足柄の御坂に立して

(防人歌4423−4424)

         足柄の御坂(みさか)に立(た)して袖振らば
                             家(いわ)なる妹は 清(さや)に見もかも  20-4423
          
                                   右の一首、埼玉郡(さきたま)の上丁(かみつよぼろ)藤原部 等母麻呂(ともまろ)


         色深(いろぶか)く背(せ)なが衣(ころも)は染めましを      
                            御坂たばらば ま清(さや)かに見む     20-4424
             
                                            右の一首、妻(め)の物部(もののべ)刀自売(とじめ)


 足柄山の御坂に立って袖を振ったらば
     家にいる妻は はっきりと見るだろうか

 色濃く夫の衣を染めておけばよかったのに・・・(そうすれば)      
           足柄の坂を通していただくとき 非常にはっきりと見えるだろうに

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埼玉県行田市藤原町1丁目八幡山古墳脇にある歌碑

 防人(さきもり)歌の中の二首です。武蔵国の埼玉郡(さきたまぐん)に住む「等母麻呂(ともまろ)」と「刀自売(とじめ)」夫婦が交わしたものです。別れと無事を祈る夫婦の情愛が率直で「俺にも、たまには袖を振ってくれ」なんて冗談めかして話題になります。


最初の難関 足柄の御坂

 足柄山が舞台になっています。防人の通知を受けて、慌ただしく「国府」(東京都府中市)に集められた等母麻呂(ともまろ)たちは、多摩の横山を越えて、相模から東海道で難波へ、そこから船で、九州へと旅をしました。その最初の難関が足柄山の「御坂」でした。

 今はハイキングコースになっていますが、当時はよほど辛かったのでしょう、死に直面することもありました。万葉集に、苦しい任務の末に、ここで行き倒れて死んだ若者を見て歌われた歌(9-1800)や恐ろしげに後も振り返らずに坂を越える歌(20-4372)があります。

 また、ここは、ヤマトタケル尊オトタチバナ姫を偲んで「あずまはや」と嘆いたように、気持ちの上で、別れの場であり、あずまの国との境目として位置づけられていました。防人にとっては、いわば住み慣れた故郷とこれから遭遇する見知らぬ世界との境界でもあったのでしょう。

 同時に、そこは「たばらば」=「たまわれば」=「通していただく」と言わなければならないような、何か神のような、おそれ多い畏敬に満ちた、また、魂を吸い取られるような恐ろしいものの宿るところと意識された場所でもありました。

 死や別れ、おどろおどろが満ち満ちたところで、夫は妻に「袖を振る」のです。
 どんなに色濃く染めたって、遠い埼玉の地で見えるはずはありません。別れの仕草に込められた、等母麻呂と刀自売の心の送り=魂振りの精一杯の合図でしょう。


歌碑は足柄に向かって立つ

 この歌の里はどこなのでしょう。埼玉郡であることは、はっきりしていますが、なにせ広大な地域、どこと確定していることではないようです。歌碑は行田市の藤原の地にあります。市の教育委員会が昭和36年に建てたもので、碑面は足柄に向かっているそうです。

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人の背丈ほどある根府川石に、二つの歌が並んでいる。
碑面は足柄山に向けられているという。

  埼玉郡(さきたまぐん)は現在の春日部、岩槻、越谷、久喜、八潮、蓮田、行田、加須、羽生市などの広い範囲が含まれる地域です。その中から、埼玉県がここを選んで旧跡(昭和19年)としました。行田市は「等母麻呂」の所属する藤原部にちなんで町名を「藤原」としたそうですから、相当の想いが込められているようです。


八幡山古墳

 歌碑は、「八幡山古墳」の脇に建てられています。主人公の出身地である「埼玉郡(さきたまぐん)」の中心地は、行田市の「埼玉(さきたま)」と呼ばれる地と考えられています。有名な「辛亥銘鉄剣(しんがいめいてっけん)」が出土した「稲荷山古墳(いなりやまこふん)」があるところです。

 その埼玉古墳群から少し離れたところに、独立してあるのが「八幡山古墳」です。歌碑から目をやると飛び込んでくるのが、下の風景です。岩がずらりと並んだ見慣れない景観にドキリとします。しかし、この歌を追っている中に、この古墳が何とも切り離せなくなるから、不思議です。

