高麗郷

聖天院から「高麗神社」に向かいます。山の麓の緩やかな道です。

聖天院から数分で「高麗神社」につきます。山全体が神社を包むようで祀った人々の気配を感じます。
大きな駐車場には「天下大将軍」「地下女将軍」の将軍標が立っています。



駐車場の南は道一本を隔てて高麗川に接していて、指導者若光が亡くなった時
「・・・新堀字大宮の中央に、いわゆる御殿の後山
(うしろやま)を背景として
高麗川の清流に臨んだ景勝の地に・・・」貴賤あい集まって祀ったという気持ちがしのべます。

二番目の鳥居をくぐって、明治19年に開かれた「温知学校跡」を左手に見ながら進むと

高麗神社建物の全景が目に入ります。

石段の上の社殿の額が注目です。

「高麗神社」の高と麓の間に「句」の字が小さく彫り込まれています。
歴史上「高麗」と「高句麗」は全く別の王朝であることを区別するため、明治の末に入れたそうです。

主祭神は「高麗王若光」です。若光が亡くなった時
貴賤があい集まり、御殿の後山に霊廟をたて高麗明神として崇めた
と高麗氏系図の冒頭に書かれています。

系図では長子・家重が後を継ぎ、三男の聖雲が聖天院・勝楽寺を建立したと伝えます。
神職は代々高麗氏が勤め、59代といわれます。
高麗神社では「高麗神社と高麗郷」という小冊子を頒布しています。
その中に系図も集録されています。


 さて、この神社の縁起はどのように語られるのでしょうか。系図では先に記したとおりです。埼玉県の解説板から紹介します。

高麗神社

 高麗神社は高句麗の王族高句麗王若光を祀る社である。高句麗人は中国大陸の松花江流域に住んだ騎馬民族で、朝鮮半島に進出して中国大陸東北部から朝鮮半島の北部を領有し、約700年間君臨していた。その後、唐と新羅の連合軍の攻撃にあい668年に滅亡した。この時の乱を逃れた高句麗国の貴族や僧侶などが多数日本に渡り、主に東国に住んだが、霊亀2年(716)そのうちの1799人が武蔵国にうつされ、新しく高麗郷が設置された。

 高麗王若光は高麗郡の郡司に任命され、武蔵野の開発に尽くし、再び故国の地を踏むことなくこの地で没した。郡民はその遺徳をしのび、霊を祀って高麗明神とあがめ、以来、現在に至るまで高麗王若光の直系によって社が護られており、今でも多勢の参拝客が訪れている。

           昭和57年3月           埼玉県

 なお、最近、この解説板は設置者のところが「日高市」に改められています。文章は同文です。さらに、日高市は平成14年に、別に、案内板を新設し、次のように突っ込んだ案内をしています。

古代高麗郷と高麗神社

 日高市に中心を置いたと考えられられる高麗郡の始まりについて続日本紀に「霊亀2年(716)5月、甲斐、駿河、相模、上総、下総、常陸、下野7ヶ国から高麗人1799人を武蔵国に移し高麗郡を創建した」と記されています。この時、高麗郡の長となったと考えられているのが高麗神社の祭神で高句麗からの渡来人であった高麗王若光でした。

 その後裔で代々高麗神社の宮司を務める高麗氏系図には、「若光が没すると郡民はその遺徳を讃え御殿の後山に霊廟を建て神霊を祀り高麗明神と称した」と当社の創建を伝えています。

 日高市市内には8世紀前半以降の集落跡や女影廃寺、大寺廃寺、聖天院の前身と考えられている高岡廃寺などの古代寺院跡や須恵器の窯跡といった高麗郡建郡以降の遺跡が数多く存在し、古代高麗郡の栄華を知ることができます。

 高麗神社には12世紀(鎌倉時代)の「大般若経羅密多経」(国指定重要文化財)を始め、高麗神社本殿(県指定文化財)、徳川将軍家社領寄進状(市指定文化財)といった有形文化財のほか、10月19日の例大祭に氏子によって奉納される獅子舞(市指定文化財)も行われています。また、高麗氏所属の文化財として17世紀の建築といわれる高麗家住宅(国指定重要文化財)、高麗氏系図(市指定文化財)があります。

           平成14年5月              日高市

万葉の時代に近づいたが・・・

 やっと万葉の時代に近づきました。しかし、

 『日高市市内には8世紀前半以降の集落跡や女影廃寺、大寺廃寺、聖天院の前身と考えられている高岡廃寺などの古代寺院跡や須恵器の窯跡といった高麗郡建郡以降の遺跡が数多く存在し、古代高麗郡の栄華を知ることができます。』

 という解説を頭に置いて、高麗本郷を歩いて不思議に思うのは、あれだけ若光を中心とする高麗家の史跡が残っていながら、なぜか、

 奈良時代の大規模な集落跡に出会えない
 高麗郡の役所であった「郡衙」や「郡寺」の史跡に出会えない 

 ことです。遺跡がないのではなくて、それらは、もっと東寄りに沢山候補地が上げられています。

  高岡廃寺、大寺廃寺、女影廃寺などの位置を示す図です。おおまかに高麗郡の全域をおさめてあります。これまで巡ってきたところを全体の場から眺めるとどんな位置を占めているのかを知るために作りました。

 高麗氏に直接関係するものは全て高麗川の北側にあります。楕円形に斜線で示した奈良時代の集落遺跡集合地は現在のところ全て高麗川の南側で小畔川、下小畔川、南小畔川の流域にあります。

 女影廃寺付近は若宮遺跡と呼ばれ、高麗郡衙、高麗郡寺の比定地の一つになっています。上猿ヶ谷戸遺跡、光山遺跡は716年高麗郡創設直前に先遣的に開発されたのではとの指摘をする極めて魅力的な説があるところです。図中央から下にある張摩久保遺跡、堂ノ根遺跡は常陸製須恵器が多数発見されたところで、建郡時の常陸からの移動を裏付けるとの魅惑的な説があります。

 高麗郡については広範に考える必要がありそうです。

 これら全体から見ると、どうやら、高麗氏の関係する地域は他とは異なった特別の意義を持つ地域なのではないでしょうか。平成12年に発行された「日高市史 通史編」では

 『・・・高麗川以北の地域は高麗氏によって奥津城として位置づけられ、祖先をまつる聖域として扱われたと考えて良いのかもしれない。』(p117)

 としています。何回か歩いてみて、頷かされました。高麗錦の万葉歌がよまれたような雰囲気のあるところは女影廃寺のある辺りのような気がします。しかし、決して、巾着田に歌碑が設置されていることを否定や非難するものではなく、あの場所は特別に雰囲気がよく、また別種です。高麗郡建郡の頃については別のページにまとめます。

 帰途は高麗川駅に出たいと思います。

高麗神社に接して「高麗家住宅」があります。17世紀の建築とされ国指定重要文化財になっています。
前面は道路を挟んで駐車場になっていますが、その先は高麗川に接しています。
山を背後に、高麗川を前にする高台に、絶好の場を占めています。

神社・高麗家の前の道は、カワセミ街道と名付けられ、S字カーブの続く里道です。

道しるべも凝っています。画像の落としすぎで申し訳ありません。

高麗神社付近の新堀地区は高麗錦の生産地を思わせるかのように、桑畑が広がっています。
ここまで来ると、駅まで、20分もかかりません。

JR高麗川駅には、一切の装飾がなくアッケラカンとしています。
歩いてきた道を思い出すにはいいのかも・・・。

高麗郷1へ

高麗錦紐解き放けて へ

高麗郡へ(工事中)

ホームページへ