはなく、台地になっていて、細い道が今の不忍通り、駒込の「動坂」につながり、そこに北原白秋、佐藤春夫などが住んでいた。

 東台橋を渡って、進むと、JR田端駅南口に出る。明治・大正の頃、多くの芸術家、文人達が利用した頃は、「裏口」と呼ばれていた。(童橋から不忍通り方面)
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不動坂

fudouzaka4.jpg (4723 バイト)  JR田端駅南口を出ると、崖の中腹が小さな駅広になっていて、すぐに坂がある。  現在はつづら折りの階段になっているが、多くの文士達が上り下りした坂で、馬込にもよく似た景観が見られる。

 不動坂の名は「不動明王と不動の瀧があったことによる」とされる。不動明王は、田端駅の拡張により、昭和10年(1935)に移設され、現在は田端3丁目の14にまつられている。

芥川はこの坂について
 「・・・厄介なのは田端の停車場へゆくのに可成急な坂がある事だ。・・・雨のふるときは足駄で下りるのは大分難渋だ そこで雨のふるときには一寸学校がやすみたくなる やすむとノートがたまる此頃はそれに少しよわっている」(恒藤恭への手紙)と書いている。

坂を上り詰めると、正面に小路がある。台地を与楽寺の方に下る道である。右折すれば高台通り。
 写真の左側あたりに、岩田専太郎画伯(挿絵)が、昭和6年に、高台通りから移転して住んでいたという。
 
 この道を70メートルほど進むと、左下の十字路になる。
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 十字路を右折して、暫く進むと、真っ直ぐは行き止まりとなり、道なりに左に向かうと、右写真のような路地があり、右側に長い万年塀と張り付くように生えた古木が目に付く。芥川龍之介の旧居跡である。

芥川龍之介旧居跡

akutagawake2.jpg (5735 バイト)  芥川龍之介は、大正3(1914)年10月、23歳、東京帝国大学2年生の時、 新宿2丁目71番地から、ここに転居して来た。
 家は、養父の道章が新築したもので、土地は、道章の友人である宮崎直次郎の斡旋(借地)による。宮崎直次郎は天然自笑軒を経営していた。
 昭和20年の空襲で、全焼してしまい、わずかに万年塀と木が残った。戦後、芥川夫人が借地を買い取る努力をしたが、実らなかったという。

 写真の左手にかすかに住宅が見えるが、切り通しの向こう側の住宅である。そのさらに奥に板谷波山の家があった。芥川の隣に香取秀真が住んでいたが、香取の家からは、夫婦喧嘩して家を飛び出して、香取の家に向かう波山の姿が見えたというから、そのくらい台地は見通しが良かったらしい。 

 芥川自身は、新築の家に移っても、あまり心は晴れなかったらしい。近藤富枝「田端文士村」によれば、「・・・龍之介は、実家新原家と親しい吉田弥生に好意をもち、結婚の意志を芥川家の人たちに打ち明けたところ、養父母と、叔母ふきとの大反対を受けたのである。」「・・・龍之介も夜通し泣き、あくる朝むずかしい顔をして龍之介が「思い切る」と言った。」(中公文庫 P63)という状況だった。

 芥川龍之介略年譜

 明治25(1892)3月1日 京橋区入舟町に生まれる。父新原敏三は山口県生まれの牛乳屋さん。
      新宿と入舟町に牧場を持っていた。母が芥川家の出身。

 生後9ヶ月で、母が精神を病み、母の実兄の道章=芥川家に養子に入る。本所小泉町。

 江東小学校入学。東京府立第三中学校入学。第一高等学校入学。22歳、東京帝国大学英文科入学。

 大正2年(1913)22歳

  7月、第一高等学を卒業、東京帝国大学英文科入学する。 
  9月、武蔵野の秋を訪ねて、立川、日野、豊田の村々を歩く。
      国木田独歩の「武蔵野」(明治34)を読み、何度も訪れる。 
          (鷺只雄 芥川龍之介 河出書房新社 1992 ¥1600 P43)

 大正3年(1914)23歳

  2月、第三次『新思潮』を発刊。(豊島与志雄、山宮充、久米正雄、菊池寛、松岡譲、
                           成瀬正一、山本有三、土屋文明) 
     処女小説「老年」、戯曲「青年と死」を発表した。10月、第三次『新思潮』廃刊となる。
  10月末に、写真の豊島郡滝野川町字田端435番地に移転した。

 大正4年(1915)24歳  級友林原耕三の紹介によって、夏目漱石の「木曜会」に出席する。
      これをきっかけとして漱石門下に入る。

 大正5年(1916)25歳  
  
   2月、第四次『新思潮』を発刊(久米正雄、松岡譲、成瀬正一、菊池寛)「鼻」をのせる。
      漱石から激賞の手紙を受け、作家として、文壇への出発の第一歩を印す。
  12月、横須賀海軍機関学校の嘱託教官となり、鎌倉に転居。
  12月、漱石逝去。

