第6日(平壌→九月山→信川→沙里院・正方山→平壌)


 朝起きて朝食をとるために下に降りていくと、ロビーにはホテル従業員が大勢集まって、玄関前に整列していた。VIPの到着か、と思ったが、そうではなくて出発であった。訪朝中のソウルの地下鉄労働組合の議長が帰国するのであった。ソウルの地下鉄労働組合の議長へのインタビューが、メーデーの日の夜のテレビニュースに出ていたから、来ていることは知っていたが、我々のホテルに泊まっていることまでは知らなかった。

 我々もしばらくロビーで見ていたが、議長はなかなか出てこないので、レストランに行って食事を始めた。かなりしてから議長が現れたらしく、ロビーの方から拍手が聞こえてきた。

「今日は火曜日で北京行きの飛行機がある日だから、北京経由で帰るのだろう」

とリピーターの人が言っていた。通常、板門店を通って直接南北を往来することはせずに、第3国を経由するのが普通なのだそうだ。

朝の市電は通勤客で満員。

 今日は、クウォルサン(九月山)、シンチョン(信川)、チョンバンサン(正方山)の観光である。まず、平壌から西に向かい、ナムポ(南浦)を目指す。途中、軍人が所々で作業しているのが見えた。そのため、案内員から

「南浦に着いて、こちらからいいと言うまでは写真撮影は絶対禁止」

と固く注意された。

 南浦が近づくにつれ、作業している人数が増え、軍人だけでなく、一般の人も目立つようになってきた。平壌−南浦間の道路は建設からすでに30年が経って老朽化しているので、新たに高速道路を作っているのだそうだ。道端には、

「敬愛する指導者、21世紀の太陽、金正日同志の指導の下、平壌南浦高速道路の早期完成のために全力を尽くそう」

と書かれた看板が見られる。南浦市に近いところでは、ほとんどが狩り出されたと見られる一般市民が作業をしていた。自分の受け持ちの場所まで、スコップやバケツなどを持って出掛ける市民が、列をなして道端を歩いていた。

 我々のミニバスは南浦市内を通り抜け、有名なソヘ・カンムン(西海閘門)に通ずる道路に入った。南浦市内の様子は、開城市内と似たり寄ったりで、やはり80年代初めの中国の地方都市に似ていた。

 西海閘門とは、大同江の河口に建設された、全長8kmの開閉式ダムのことである。大同江下流は傾斜が緩やかなため、満潮時には海水が平壌までも達したという。そのため、大同江は氾濫しやすく、また、氾濫すると被害が大きかったという。平時でも大同江の水は塩分を含むために飲料水ならびに潅漑用水としては不適で、水は別に確保しなければならなかった。それに、南浦から大同江の対岸の黄海道に行くには、一度平壌の近くまで行ってから橋を渡って戻ってこなければならず、大変な遠回りであった。これらの問題をすべて一気に解決したのが、この西海閘門である、ということであった。海水をせきとめるので上流側は淡水になって農業用水や上水道として使えるし、ここを渡れば対岸にもすぐに行ける、という訳である。西海閘門の上は車道のみならず、鉄道線路も敷かれていた。

西海閘門を渡る。

 対岸に渡ると、そこからは田舎道が続く。めったに見る機会のない、北朝鮮の農村風景が続く。途中、かの有名な木炭車を2度見かけた。話には聞いていたが、実物を見たのはこれが初めてである。一見すると、荷台に大きな壷を乗せた軽トラックのようである。実は、この壷のようなのが焼却炉で、トウモロコシの実の芯などをこの中で燃やし、その熱を動力源として車が動くようになっている。

黄海道の農村。

田舎道を行く。

 このように田舎道を行くのはいいが、ただ、山道の曲がり角で軍のジープと出会い頭に衝突しかけ、一瞬ヒヤッとしたことがあった。それで、それまで助手席に座っていたP案内員は、2列目の座席に席を変わった。皆が

「怖くなったんでしょう」

と言うと、

「いえ、あの席は日が当たって暑いんですよ」

と否定していた。

 しばらく行くと、クウォルサン・ユウォンジ(九月山遊園地)に到着した。「遊園地」とは面白い表示であるが、「自然公園」くらいの意味であろう。9月になると紅葉が美しくなることから、この名が付けられたという。ここはまた、松茸の産地でもあるということであった。

