第5日(平壌滞在)


5月3日(月)

 チョグク・ヘバン・チョンジェン・スンリ・キニョムグァン(祖国解放戦争(=朝鮮戦争)勝利記念館)見学が、本日の最初のスケジュールである。ここでは、朝鮮戦争にまつわるありとあらゆる資料が集められている。我々の理解では、朝鮮戦争は、1950年6月25日に北朝鮮軍が南側に突然侵攻したことで始まったとされている。しかし、ここでの展示は、朝鮮戦争は実は6月24日にアメリカが仕掛けたものである、ということを主張する内容のものであった。その証拠として、

「北朝鮮を先制攻撃しなければならない。その際、いかにもロシアが先に戦争を始めたように、慎重にカモフラージュしなければならない」

と書かれたアメリカの秘密文書や、

「今から戦争が始まるので、住民は直ちに避難するように」

と書かれた6月24日付の韓国の公告文などが展示されていた。

 続いて、「鉄嶺を守る」という舞台セットを見せられた。この舞台セットは、非常に凝った作りのものであった。鉄嶺とは、朝鮮戦争のときに前線に物資を補給するトラックが行きかった峠の名前で、ここが唯一の補給路であったらしい。その唯一の補給路を断とうとアメリカ軍が激しい爆撃を行う中、朝鮮人民軍のトラックが空爆を恐れずに鉄嶺を通って前線に物資を補給し、戦争を勝利に導いた、という内容である。地上の援護隊が高射砲でアメリカの爆撃機を撃ち落すシーンや、破壊された橋を近くの農民たちが下から人力で支えてトラックを通すシーンなど、凝り凝りに凝って作られている。説明も日本語のテープが用意されているという周到さである。

 これを見た後は、地下に降りて、朝鮮戦争のときに使われた兵器の実物を見せてもらった。最初に見せられたのはソ連製の小さな船である。「魚雷艇21号」と説明文がある。女性説明員が、

「この船に偉大な首領金日成将軍様がお乗りになったのです。後にこの船は、アメリカの軍艦に魚雷を撃ち込んで、見事撃沈したのです」

と誇らしげに説明した。

金日成将軍の乗った魚雷艇21号。

 その後、ソ連製のミグ戦闘機を見せられた。

「偉大な首領金日成将軍様と、当時9歳の金正日元帥様がお乗りになった戦闘機です」

と説明があった。

金日成将軍と幼き頃の金正日総書記が乗ったミグ15。

 ソ連製の兵器を一通り見終わった後は、ぐちゃぐちゃにつぶれたアメリカ製の飛行機を見に行った。そのうちのある飛行機の前では、

「これは、朝鮮の女性兵士に撃ち落されて無残な形に潰れたアメリカの飛行機です」

との説明があった。そのほか、南側の兵士が持っていたヘルメットや機関銃、日本製のジープなども陳列してあった。

朝鮮人民軍女性兵士に撃ち落され、無残にも焼魚のようになった米軍の飛行機。

 我々は最後に、パノラマ展示室に案内された。これは、プラネタリウムのような丸い建物の壁に、北朝鮮人民軍がテジョン(大田)を占領したときの物語を描いたもので、日本語の説明テープが流れている間に壁が回転し、物語が一通り見られるようになっている。説明によると、朝鮮戦争中、南側は、ソウルが陥落したので大田に政府機能を移し、臨時首都にしていたが、この大田をも朝鮮人民軍は解放した、ということであった。私の記憶では、臨時首都はプサン(釜山)であったと思うが、よく分からない。それに、大田は現在では韓国に属するのだから(テジョン万博の開催された場所)、ここでこのようなパノラマを見せられることの意味がよく分からなかった。しかし、この国では異議を唱えることは許されないので、おとなしく座って、パノラマを見た。

 パノラマは、まずアメリカの植民地と化した大田市内の様子から始まり、そこに朝鮮人民軍が進攻、アメリカ軍と戦火を交えた後、アメリカ軍を撃破して、金日成将軍の肖像を掲げる大田市民たちの熱烈な歓迎を受ける、というものであった。