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この時の原稿が、99年5月発見され、当時の様子が報道された。
(99.05.29.朝日新聞)

 大正7年(1918)27歳  2月2日 塚本文子と結婚。大阪毎日新聞社社友となる。
      「蜘蛛の糸」「地獄変」「奉教人の死」「枯野抄」「邪宗門」など発表

 大正8年(1919)28歳  横須賀海軍機関学校の嘱託教官を辞し、大阪毎日新聞社社員となる。
       報酬月額130円。4月田端に転居。養父母と同居。

 養父に大阪毎日新聞社からの月給全てを渡し、文子はその中から5円をもらって生活費に充てたという。 
 (大島和雄 続・東京の文学風景を歩く P155)

   書斎「我鬼窟」に後輩作家出入り激しく、談論盛ん。実質上の田端文士村が形成される。

 昭和2年(1927)7月24日 36歳  自殺 
 その後は、多くの文士が馬込に移る。

 こうして見ると、大正5年(1916)の第四次『新思潮』を発刊、漱石との関係が、芥川を世に出すと同時に、芥川が田端に居住したことによって田端文士村の形成に大きな役割を果たしたことがわかる。
 芥川の居住以前は、文士はほとんど居なかったという。 

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香取の家を表すものは何もない。
写真の付近には、漆芸家の
堆朱揚成
住んでいた。塀の中程を左に曲がると
芥川の家である。

手前に下れば与楽寺坂。

「上の坂」と呼ばれる一帯。
左の写真の中程を左折した、左側にある。
北区教育委員会の説明板には、
「この坂の近くに鋳金家の

香取秀真、漆芸家の堆朱揚成
画家の岩田専太郎などが住んでいました」
かれている。


香取秀真

 明治7年、千葉県印旛郡船穂村に出生。鋳金家、板谷波山と親交、子規の門下生。昭和28年文化勲章受章。

 明治30年、東京美術学校鋳金科卒業。赤貧洗うが如しで、明治33年、妻が家出するほどだった。明治33年再婚、田端には、明治42年(1909)8月、親友の板谷波山のつてで転入した。
 波山夫婦は最高の理解者同士だったが、よく夫婦喧嘩をすることで有名で、香取の家からは、華々しい夫婦喧嘩の結果、波山が家を飛び出す様子がよく見えたという。今、それと思しき所に立って、波山の家の方向を見ても、手前に住宅が遮るだけである。今の切通しができる前、丘越しに見えたのであろう。

 芥川が隣に引っ越してきてからは、生涯の友となる。お互いに到来物に、「手賀沼の鴨を賜る寒さかな」などと「句」をつけては、お裾分けをし合ったことが伝えられる。
 芥川、香取の旧居から与楽寺坂を下ると、六阿弥陀で親しまれる与楽寺に出る。芥川たちと北原白秋などが住む、駒込の動坂を結ぶ道である。

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与楽寺坂
北区教育委員会の案内表示には
芥川龍之介は、書簡の中に「田端はどこへ行っても黄白い木の葉ばかりだ。
夜となると秋の匂いがする」と書いてある。

与楽寺

 真言宗豊山派、賊除け地蔵で親しまれる。本尊地蔵菩薩。

 新編武蔵風土記稿には「・・・昔当寺へある夜賊押入し時、いづくともなく数多の僧出で、賊を防ぎ、遂に追退けたり。翌朝本尊の足泥に汚れありしかば、是より賊除の地蔵と号すと伝ふ」とある。

 六阿弥陀巡りが盛りだった江戸時代には、参詣人が多かった。南北朝時代の四面四仏石塔は、密教の思想を表したものとして尊重されている。 写真は省略(文学散歩と関係ある写真だけに絞る)。

 与楽寺坂を下りきったところの小路を右折すると、右側にこんもりとした木に覆われ、何となく、目を惹く屋敷がある。ここが、田端芸術・文士村の雰囲気の発信地であった「天然自笑軒」の跡である。

天然自笑軒跡

 文士・芸術村の特徴に、個性的な料亭、食堂、パン屋、カフェーなどがつきものだが、田端には、天然自笑軒があった。
 芥川の養父の友人、宮崎直次郎が経営する高級会席料亭の跡で、「道閑会」のメイン会場であった。「道閑会」は田端の文士・芸術家たちが集まり、語り、分かり合った場所で、出会いと仲間作りが進められた。ここが、田端から生まれた大正文芸の苗床であったかも知れない。その実質的スポンサーは文学・芸術に素養の深い実業家の鹿島龍蔵(鹿島建設の重役)が果たした。
 ここは、芥川の結婚披露宴会場でもあった。
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下島勲医院跡

