黒船と丘陵の村(1) 黒船騒動は丘陵の村々にも、やってきました。 この時は、どうにか、浦賀奉行が、大統領からの国書を受け取ることによって 通商開港の要求を前に
江戸の出口四か所の固め 何と、最初に届いた命令は ペリーの再航は嘉永7年(1854)1月16日でしたが、その日に早くも、代官江川太郎左右衛門からの命令が村々の長に出されました。幸い、その写しが残っていて、内容を知ることができます。 『近頃、異国船が度々渡来することについては、かねてから、領分知行(大名領、旗本知行所)へ、人馬の用意を申しつけて置いた面々もあるようだが、この度の異国船渡来の模様をみると、(身体)壮健の者共は近々江戸表へ出動するようになるかも知れない。自然(こうしたことをきっかけに)、無宿者や悪党が立ち回り、乱暴し、御府内に立ち入ることも計り難いからだ。 ・・・・(中略)関東は広いので、なお悪党者が入り込まないように出口四ヶ宿は勿論、支配所内の脇往還入り口の村々は取り締まりを特に厳重にするようにと、本田加賀守殿(ほんだかがみのかみどの)から各代官に指示があったので、その意を得て、支配所内脇往還入り口村々は勿論、その他の村々においても、この趣旨を心得て、取り締まりを厳重に取りはからえ。もっとも、出役(関東取締出役)を派遣することも考えているが、村役人は「精々」取り締まりせよ。この廻状の村名の下へ名主は請印をして、時刻を明記して順に送り、最後の村から返却せよ。 以上 注
次は、疑わしき者、長脇差し者の差し押おさえ 息つく間もなく、今度は、関東取締出役から、村々の名主に、「御達」(おたっし)がきます。 ・村人たちは、理由のない外出をせずに というものです。右は「旧蔵敷村名主内野家所蔵 里正日誌 」を印刷した、「里正日誌 第7巻 東大和市教育委員会」P23 『このところ相模の国浦賀辺りに異国船が来ているので、・・・・組合村々は、よく申し合わせ(相談し)て取り締まりをせよ。もし疑わしき者あるいは長脇差しを持った者を見かけたら、直ちに差押さえ(捕らえ)、もよりの関東取締出役の廻村先へ届け出よ。 人気不穏という虚につけ込んで、悪徒たちが村々へ立ち寄る可能性があるので、(村人)たちは理由のない外出をせずに、火の用心に心を配り、お互いに相談して、村ごとに取り締まりをせよ。 また、(村の役人は)村の中をたえず廻村して無頼の者共を召し捕らえよ。この旨を村々の者たちに早急に申し伝えよ。この廻状は時刻を明記して順番に伝え、最後の村から返却せよ。 以上 当時の幕府が恐れたのは、支配が崩れ始めた村々の治安の乱れで、それを引き起こすきっかけとなる、無宿者や悪徒の乱暴だったようです。 この命令は1月19日に出されました。伝達の方法が、この時代をよく表しています。まず、「所沢村」(現在の埼玉県所沢市)へ、周辺の村、48ヶ村の代表が呼び出されました。その席で、関東取締出役の山口顕之進(やまぐちけんのしん)、内村晋平、広瀬鐘平(しょうへい)から、「厳重取り締まり方仰せ渡され」る方法で伝えられました。 支配体制の二つの命令を紹介しました。これらの命令にたいし、村人はどのように反応したのでしょう。村人達の約束をした文書が、東大和市蔵敷の旧家に残されています。 丘陵の南の「蔵敷村」でのできごとです。 『右の(上記)通り取り決まった上は、小前(百姓)も竹槍や竹螺(たけほら)を用意し、村役人の役宅で盤木の音を聞いたならば、直ちに槍を持って駆けつけます。もし、悪党共がどこからか押し寄せてきたならば、竹螺を撃ち(で知らせ)ます。その時は、一村の者共(村中の者が)かねて用意した道具を持って駆けつけます。 この節、異国船渡来のことについて、その筋(勘定奉行)より村々の中の取り締まりを厳重にせよとの御沙汰は有り難いことです。 したがって、(我々は)農業渡世を怠りなく専一に励むことに心がけます。御法度(法に触れること)のことや、人寄せ(人を集めること)のようなことは決して致しません。