九月山遊園地(自然公園)の案内板。

 「21世紀の太陽、金正日将軍」というスローガンが、山肌に彫り込まれている。山道の途中には、チウォネ・ポクポ(志遠の滝)と呼ばれる滝があり、滝に通ずる脇道を、若い女性が1人で掃除していた。この女性によると、滝の高さは50mとのことであったが、見た感じ、そんなに高いとは思えなかった。滝の横には、「偉大な将軍様の愛を忘れずに、この幸福を享受しよう」というスローガンが書かれていた。

 我々の車は、曲がりくねった山道を上り続けた。途中、至る所に「革命的軍人精神」とか、「敬愛する最高司令官金正日元帥万歳」とかいった政治スローガンが彫り込まれている。山道をかなり上って、クウォルサン・トンムン(九月山東門)に到着した。かつての城壁址である。

九月山東門の城壁跡。

 それを見たあと、我々は山を下りてきて、ふもとのウォルチョンサ(月精寺)を参観した。国宝第75号である月精寺では、僧侶が出てきて、寺の説明をしてくれた。寺では、極楽宝殿や万歳楼を見た。僧侶は、かつて金正日総書記がこの寺を訪れたときに授けてくれたという金時計を大事そうにはめていた。

月精寺境内。

 これで九月山観光が終わったので、次の目的地シンチョン(信川)に向けて、田舎道を走った。こんな田舎を車が走ることは滅多にないらしく、地元の人々は、我々の車が通りかかると、多くの人が道端で直立不動の姿勢をとった。子供たちの中は、こちらにむかって礼をしてくれる子もいる。要人の車と間違っているのである。

 信川のすこし手前に、オグンリという村があり、ここのレストランで我々は昼食をとることになっていた。我々が来ると、村の公安関係者らしき人が数人、我々を出迎えた。村の名前の漢字表記を尋ねたが、漢字表記を知っている人は誰もいなかった。朝鮮語でクと読む漢字は「国」、「局」、「菊」の3つだけである。私は「五菊里」ではないかと思ったが、P案内員は「五国里」だろう、と言っていた。帰ってから、戦前に出された朝鮮の地名一覧を調べると、何と「五局里」となっていた。

 昼食をとる事になっていたレストランの名前は、オグク・シクタン(五局食堂)であった。村の公安関係者達は、我々が食事をしている間も食堂の入り口のすぐ外に立っており、我々が勝手に外に出て行かないように見張っていた。食事は、この村で準備できる全ての物を集めたのではないかと思えるほど、豪華な内容のものであった。典型的な朝鮮料理で、ご飯とスープの他、各種のキムチが出た。韓国で言うところの、ハンジョンシク(韓定食)である。さらに、キムパプ(のり巻き)までもが出てきた。

昼食をとった、五局里の五局食堂。入口近くにいるのは村の公安関係者。

豪華な昼食。

 食事が終わると、食堂のすぐ裏手の丘にある王陵を見に行った。コググォン・ワンルン(故国原王陵)と呼ばれているらしい。王陵の中には石室があって、考古学的に価値の高い壁画が描かれているらしいが、壁画を参観するには、1人100ドルの拝観料を払わねばならず、我々の旅程には入っていなかった。リピーターの人によると、この国では、ここに限らずどこの古墳に行っても、内部を見せるときには法外な値段を言ってくるらしい。日本人なら払うと思っているのか、単に馬鹿にされているのか、とにかく、どこの古墳に行っても、とんでもなく高額の拝観料を提示してくるらしい。

五局里で見た看板。
(左)「主体農法 満豊年で光り輝かせよう」
(右)「全員、種蒔き戦闘へ!」

故国原王陵。

 信川は、五局里から20分くらいの距離であった。実は、ここに来るまで、私は、信川に何があるのか分かっていなかった。中外旅行社からもらった日程表には、信川博物館見学としか書かれていなかったからであり、その博物館の内容については何も書かれていなかったからである。来てみて分かったのであるが、ここは、朝鮮戦争末期にアメリカが朝鮮人を虐殺したところとして、朝鮮人民にとっては忘れられない場所なのであった。博物館にあった立て看も一種独特で、朝鮮人民軍兵士がアメリカ兵をたたきのめす絵と「米帝を掃滅し、祖国を統一しよう」というスローガンが書かれた、他ではあまり見られないものであった。

信川の高校生たち。

朝鮮人民軍兵士がアメリカ兵をたたきのめす絵。
「米帝を掃滅し、祖国を統一しよう」というスローガン。

 ここでは、アメリカ兵が朝鮮の一般人民を、いかに残酷に殺害したか、という絵がいくつも掲げてあった。この人は火あぶりにされた、この人は頭をのこぎりで切断された、この人は頭蓋骨に釘を打たれた、この人は生き埋めにされた、この人は縛られて石のおもしをつけたまま橋から落とされた、などなど、おばさんの説明員が一つ一つ説明してくれる。

