Suzuki Media / Horai Tsushin
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No.16 -2003.2.28


 またまた半年ぶりになってしまいましたが、ご容赦ください。ラオス、ベトナムについては、インターネット事情など、また書く機会があるかと思います。

////////////初めてのラオスとベトナム//////////////////////////////////////


 最初に海外へ行ったのは、大学4年のとき。友人と2人で西ヨーロッパを1か月半ほど回った。別に何と言うこともない、目ぼしい観光地を回り、安くておいしいそうなものを食べる物見遊山だった(美術館だけはたっぷり見た)が、毎日宿を決め、食事を食べるだけでも大変な(英語が達者じゃないから)旅行は、けっこうハードで、友人と喧嘩もたっぷりした。日本に帰って1か月以上は、カルチャーショックかどうかはわからないけれど、ぼーっとしていた。お陰で(かどうかわからないが)、就職試験もままならず留年して大学5年生になった。
 当時海外旅行としてはごく普通の西ヨーロッパへ行ったのは、特に理由があったわけではない。当時は、インドに行く友人もいた。ヨーロッパならいろんな国を回れると思ったのが、理由の一つだろう。それともうひとつ、西ドイツ(当時)に知り合いがいて、そこを訪ねていけるというのも大きかった。
 考えてみると、そのあと、イギリス、ベルギー、アメリカなど、プライベートで何度も海外に行っているが、どこも知り合いがいる場所だ。
 別に避けていたわけではないのだが、これまでの45年間、アジアのほかの国に行く機会はなかった。意識の奥底には、60年前に日本軍が蹂躙した国々に、観光というだけで行くのは抵抗があるというのもあった。でも、アジアのどこかに知り合いがいて「来ませんか」と言われれば、喜んで行ったと思うから、その意識にも怪しいところはあるけれど。

 そのうち、妻が韓国語を勉強したり、知り合いがモンゴルに会社を作ったりして、アジアへ行くきっかけは少しずつ見えてきた。韓国経由でモンゴルに行きたいと思っていた時期もあったが、思いがけず、2002年3月に仕事で8日間モンゴルへ行くことになった。
 これについては、前回の15号で触れているとおりだ。モンゴルにインターネットの調査に行ったのだが、これがきっかけとなって仕事が広がった。日本センターがあるのは、モンゴルだけではない。現在は、モンゴルも含めて、ラオス、カザフスタン、ウズベキスタン、ベトナム(ハノイとホーチミンの2か所)の5か国、6か所にある。今後、カンボジア、ミャンマーに開設の予定もある。
 他でもインターネットの調査を、ということで、10月にラオスとベトナムに行くことになった。モンゴルは知り合いもいたしそのうち行ったかもしれないが、思いがけず東南アジア、ベトナムとラオスに行く機会が向こうからやってきた。
 1956年生まれの僕にとって「ベトナム」というのは、けっこう大きな意味を持っている。ベトナム戦争が終わった1975年には19歳で、日本の半分が反対し、日本の半分が荷担していたベトナム戦争は、大きな意味を持っていた。高校生の時には、「ベ平連」のデモに出かけたこともある。1975年4月30日、サイゴン(現在はホーチミン)の大統領官邸に戦車が入り、北ベトナム(当時)国旗が翻ったのをテレビで見たのは今でもよく覚えている。
 ベトナムは、相撲で言えば、土つかずの横綱アメリカに一矢を報いた前頭筆頭の小兵力士のような存在なのだ。もちろんベトナム戦争にはいろんな側面があるし、アメリカ国内でも戦争に反対していた人はたくさんいたわけだけど、中国、フランス、日本、アメリカとさまざまな国に占領され続けたのを跳ね返し、ベトナム戦争にようやく勝って、長い間かけて自分たちの独立を取り戻した、ベトナムの人たちには、素直に拍手を送りたくなるのだ。
 そんな思い入れもあるベトナム、そしてラオスに行けるというので、期待はふくらんでいた。そして、ラオスもベトナムも予想通りに素敵な国だった。今度は仕事ではなく、プライベートでぜひ行ってみたいと思う。