もし、心違いの者があれば、その組合(所属する五人組)にて、相互に心付け(注意しあい)、きっと取り締まりいたします。 万一背く者があれば、組合一同(所属する五人組一同)いかようにもお取りはからい下さい。(処置されてもても異存ありません)後日のため連印を押して差し出します。 嘉永6年正月23日 読みやすくするため、安島が意訳し、行を変え、( )を加えました。 今から考えると、よくも、こうスムーズにいったもんだと、多少、まつげをなでるようですが、いろいろの背景のもとにつくられたのでしょう。 多分、この頃には、多摩の農民は、疲弊する農村を目の前に、攘夷・開国のうねりの中で、支配体制の揺るぎ、対外政策を論ずる風潮を身近に感じていたはずです。当然に、もっと違った反応もあったことだと考えます。 紹介したのは、丘陵の麓の村であった、貴重な一つの実例だと思います。是非とも、他の地域での動きを知りたいものです。文章の原本は「旧蔵敷村名主内野家所蔵 里正日誌 」にあり、これを印刷した、「里正日誌 第7巻 東大和市教育委員会」P20〜27、「東大和市史資料集7 里正日誌の世界」P19−26に記載されています。
悪徒や長脇差しを持った者がなぜ生まれた? 農民は、農業の合間に、現金収入を得る手段を取り入れることが、生活を送る上で必要になりました。「農間渡世(のうまとせい)」「作間稼(さくまかせぎ)」と呼ばれます。江戸の周りで起こった現象で、当時の商品経済のメッカであった大阪に対して、「江戸地回り経済」といわれます。 農業生産品が商品化するにつれて、あっという間に、肥料や種籾、日常生活品なども商品経済に組み込まれました。これに、一般の農民が、上手に対応できればよかったのでしょうが、まだ、うまく対応しきれないところへ、不作による飢饉がありました。また、多摩地方の特色ですが、一つの地域を、幕府と旗本の両方が支配するという、複雑な支配体制のもとでの年貢・諸役が加わりました。 このため、借金がかさんだり、借金のかたに農地を失ったりして、窮迫、没落する農民がでました。その人たちは、出稼ぎで江戸市中に流れ込んだり、村を逃げ出(逃散)したりしたので、村は人口が減少し、意欲も減退して、農村が荒廃したといわれます。 江戸に働き口を求めた村人、離農したり逃亡したりした村人の中には、無宿人や流浪人となったり、悪徒、侠客、ばくち打ちなどになる者がありました。また、武士階級からの浪人も加わりました。文章に出てくる、悪徒や長脇差しを持った者はこうした人をさすようです。 一般の農民の間では、生活の苦しさ、社会不安も手伝って、伝馬騒動、一揆や打ち壊しなどが起こっています。文章の中の「農業専念」「人寄せ禁止」などは、農民の農業放棄、騒動参画などの防止が念頭にあるのでしょう。
紹介した文章の中で、大きな役割を果たしているのが「関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく)」です。細かいことは避けますが、文化2年(1805)に制度が作られたもので、関東の中を(天領、私領、寺社領の区別なく)巡回して、犯罪捜査、犯罪人逮捕をすることを任務とする組織です。 この組織の生まれた背景が、上に書いた農村荒廃と密接な関係があります。幕府は荒廃する農村の復興策を打ち出します。出稼ぎを制限したり、帰村費用の援助、農具代の貸付など農業の基盤をしっかりさせることに留意したようです。そして、もう一つが村の治安維持でした。従来の小さな村々では処理しきれないほどの無宿人や流浪人、悪徒の出現で、村の治安ばかりでなく社会不安の様相さえありました。 また、小さな領地を支配する旗本・ご家人=小領主も、疲弊を極めてきました。幕府も財政が破綻状況になり、旗本に与えられていた知行地を取りつぶして、幕府直轄支配の「天領」にする動きを見せます。