 展示を全部見終わると、博物館の敷地内にある地下石室に案内された。元信川郡党委員会防空壕跡らしい。ここは、アメリカ兵が朝鮮人民を閉じ込め、上からガソリンをかけて焼き殺したところである、との説明があった。

「その時、全身火傷で瀕死の人民たちが、死ぬ前に最後の力を振り絞って、壁に字を彫ったのです」

と言うので見ると、すすけた壁に「金日成将軍万歳」とか「朝鮮労働党万歳」などとハングルで書いてあるのが見えた。

 その次に、我々は売店に行った。皆がお土産を買っている間、私とある人とは、窓際で外を眺めながら話をしていた。その人は、

「昔はこの辺に木炭車がいっぱい停まってたんやけどね」

と言いながら、窓の外の写真を撮った。その瞬間、おばさん説明員の目つきが変わり、L案内員に

「写真撮影をやめさせなさい」

と言ったので、L案内員が飛んできて、写真は撮らないように、と言った。その人はこれで頭に来て、

「写真撮ったらあかんのやったら、カーテンでもしとけ!」

と怒りをぶちまけていた。その時、たまたま博物館の館長が来ておばさん説明員を呼んだので、おばさん説明員は売店の売り子に

「あいつらを監視しときなさい!」

と言い残して、しぶしぶ部屋を出て行った。

 我々は売店の隣の部屋に通され、館長と面会することになった。おばさん説明員が、冷えたお水を持ってきた。おばさん説明員は苦虫を噛み潰したような顔で水を運んできたが、私はちょうど喉が渇いていたので、お冷やそのものはとてもおいしかった。煮沸してあるかどうか分からなかったので、念のためにこの水を口にしなかった人もいたが、私は全部飲んでしまった。

 ここでは、館長から、博物館を見た感想について質問された。私はちょうど館長の真向かいに座っていたので、目が合ってしまった。まるで、一時間の講義を聴いた後で「今日の講義の要点を言いなさい」と先生に当てられた学生のような心境だった。でも、こういうのは早く言ってしまう方が勝ちで、後になればなるほど、言うことが無くなってきて苦境に陥る、と思ったので、最初に感想を述べることにした。それで、

「訪問者ノートに感想を書きます」

と言った。ノートには

「このような悲劇が2度と繰り返されないよう、朝鮮が一日も早く統一されることを願っています」

と書いた。

 虐殺の話はこれで終わりかと思っていると、そうではなく、一番のメインテーマはまだこれからであった。母と子が別々の建物に閉じ込められ、離ればなれになったまま焼き殺されたという栗谷火薬倉庫跡と、殺された母子の哀悼のために作られた2つの塚を見なければ、信川に来た意味が無い。その場所は、博物館から少し離れたところにあった。バスでそこまで行った我々は、102名の子供たちが閉じ込められて殺されたという建物と、400名の母親たちが閉じ込められて殺されたという建物とを見せてもらった。塚は、そこから100mほど離れたところに作られていた。

殺された母子の哀悼のために作られたという2つの塚。

 信川は相当小さい田舎町であったが、その市内で面白い物を見つけた。モギョッタン(沐浴湯)、すなわち、銭湯である。ただし、営業しているかどうかは確認できなかった。

信川市内で見つけた風呂屋。

 信川を見たあとは、サリウォン(沙里院)を経由して、チョンバンサン(正方山)を訪ねる予定になっていた。沙里院が近づくにつれて軍人の姿が多くなり、沙里院市内に入ると、軍人がやたら目につくようになった。沙里院市内にも銭湯があったほか、道沿いに映画館があったので見ると、「民族の太陽」という映画の広告が出ていた。

沙里院市内の様子。

沙里院映画館。

 沙里院から高速道路を少し北上すると、右手に正方山が見えてくる。ところが、我々のバスは降りるべき出口をまた間違い、降りるべき出口を行き過ぎてしまった。しかし、ここの国では交通量が極端に少ないので、運転手は高速道路内でUターンし、平然と道を逆行して出口の分岐点のところまで戻り、そして出口に向かったのである。開城で中央分離帯を乗り越えて反対車線に入ったときにも驚いたが、ここでの車線逆行にはさらに驚いてしまった。

