高麗郷(1)

このページは万葉の時代の高麗郷を発見したいための史跡訪問記です。
高麗郡と高麗郷・上総郷の持つ意味などについては次のページにお進み下さい。

高麗郡建郡(創建)の頃へ(工事中)

高麗郷へは電車利用なら、西武鉄道池袋線「高麗駅」かJR八高線・川越線「高麗川駅」を降ります。



高麗駅から回ってみます。
駅を降りると「天下大将軍」「地下女将軍」のトーテムポールが出迎えてくれて
異国情緒の中、古代の高麗郷に招き込まれたような気がします。

猛烈に大雑把な地図ですが、高麗郡を大まかにまとめました。
図の右側中央に西武池袋線「高麗駅」、駅を降り線路を回り込むように越して巾着田に向かいます。

途中、江戸時代の高札場や水天(天保10年)の碑があります。
ゆっくり歩いても10分足らずで高麗川が見えます。

高麗川は曲がりくねった自然流路を豊かに残し、そこここに袋状の姿が見られます。
巾着田もその一つで、流路は多少違っても、万葉の時代の姿を残しているかも知れません。
橋を渡れば高麗本郷(こまほんごう)です。

県道川越・日高線には、その名もズバリに「高麗本郷」の交差点があります。

霊亀2年(716年)5月16日、甲斐・駿河・相模・上総・下総・常陸・下野の七カ国
の高麗人1799人を集めて武蔵国に移し、高麗郡を置く。(続日本紀)

その本郷かと思うと緊張します。
家々は日和田山の麓の南面に広がり、緩やかな斜面を利用したたたずまいが「里」を感じさせます。
交差点から細路を南に入れば万葉歌碑のある巾着田です。

日高市の巾着田管理事務所があって、ガイドマップが用意されています。
万葉歌碑を訪ねる人はポツポツで、曼珠沙華と野鳥の多さで人気があるとのことです。
高麗本郷125−2(電話 0429−82−0268)

最初の移住者が水田耕作をするにはもってこいの場所、目の付け所にサスガと感激です。
しかし、今は、一面に水田であった情況はなくなり草原化しています。

元に戻って、高麗本郷の交差点を左に入って高麗川に沿うように坂道を進むと
聖天院(しょうでんいん)、高麗神社に出ます。


管理事務所に用意されているガイドマップの裏側が案内図になっていて
史跡や歩きの所要時間が手際よくまとめられています。
どこが万葉の時代の本郷だろうと、聖天院(図右上)へと高麗川に沿うような形で進みます。

道はなだらかで、庚申塔や出羽三山供養塔などが並んでいて、山里の雰囲気を残します。
ただし、いずれも江戸時代のものと見受けられます。

丘陵部に接するように耕作地や人家があり
平地が少なく、奥行きのあまりない地域が続きます。畑作中心で水田は無理のようです。

「あっ水田だ」と周囲の雰囲気の違いに気がつく時、そこが聖天院です。
聖天院は高麗氏一族の菩提寺とされます。

霊亀2年(716年)の高麗郡創設の際、指導的役割を果たした「高麗若光」や
その氏族歴代が祀られているとされます。とすれば、この地は高麗郡の創設地、中心地になります。

また、建郡以前、日本書紀などが伝えるように武蔵国には朝鮮半島からの渡来の人々が住んでいました。
高麗の人々もいたはずで、例えば、名前のはっきりしている「背奈(せな)福徳」です。
続日本紀に「唐の将軍李勣(りせき)が平壌城を陥落させた時(668年)、武蔵国に居住した」
(延暦8年10月17日条)との記事があります。

時代からすれば若光が渡来した時期(666)と同じ頃になります。
万葉集にも名を残す明経第二博士になった「背奈行文」(せなのゆきぶみ)の父親です。
後に武蔵国府の守となる高麗朝臣福信(こまのあそんふくしん)の叔父に当たります。

ここに名を連ねる中央でも活躍し高麗郷とは切っても切り離せない人達
それらの人達も祀られているのでしょうか。その気配は残っているのでしょうか。

トーテムポールとどっしりとした山門があります。
二層楼閣(ろうかく)、瓦葺総欅(かわらぶきそうけやき)木造、日高市の指定建造物となっています。

スゴイもんだと見るたびに感心しますが、江戸時代の作。
風神(右)、雷神(左)が祀られていて、独特な風貌に惹かれますが、やはり江戸時代?

本堂は立派に建て替えられています。
職人の一団が、扉の造りを見て、「今時、よくこれだけのことができるな・・・」と呟いていました。

聖天院の境内には阿弥陀堂があります。
内部に室町様式を残すもので、貴重な建物ですが、万葉の時代とは時代を異にします。
他に元禄4年の銅鐘があります。

こうしてみると、目に見えるもので万葉の時代を告げるものは見当たりません。

山門の横に「若光」の墓と伝える朝鮮様式の多重塔があります。
若光(じゃっこう)は高麗郡創建の時、主導的役割を果たしたと考えられる人です。

経歴はあまり詳しくはわかっていませんが、天智5年(666)10月26日
高句麗王が使者を飛鳥に送って来た時、その中に「二位玄武若光」がいます。
この人物が後の若光ではないかとされます。

668年高句麗が滅び、若光はそのまま日本に滞在したようです。
大宝3年(703)4月4日、若光は王姓をうけます。

そして、霊亀2年(716)5月16日、武蔵に高麗郡が置かれ、各地の高麗人が移ってきます。
その指導者が若光と考えられています。
この点について日高市の説明板は次のように記します。

聖天院の由来

 続日本紀によれば、今から1300年前高句麗滅亡によってわが国に渡来した高句麗人のうち甲斐、駿河、相模、上総、下総、常陸、下野7ヶ国から高麗人1799人を716年(霊亀2年)に武蔵国に移し高麗郡を置きました。現在の日高市は高麗郡の中心をなした地域と考えられ1889年(明治29年)まで高麗郡でした。

 高麗王若光は高麗郡の長として、広野を開き産業を興し民生を安定し大いに治績を治めました。勝楽寺は若光が亡くなったあと、侍念僧勝楽が若光の菩提を祈るために751年(天平勝宝3年)に建立しました。若光の三男聖雲と孫の弘仁が勝楽の意志を継ぎ、若光の守護仏聖天像(歓喜天)を本尊としました。その後、開山以来の法相宗を真言宗に改め、1580年(天正8年)には本尊を不動明王にしました。当代まで実に1250年間途絶えることなく継承されています。

 2000年(平成14年)には、山腹に新本堂を建立し同時に在日韓民族無縁の慰霊塔を建立されました。

                 平成14年5月             日高市

詳細が知りたい

 日高市の説明では、勝楽寺は天平勝宝3年(751)に建立されたとしています。発掘の結果、近くにあった「高岡廃寺」がその前身であろうとされます。それらについては別にまとめる予定でいますが、遂に万葉の時代に行き着きそうです。

 しかし、朝鮮様式の多重塔は鎌倉時代のものとされています。つながりの出てきた「高岡廃寺」はゴルフ場の一角になっています。結局は現在目にすることのできるものには、直接万葉の時代を語るものはなさそうです。そして、聖天院、これから紹介する高麗神社のいずれの地域からも、歌の舞台となるような奈良時代の大規模な集落跡、郡衙跡は発見されていません。

 それに、背奈福徳、背奈行文の系統はどうなっているのでしょうか。ぱったり途絶えます。

 高麗郡の中心地といっても、この地域は高麗錦の万葉歌がよまれるような雰囲気ではなく、もっと別の特別の様相を持っていたようです。それらについて、早く詳細を知りたいものです。

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