 昨日の板門店でもそうであるが、ここでも、朝鮮戦争は北朝鮮が単独でアメリカに挑み、勝利を収めた戦争、と聞かされた。初めは北朝鮮優位であったが、マッカーサーがインチョン(仁川)上陸作戦を敢行して戦局が一転し、北朝鮮軍は敗北寸前にまで追いつめられたので、中国に義勇軍派遣を依頼して何とか38度線まで押し戻したことなど、一言も出てこない。中国に助けてもらっておきながら、その事実すら明らかにせず、金日成の指導の下、朝鮮人民軍だけで戦ったと主張する北朝鮮のやり方には憤りを覚えた。

 帰る間際に、館内の売店で、バッチと絵葉書を買った。  我々はまたバスに乗って移動し、チョグク・ヘバン・チョンジェン・スンリ・キニョムタプ(祖国解放戦争勝利記念塔)という場所を参観した。ここでも、軍服姿の中年の女性説明員がすぐに現れて、説明を開始した。

祖国解放戦争勝利記念塔を見る。

 しかし、我々の関心事は、祖国解放戦争勝利記念塔ではなく、すぐ近くに見えるリュギョン(柳京)ホテルにあった。これは、1988年のソウルオリンピックに対抗して1989年に北朝鮮が開催した、世界青年学生祭典に間に合わせようとして起工したものであったが、ソウルのユクサムビルよりも高く作ることを目指して105階建てにしたために祭典に間に合わなかったものである。ちなみに、このホテルの高さ105階というのは、金正日総書記の教示があった日、10月5日にちなんでそうしたのだという。

 その後、ベルリンの壁の崩壊、東欧諸国の民主化、ソ連邦の解体などがあり、それまでバーター貿易で手に入れていた資材がドル決済になったために輸入できなくなってしまい、工事は一時中断してしまった。その間に、作りかけの部分の亀裂から雨水が入り込み、その雨水が冬の間に凍結して亀裂を広げ、そこからまた雨水が入って鉄筋も錆び、現在では、実質上、危険建築物になっているのだそうだ。こんな状態でもう10年近く(あるいは10年以上?)野ざらしになったままだが、公式見解では「現在工事中で、もうすぐ完成予定」ということになっている。工事を断念し、取り壊すとなるとソウルのユクサムビルに負けたことになるからだ。それに、この国には、こんな巨大なビルを取り壊すだけの資金力もない。そんなわけで、作りかけの三角形のホテルの頂上には、未だクレーンが寂しく残っている。しかし、今日は天気が悪く、低い雲が垂れ込めていたので、残念ながらクレーンは見えなかった(すなわち、雲の中に頭を突っ込むくらい高い!)。

雲の中に頭を突っ込む作りかけの柳京ホテル(三角形の建物)と、怒ってしまった女性説明員。

 我々が作りかけの柳京ホテルばかり眺めているので、女性説明員は気分を害して、

「イ・タンチェドヤ(この団体もだ)」

とL案内員にも聞こえるように独り言を言った。どうやら、ここに来る外国の団体はすべて、係員の説明を聞かずに柳京ホテルばかり見ているらしい。もちろん、北朝鮮国内から来た団体は、このような不謹慎なことはない。全員、しゃきっと背筋を伸ばして、気を付けの姿勢で説明を聞いている。そんな訳で、最後に我々全員が揃ったときに、

「とても熱心に説明をお聞き下さり、ありがとうございました」

嫌味を言われてしまった。

 その次には、マンスデ・チャンジャクサ(万寿台創作社)という芸術工房を見学に行った。ここには、金正日総書記を讃える壁画や立て看、スローガンなどが至る所に書いてあった。この国では、金正日総書記は芸術の天才、ということになっているからである。青磁の制作現場を見に行く予定であったが、今日は青磁は休みとのことで、代わりに、油絵と朝鮮画の制作現場を見に行った。

万寿台創作社で見た金正日総書記の肖像画。
「純潔な良心と義理で金正日将軍様を崇め奉ろう」

 その時、名古屋から来たというビジネスマン2人と付き添いの在日朝鮮人の人にたまたま出会った。マグネシウムを買い付けに来ているのだが、天気が悪くて飛行機が飛ばず、足止めを食らったので、今日はここに見学に来た、と言っていた。

 画家が絵を描いているところを見た後は、工房で作られた芸術作品の即売場に案内された。2階に置いてある焼き物の類は高価で、とても手の届く価格のものはなかった。それで、1階で刺繍をひとつだけ買った。5ウォン。