沙里院市郊外の畑で農作業に励む人々。このように、北朝鮮の一般人民は極めて勤勉に働いていた。

 正方山では、南門を見て、そのあと、ソンプルサ(成仏寺)という寺を見た。寺の近くにモンラン(木蘭;モクレンとは違うらしい)という木が大切そうに植えてあるが、これが、金日成主席が12歳の時に遠足で初めて正方山に来て見た、記念すべき木蘭の木らしい。晩年の主席が正方山に来て、たまたまこの木を見つけ、

「おお、私が12歳の時に初めて正方山に来たときに見た木蘭の木だ。確かにこの木だ。間違いない」

と言ったので、特に保存すべき貴重な木蘭の木、ということになったのだそうである。この木蘭の木と主席の再会の話など、もう私の理解力の限界を超えていた。

正方山では、成仏寺という寺を訪れた。

 正方山を見終わったので、我々は再び高速道路を経由して、平壌に戻った。しかし、皆の希望もあって、宿泊している高麗ホテルには直行せず、別のホテルにちょっと立ち寄ることになった。行ったのは、大同江の中州である羊角島の上に建てられた高級ホテル、ヤンガクド(羊角島)ホテルである。こちらのホテルの方が、我々の高麗ホテルよりも立派であった。折しも、在日朝鮮人の人が大勢来ており、朝鮮に帰国した家族も詰めかけて、羊角島ホテルのロビーは大変な混雑になっていた。

平壌で1番高級な、羊角島ホテル。

 Cさんはフィルムを買いたくてここに来たらしいが、以前には置いてあったフィルムが、売店からもDPEコーナーからも姿を消していたという(Cさんは、Bさんのご厚意でフィルムを分けてもらったおかげで、多いに助かったと言っていた)。

 一方、ここの1階の本屋は品揃えが良いので、皆、色々な物を買い込んでいた。ポスターも置いてあり、しかもそれが一枚1ウォンという安値で売っていたので、ポスターを買っている人もいた。私も買おうかと思ったが、スローガンの内容が政治的でなく、いまひとつ北朝鮮ぽくなかったので、やめにした。代わりに、音楽CDを買った。

 そのあと、ロビーにある電光掲示板に平壌発の国際線航空ダイヤと国際列車ダイヤとが順に表示されていたので、それを眺めていた。それによると、平壌からフライトがあるのは北京、大連、マカオ、バンコク、ウラジオストク、モスクワ、ベルリンである。以前あったソフィアはもうないようである。列車の方は、北京行きとモスクワ行きとがある。同様の表示装置は高麗ホテルのフロント横にもあるが、表示されているダイヤは、ここのものとは若干異なっていた。それらをまとめると、飛行機の方は、平壌発北京行き直行便が火曜と土曜、大連経由北京行きが月曜と金曜、マカオ行きが月曜、バンコク行き、モスクワ経由ベルリン行き、ウラジオストク行きがいずれも木曜の運行、列車の方は北京行きが月曜、水曜、木曜、土曜、モスクワ行きが月曜、水曜、土曜となっていた。

 夜、L案内員が、平壌駅まで連れて行ってくれるというので、皆、大喜びであった。最初、L案内員は、駅までバスで行く、と主張したが、我々は断固反対した。表向きには、今日は長旅であったので、我々の運転手はひどく疲れているはずで、夜まで引っ張り回すのは気の毒だ、ということであった。しかし、本当の理由は、市内を自分の足で歩いてみたい、ということであった。

 仕方なく、L案内員も、駅まで歩いていくことに同意した。ただし、ホテルから駅までの道中(と言ってもわずか200mくらいなのであるが)は撮影をしない、駅舎には入らない(入れない)、案内員の周りから離れず、団体行動をする、ということが条件であった。それで、L案内員とP案内員とに前後を挟まれた状態で全員が揃って歩き、平壌駅前まで行った。ホテルから歩いて5分もかかるところまで行けるとは、この国に来て初めての遠出(!)である。

 駅前広場で市電を眺めていたが、節電のためにパンタグラフを下げて、惰性で走ってくる市電が多かった。そのあと、駅舎のすぐ近くまで行ったが、駅の入り口には見張り番が4人もいて、外国人は入れてくれないようになっていた。帰りは駅前百貨店の横にある郵便ポストの写真を撮って、ついでに、閉店後ではあったが百貨店の中を外から覗いてみた。食料品売り場らしく、お酒らしき瓶がたくさん陳列してあった。どれくらいの価格で売られているのか大変興味があったが、暗くて遠いために、値札までは確認できなかった。

北朝鮮の郵便ポストはブルー。


   


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