 主人公の等母麻呂と刀自売がこの辺りに住んでいたかどうかはわかりませんが、二人とも、この古墳のあることは十分知っていたはずです。 ということで、今回はここから出発したいと思います。

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目の前の大きな古墳、八幡山古墳
覆い土が剥がされて棺を納める石室が露出しているので、関東の石舞台とも言われる。

石室は細長く見えるけれど、直径約75メートルの円墳
 7世紀後半に造られたと考えられている。

もちろん、等母麻呂たちの時代には土で覆われていた。

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材料は、秩父石と房州石で
秩父や千葉から、荒川を船で運んだことがわかる。
いかにすごい権力であったか・・・。

このままでは、どう見ても、円墳とは見えない。そこで、円墳の見本を探すと
すぐ近くに「丸墓山古墳」がある(埼玉古墳群の中)

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 日本最大の円墳で、直径が102メートルある。
6世紀前半に造られたと考えられている。
八幡山古墳も覆い土を復元すればこのような形になるのだろう。

 八幡山古墳は飛鳥の石舞台に対比して、関東の石舞台とも呼ばれます。7世紀中頃の築造と考えられています。一体、どれだけの労力が注がれたことでしょう。等母麻呂たちの時代は、それから約100年後です。記憶がかすむ頃ですが、まだ、古墳の主人公の活躍ぶりや苦労話が語り継がれていたと思います。

 古墳の主は「物部連兄麻呂(もののべの むらじ えまろ)」ではないかとされています。聖徳太子の舎人(とねり)として活躍し、633年に武蔵国の国造に任命された人です。

 石室の中に残された土の中から、夾紵棺きょうちょかん=漆塗りの布を張り合わせてつくった)と呼ばれる、皇族や貴族たちが使ったのと同じ棺の破片が出てきました。
 当時の武蔵国で、そのような棺に葬られる可能性のある人は、物部連兄麻呂以外には居そうもない、ということから、その人の墓だと想定されています。 事実、この古墳の大きさは中に入ってみて驚きます。

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頑丈に入り口を支える秩父石。

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内部は大人二人が両手を伸ばして並んでも、まだ足りないほどの大石で囲われている。
超ワイドでフラッシュをたけばムードを壊すだけだろうと
自然光に頑張ってみたが、逆だったかも・・・。

政治権力は大宮方面に移った

 古墳の横に歌碑があることから、長々と古墳の紹介をしました。等母麻呂と刀自売が生きた100年前の権力の象徴と、歌碑の中から暗示される、「律令による支配」に対する等母麻呂たちの思いを代弁したいためです。

 等母麻呂たちは複雑だったと思います。
 100年も前に、都とはるか遠いこの地にある自分たちの指導者が、聖徳太子と関係を持ち、大化改新や壬申の乱を経て、藤原京との交流があった・・・。誇りにしたのでしょうか。
 一方、現実を見ると、どうしょうもない不安と予感に迫られたのではないでしょうか。

 というのは、古墳に見るあれほど強力だった政治権力は、等母麻呂の時代、すでに氷川神社(大宮市)がある足立郡に移っていて、古墳の周辺は原野か畑か水田になっていたと思われるからです。
 その歴史の重みもそうですが、もっと直接には、我が身の周りに、同じ農民同士でありながら、家族が崩壊するという、あわただしい変わり目が訪れようとしていたからです。

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大宮市の氷川神社の裏側に残されている水辺
かってこの辺一体は大きな沼で、この低湿地を利用した勢力が実力を蓄え
八幡山古墳に代表される勢力に、とって代わったらしい。

最初の頃は、秩父神社、金鑚(金佐奈=かなさな)神社などが上位にあり

氷川神社が武蔵のトップになったのは800(貞観)年代
この前後から、氷川神社をまつる足立郡の指導者が急速に力を強めた。


渡来系集団が武蔵に定着した

 権力の座が移ったことに加えて、もう一つの別の情勢が等母麻呂たちを包んでいました。大古墳に葬られた兄麻呂の時代が去って暫くすると、隣の大里郡や男衾郡(おぶすなぐん)に、新しい道具や方法を持って開発を進めるグループが増えてきました。横見郡には、自分たちが見たこともない、丘の斜面に小さな穴を掘って墓をつくる集団が現れました。  

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埼玉県大里郡川本町の「鹿島古墳群」(男衾郡 おぶすなぐん)
渡来系の開発主導者の壬生吉志福正(みぶのきしふくしょう)一族の墓と考えられている。

