赤駒を
赤駒を 山野(やまぬ)に放(はが)し 捕(と)りかにて
多摩の横山 徒歩(かし)ゆか遣(や)らむ
右の一首 豊島郡の上丁(かみつよろぼ)
椋椅部(くらはしべ)荒虫が妻 宇遅部(うじべ)黒女(くろめ)
万葉集巻20-4417
日暮れの余光が残る多摩丘陵を目にする度に、切々と伝わってきます。
古代武蔵野夫人の心底からの思いやり。
「防人(さきもり)に出かける夫に、せめて馬を持たせたい。
しかし、大事な赤駒は放し飼い中だし、あまりにも急な召集だから
捕らえている間もない。
もう、二度と会えないかも知れないのに
あの多摩の横山を越えて
難波までの遠い苦労の路を歩いて行かせてしまうのだろうか・・・」
東京都八王子市 真覚寺の歌碑
この裏手から多摩の横山が俯瞰できる。
自分流の勝手な解釈で恐縮です。万葉集も最後の巻、第20巻「防人歌 武蔵国」12首の中の一首です。
年代は8世紀の中頃に当たります。防人の制度は660年代に始まったようですが、この歌は天平勝宝7年(755)に、東国の防人が最後の交替をした時の採録とされています。
「さきもり」と読むのが難しいくらい時間がたった話ですが、九州北部や壱岐・対馬の防備が役割でした。主に東国の21歳から60歳までの男に、3年の期間、徴兵の義務として課されたものでした。税金を払う代わりに、労力で奉仕するという仕組みの一つです。
しかも、弓や太刀などの武器、わらじから食費を含む経費は原則全て自分持ちということです。日々の生活に追われる農民が、自弁で遠い旅をした上で義務を果たすのですから、ただでさえ生産力の低かった時代、特別な地位にある者以外は、想像を絶する重荷だったはずです。(ただし、食料を通り道の人々が負担することがあったらしく、それが困難だとする記録がある)
府中市郷土の森の歌碑
かすかに右奥に、多摩の横山がのぞいている。
防人の召集令状が来ると、早々に(逃亡を恐れてか)「国府」に集合することになっていました。そこから役人に引き連れられて出発しました。
武蔵国の国府は、今の府中市にありました。
府中市の郷土の森博物館の一角に歌碑があります。歌碑からも多摩丘陵が望めます。この歌碑の近くを抜けて、多摩川を渡り、多摩丘陵・足柄を越えて、難波まで歩いて行ったと考えられています。(最初の頃は、府中から諏訪方面を回る東山道を行ったかも知れません。)
隊列を組んで、荷を背負って、この道を歩いたのでしょうか。
多摩丘陵の鎌倉道 町田市
武蔵から難波までは1日平均、約40キロ近く歩いて、往きは荷物があることから、約1ヶ月かかったろうと推測されています。それから舟に乗って九州の太宰府まで行き、任務に就きました。この期間は3年の任務期間に入らなかったといいます。
交替の時期は旧暦2月1日とのことで、今の3月に当たり、実際に出立したのは現在の1月中旬から2月上旬で、寒風の中を旅したことになると分析されています。
「旅衣八重着重ねて寝のれども なを肌寒し 妹にしあらねば」(20-4351)とうたっていますから、野宿もあったようです。(星野五彦 防人歌研究U 教育出版センター 昭和60年 P31〜107)
ほとんどが徒歩のようでしたが、馬で行くことも許されていました。それも、特に許されたもので、相当の資力がなければかなわぬことでした。
多分、「黒女」には、この旅が苦役の連続だという話が、耳に痛いほど入っていたと思います。夫は、無事に再び帰ってくれるかどうか、不安が重なったはずです。馬を持たせたい、だが、明日からの生活、農作業にすごいダメージがくるだろう。どうすべきか、自問自答を繰り返したことでしょう。
でも、これからの日々にどんなに差し支えることがあったとしても、夫のために馬を持たせよう。そう心に決めたのに、肝心の馬を捕らえている間がない。・・・。その衝動が、今に伝わってきます。
なぜ、こんなにまでして、防人に出かけなければならなかったのか? 当時の朝鮮半島との緊張関係による国土の防備が目的でした。 いつの時代でも、戦いに泣くのは庶民。 新ガイドライン、自衛隊の国連軍参加・・・と現在も国際緊張に対する危機の論議は続きます。 黒女の時代とは違った次元の危機に、現代の黒女の思いはさらに深刻なものがあるでしょう。
「大君(おおきみ)の命(みこと)かしこみ・・・」(20−4328)とうたって出立した防人もいました。一方で「黒女」はあるがままに夫を思いやります。「黒女」のこの心根に、夫「荒虫」がどのように応えたのか、是非とも知りたいものです。
防人歌にもいくつかペアでうたったものがあるのに、残念ながらこの歌に対するものは残っていません。
その代わり、当時の武蔵野を知る上で、とても重要な手だてを残してくれました。それを追ってみたいと思います。
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