 
「天然自笑軒」の斜向かいが、芥川のかかりつけ医であり、特に芥川とは、終生深い交流が続いた下島医院のあったところである。
 写真の右にある万年塀が天然自笑軒の塀で、左が下島医院跡になる。 

katorike2.jpg (3822 バイト)  下島勲は明治3年頃、信州伊那に生まれたという。明治40年、軍医から開業医になり、田端に居住した。 文学に関心が強く、書家でもあった。医者としての関係だけでなく、芥川が生涯を通して頼りにした。

 芥川の書斎の扁額「我鬼窟」を「澄江堂」に改めたとき、それを書いたのが下島であった。これをきっかけに、文士達からの「書」の要望が続き、全集の装丁などを求められた。

 下島医師が故郷への転居を考えたとき、それを押しとどめるため、芥川が下島医師の着ていた縞の絽の羽織をねだった話はトピック。特に、両者の晩年の交流には、深いものがあった。
 「水涕や鼻の先だけ暮れ残る」という短冊が残されているが、芥川自殺の数時間前、叔母に、「これを明日の朝、下島さんに渡して下さい」といって託したものという。

 昭和11年、田端を去り、医師を止め、随筆家として関前(武蔵野市)に移った。
 昭和15年には、句集「蕨」を出版して、祝いの会を開いている。瀧井孝作、朔太郎、室生犀星などが出席した。 小路を進み、田端駅前通の切り通しを横断すると、もう、赤い紙を全身に貼った仁王が立って、いかにも江戸時代を語りかけるような、下田端八幡神社・東覚寺の前に出る。

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下田端八幡神社・東覚寺の前

下田端八幡神社

 田端には、二つの八幡神社がある。上田端八幡と下田端八幡で、両八幡とも同じような由緒を持つ。そして両方とも、それぞれに別当寺を持っている。 江戸の田端村の産土神社として、そのあり方は興味を引く。
 北区史は、この関係を、次のように説明する。「・・・両八幡とも頼朝に結びつけているのは、昔、田端の氏神は一カ所であったが、この神社が村の端に偏在していたため、中田端に分社されたという、いきさつに基づいたものであろう。(新修北区史)

 また、神社の前に立てられた説明板には「田端村の鎮守として崇拝された。応神天皇を祭神とする。文治5年(1189)頼朝が奥州征伐を終えて凱旋するときに、鶴ヶ岡八幡宮を勧請した。社殿は何度か火災に遭い平成4年に再建した。東覚寺にある赤紙仁王は、明治の神仏分離令によって移されるまで、この神社の参道に立っていた。・・・」とある。

東覚寺

toukakuji2.jpg (3597 バイト)  白竜山寿命院東覚寺 真言宗。本尊不動明王。創建時代不明。田端八幡宮の別当寺。

 室町時代の末、源雅和尚が不動明王を勧請して、神田筋違橋近くに一寺を設けた。後、根岸に移り、さらに慶長の初年にこの地に移ったが、江戸の初期には末寺四カ寺を有し大きな寺だったという。(新修北区市)
 面白いのは、前に立つ赤紙を体中に貼った仁王像である。

赤札仁王

 堂の前に立つのは石造金剛力士立像である。説明板には

 「寛永18(1641)年8月21日、東覚寺住職堅盛の時代に、宗海という僧侶が願主となって、江戸市中に流行していた疫病を鎮めるために造立したとつたえられます。」

とされている。身体に病のある人が二枚の赤紙(寺で頒布)を仁王(自分の病のあるところと同じ部分)に貼って祈れば、その病が治るとされる。また、その紙をちぎって咬んで丸めて、仁王に投げて当たれば、これも治るとされる。
 わらじが沢山奉納されているが、仁王が次の病人のところへ行くために、病気が治った人が感謝の奉納をしたものという。江戸の人々の御利益に対する義理堅さがほほえましい。 赤紙は2枚一組で、寺で頒布している。

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 この仁王さんを、小杉未醒(放庵)と針重敬喜が酔った勢いでひっくり返す事件があった。瀧井孝作「無限抱擁」では、松子の母親が松子の病気回復を願ってお参りしている。

雀の供養塚

suzumekuyoutou2.jpg (4139 バイト)  東覚寺の本堂の脇に半分欠けた、石塔がある。文化14(1817)年建立したもので、今は見えないが、大田蜀山人の狂歌が彫られているという。

 むらすずめ(群雀)さわくち声(騒ぐ千声)も ももこえ(百声)も
             つる(鶴)の林の鶴の一声

 幕府の言論統制を皮肉ったものとして、親しまれている。あのご時世に、よくも平気で置いたものと、東覚寺の格式に敬服する。

東覚寺の西寄りに、芥川の死後まもなく、堀辰雄が下宿(3回目)をしたというところがある。
長くなるので、ここで、一旦ページを切ります。

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