直径10−30メートルの円墳100基以上あるという。
この画面ではよくわからないが左側、右側と真ん中に小さいのが一つある。
7世紀中頃から8世紀始め、独立の墳丘はこんなにも小さくなる。

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埼玉県比企郡吉見町横穴墓群
吉見の百穴と親しまれている。家族墓と言われる。

独立の墳丘を持たず斜面に横穴を掘る7世紀と考えられている。

いずれも、八幡山古墳のような独立した大古墳とは違う形を示す。


次々と新しい郡が設置された

 このような動きを見て、等母麻呂の親たちはびっくりしたでしょう。その間にも、716年(霊亀2)には、東国の高麗人1799人が、それぞれの地域から集まって移転して、新しく高麗郡が設置されました。
 等母麻呂が防人に出立して3年後、758年(天平宝字2)には、新羅人の僧・尼74人とともに、新羅郡が設置されます。当然、等母麻呂が旅立つ以前に、すでに渡来系の人たちが何らかの活動をしていたはずです。
 僧・尼は先進的な知識人、技術者として等母麻呂たちの周辺にも、大きな影響をもたらせたことでしょう。

農民にも階層が出来てきた

 新しい技術や生活様式が伝わる中で、等母麻呂たちは果敢にこれらを取り入れながらも、何となく身の回りがこれまでとは違った空気に包まれていました。 出立の日も
 「あそこの家はどうしたのだろう・・・、ここは大丈夫か・・・?」
と身に迫って変化を実感したのではないかと想像します。
 
 考古学の発掘事例です。等母麻呂たちの住む家はまだ、「竪穴」が多かったようですが、各家、それぞれが「かまど」を設けて、現在に似た小家族の生活をしていたと思われます。

 ところが、「竪穴」の数が急速に少なくなったり、小さくなったり、一部では大きなものが作られたりしてきました。
 税の負担や労役に耐えられず、農民が逃亡したり、雇われ者になったり、また、家族を構成できなかったりしたのではないか。富む者とそうでない者に分かれることになったのではないか、と考えられています。

 兄麻呂のような一「郡」を代表するような権力者が、広域にわたって住民を掌握して、大きな古墳を作る時代は終わった。そして、かっての権力者の身内や何らかの実力者が新しい指導者となって、地域ごとに支配する時代になった。
 一方で、厳しい律令による支配は、やむを得ず没落したり逃亡する農民を生み出した。その農民たちを寄寓させ、囲い込んで、リーダーは、さらに私的な富を蓄える。こんな転機の時を迎えていたようです。


サマ変わり 無事の祈り

 もう少し次の時代を見るため、三年の防人の勤務を終えて、等母麻呂が無事帰郷したとします。今度は、蝦夷対策に巻き込まれて、東国は大疲弊です。刀自売がどんなに夜なべしても切りつめても、生活は火の車、塗炭の苦しさに追いやられます。

 防人はおろか税が納められなくなって、サラ金地獄、自己破産におちいります。籾を先借りして、30−50%の収穫を払う、公営・私営の高利貸し(出挙)に追われます。
 こうして、等母麻呂たちがへとへとになった後に、新しく成長した指導者による開発の時代が来て、古代の村が様変わりするようです。

 等母麻呂たちは、丁度その分かれ目の時、この動きを肌に感じながら、国府に集まったのではないでしょうか。   刀自売にすれば、先行き不安をつのらせて、等母麻呂が帰ってこなければどうなるのだろう・・・どうか帰して下さい、と祈るような気持ちで、御坂の神に「御坂たばらば」と無事を願ったのではないか、と胸が締められます。

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富山県で発見された木簡
奈良時代後期50%の利息を取ったことを記す。
(92.8.1.日経新聞)


文化水準の高さ

 それにしても、この歌、どことなく、あか抜けしていませんか!! この歌に接するたびに浮かんできます。

  あかねさす紫野ゆき標野ゆき 野守は見ずや君が袖振る      額田王(巻1・20)
  
 ここに歌われた「袖振る」とは背景が全く違いますが、等母麻呂夫婦が詠んだ歌には、東歌や他に出てくるものとは違った、いかにも東国らしい澄んだ精神性を感じます。等母麻呂夫婦の文化水準の高さに、律令の崩壊時の暗さを忘れて、暖められます。
 兄麻呂の里に歌碑があるのをうなずく次第です。

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