 今回の旅行は、ビエンチャン(ラオス)→ハノイ(ベトナム)→ホーチミン(ベトナム)の順に回った。観光案内を読むと、逆のベトナム→ラオスというコースが多いらしくて、人も多く喧噪のベトナムから、人口も少なく静かなラオスに行くと物足りなく思うということが書いてあった。
 確かに、ビエンチャンは静かだった。ベトナムへ行った後には、なるほどそうだったと感じだが、僕の今住んでいる福島県は東京に比べれば人口も少なくずっと静かなので、最初に、タイのバンコク経由でビエンチャンに着いたときは、首都にしては人が少ないし静かだと思う程度だった(人口約80万人)。
 かといって、ビエンチャンに活気がなかったわけではない。空港からホテルまでは車で15分くらい。10月半ばの夜のビエンチャンは、ちょうど日本(たとえば僕が生まれ育った静岡)の真夏くらいの温度湿度で、恋人同士や時には男同士、女同士で相乗りしたバイクが所狭しと走っていた。混雑はしているが、警笛を成らすわけではなく、車とともに整然と流れている。
 何だか子供の頃に見たような懐かしい光景のような心持ちがして、不思議だった。通りに沿って並んでいる家や店は、もちろん東南アジア風で日本とは違うのだけれど、その差異を超えて懐かしさが感じられる。
 これはベトナムでも同じだったけれど、ラオスでは、どの食堂(レストランというより食堂)に入っても、おいしいものを食べることができた。はずれの店がなかった。東南アジアは食物が豊かだ。日本のように、冬は作物がとれずに保存食に頼るということもない。特にメコンデルタ周辺は、果物はいくらでも採れるし種類も豊富、海や川では魚も捕り放題らしい。食物が豊かなのは、ベトナム戦争当時にサイゴンの特派員だった近藤紘一さんも、南ベトナム(当時)では、戦争が激しいときでも余った食べ物は捨てていたと書いている。日本のように、戦争中に食物不足に苦しんだということはないのだ。
 食物が豊かだと、人々の舌も自然と肥えてくる。まずい食堂はやっていけないから、どの食堂もおいしいということになる。おそらく、そういう理由だろう。

 ベトナムでは、フォー(麺)など食べ物のおいしさはもちろん、人々の活気に驚いた。道路にあふれるバイクの数の多さは壮観だった。ひっきりなしに鳴らされる警笛は耳をつんざくばかりだ。歩道にも、人があふれ、そこここに屋台や物売りが場所を閉め、バイクが勝手に駐めてあり、歩くのにも難儀する。
 最初は、これは何とも騒々しくせわしないところだとうんざりもしたけれど、そのうち慣れてしまった。そうすると、この活気が何とも心地よいものに思えてくる。
 ホーチミンでは、その旧大統領官邸(現在は統一会堂)の前も通った。中まで見学する時間はなかったが、庭には、75年に突入した2台の戦車が展示されていた。他にも、ベトナム戦争を展示する博物館をいくつかみた。ホーチミンの60qほど郊外のクチにあるベトコン(南ベトナム解放民族戦線)の掘ったトンネルも見学した。ここは、300kmにわたって何層にもなっていて、その一部が観光用に開放されてガイド付きで見学できるようになっている。ここを見ると、アメリカが作ったベトナム戦争の映画で、ベトコンがどこからともなく現れて、行軍する米兵の一人を殺してはまた姿を消すというシーンの謎解きができる。
 ビエンチャン4泊、ハノイ4泊、ホーチミン3泊の駆け足で、インターネット関係の調査が中心だから、観光旅行的なところはあまり行けなかったが、初めての東南アジアは刺激的で、考えるところも多かった。一番思ったのは、やはり日本人はアジア人でもあり、近隣のアジアのことは知らなくちゃいけないし、行って体験してこなければいけないということだ。これからもっと心してアジアについて本も読んで勉強したいと思うし、機会があれば、ほかのアジアの国にも出かけてみたいと思う。
(2003.2.28)

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