一方で、農村が荒廃し、他方で、支配体制そのものにゆるぎが出るという、従来の農村支配機構では、おさまりきれない状況に立ち至りました。 ここで行われたのが、新しい取り締まり組織の創設です。従来の直轄地(天領=幕府が直接年貢を徴収する土地 諸事務を担当したのが代官)、知行地(私領地=旗本・ご家人に与えられた=個別の領主 地頭)、寺社領地、村の名主、五人組制度などは、そのまま残した上で、広域な警察組織をつくりました。 これが、勘定奉行直轄の組織として設けられた「関東取締出役」です。なを、広域な警察組織であると同時に、農民の「農間渡世」「作間稼」の調査がそのねらいにあったとされます。農民を生業の農業に専念させ、新規の「農間渡世人」の増加を抑制する任務を帯びたのでしょう。 それが、創設後50年、黒船騒動の起こる嘉永年間には、村の名主を集めて、命令を下すほどになっています。村の秩序の動揺を抑え込む動きが見えます。 所沢村組合 1月19日の文章の最後に「所沢村他四十七ヶ村組合」という言葉が出てきました。「所沢村」へ、周辺の村、48ヶ村の長が集められて、お達しを聞いた部分です。ここにも、面白いことがあります。 @最初にどんな村が集まったのか
こうしてみると、清瀬市から始まって、東村山市、東大和市と狭山丘陵南側、そして所沢市と三芳町の狭山丘陵北側の地域の村々であることがわかります。しかも、当時の多摩郡と入間郡が一緒になっています。この時期、これらの村々はグループ化され、一帯として扱われていたのでした。そして「所沢村組合」と呼ばれました。 東大和市の当時の「芋窪村」は武蔵村山市、瑞穂町と一緒に「拝島村組合」に入っています。この地域が拝島と結ばれていたことがわかります。入間市の地域は「扇町屋村組合」に入りました。こうして、狭山丘陵の麓の村々は「所沢村組合」「拝島村組合」「扇町屋村組合」の三つに区分されていました。 所沢、拝島、扇町屋は「親村」「寄場」といわれ、それぞれの組合村の中心となる役割を果たしました。この構成は、明治維新による、市制町村制にいたるまで、むしろ昭和まで、なんらかの影響をしています。 A所沢村組合とは何なのか? なぜこのような広域にわたった村々がつくられたのでしょう。日常生活の村とは違った、半ば強引につくられた広域の村です。先ほどの関東取締出役の設置の背景と深い関係がありそうです。この制度は、文政10年(1827)につくられました。天領、私領、寺社領の区別に関係なく、約40の村々を集めて、取締組合をつくるように指令が出されます。何しろ、通達、裁判それぞれに、天領、私領、寺社領と分かれて、別個に行われていた時代です。 それでは、もう済まなくなりました。何やら、現代の地方分権のテーマみたいですが、現実的にも、非能率、閉鎖性からのマイナスが出て、改善が求められていました。一方で、幕府はその支配権を統一して、集中したかったようです。 よっぽど勘定奉行のもとに、巧者がいたのでしょう。地域的に似通った村を集めて、広域の村に再編成する案でも出したのでしょうか。それに、現在の支配を混乱させてはいけないとの配慮が加わったのでしょうか、次のような仕組みを実施することになりました。 @日常生活を送る村の支配、制度は元通りとする こうして、発足することになり、組合村の役人には、たいてい地元の富豪で名主などの有力者がなりました。各地で発見されている「議定書」は実に内容が多岐にわたりさまざまです。 関東取締出役は警察権の行使を通じて、関東を幕府が一元的に支配する基盤を再編しようとするためのものであったとも考えられます。しかし、広域に接することになった地元では、情報量も増え、自治の芽生えも起こります。 多分、こうした中から、紹介した文章には書かれていない、幕末から維新へのうねりが育てられたのでしょう。 (99.09.28.記)
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