万寿台創作社で見かけた立て看。
(左)「自力更生」「駿馬に乗って、駆け足で走ろう!」
(右)「侵略戦争には、解放戦争で!」

 これで午前中のスケジュールは終わりで、我々は一度ホテルに戻り、昼食をとった。昼食は、高麗ホテルに戻って、いつもの高麗民族食堂の奥のレストランでとった。チゲの昼食が出された。

 我々は、昼休みにホテルを抜け出し、ちょっとした冒険旅行(?)に出掛けた。ホテルの玄関から約50m離れた切手ショップ、チョソン・ウピョサ(朝鮮郵票社)に出掛けたのである。後に、案内員と共に、もっと遠い平壌駅に出掛けたが、単独での外出では、これが滞在中の最高記録となった。なにしろ、ホテルから50mも離れた所まで独りで来たのだから(!)。切手ショップでは、

「朝鮮初の人工衛星打ち上げ成功記念切手」

などの切手を買った。テポドン(大浦洞)というのは韓国側がつけた名前で、北朝鮮がつけた名前は知らなかったが、切手を見ると、クァンミョンソン(光明星)1号と書かれていた。金日成主席が金正日総書記を讃えて詠んだ漢詩の中にもあるように、「光明星」というのは、金正日総書記のことを指しているのである。この切手ショップでは、朝鮮歌曲のカラオケビデオと、朝鮮映画のビデオも買った。映画は続き物が多く、何巻もビデオを買うと高いので、

「話が1巻で完結するビデオを下さいますか」

と言うと、カンフー物を出してきてくれた。でも、カンフーのような時代劇ものは言葉が難しいと思ったのでそう言うと、「チョンチュニヨ(青春よ)」という現代もののビデオを出して来てくれた。

 午後、バスは予定通りに出発したが、3名いた案内員のうち、C案内員の姿が見えなくなり、P案内員とL案内員の2名だけになっていた。C案内員はお腹をこわしたので、午後は2名の案内員だけで案内する、という話であった。しかし、C案内員が抜けたのは、別の理由による、と我々は見ていた。

 午後、最初に訪れたのは、テソンサン(大城山)にあるハンイル・ヒョンミョン・リョルサルン(抗日革命烈士陵)である。行く途中、クムスサン・キニョム・クンジョン(錦繍山記念宮殿)の前を通りかかった。これは、かつて金日成主席が生前に執務していた錦繍山議事堂を、金日成主席の死後、記念宮殿としたものである。我々のような一般人は、間違ってもこの建物には近づけない。参観はおろか宮殿前の大通りで停車することすら許されない。我々を乗せたバスも、ここではそのまま通りすぎた(でも、帰りにもう一度通ったので、その時は速度を落として写真を撮りやすくしてくれた)。

錦繍山記念宮殿。相当拡大したので、画像があまり鮮明ではないのが残念。

 このように、通常は参観できないのであるが、全く参観できないわけでもなく、一般公開の日があって、特別許可をもらえば見学はできる。実際、Bさんは、前回来たときに宮殿の参観をしたという。ちなみに、4日間コースの人たちは、5月1日にここを訪れて、宮殿前の広場でたくさん記念写真を撮ったらしい。木曜日と日曜日は一般公開の日らしいが、参観客が特に大勢来ていたらしいから、メーデーの特別開放であったのかもしれない。でも、今日は月曜日だし、メーデーでもないから、我々は参観できなかったのである。実は、我々のグループの何人かは、日本であらかじめ、CG旅行社に対して、記念宮殿を参観したいということをリクエストしていたらしい。でも、宮殿を参観できる日にここを訪れることはできなかった。まあ、宮殿を訪れることができないということは、新潟空港に来たCG旅行社の担当者から説明があったらしいから、リクエストした人たちも納得せざるを得なかった。

 抗日革命烈士陵に着くと、またまた女性説明員が現れた。左手に、金日成主席直筆の、

「抗日革命烈士達の崇高な革命精神は、わが党と人民達の心の中に、永遠に生き続けることであろう。 金日成 1985.10.10」

という石碑があった。ここには、抗日革命闘争の時および祖国開放戦争(朝鮮戦争)の時の英雄的人物の銅像が安置されている。亡くなった年代順に、前の方から銅像が建てられており、奥の方にまだ銅像を建てていない一角があるが、これは、まだ存命の革命烈士のためにリザーブされているそうである。

「抗日革命烈士達の崇高な革命精神は、わが党と人民達の心の中に、永遠に生き続けることであろう」
と書かれた、金日成主席の親筆碑。

抗日革命烈士陵にある、抗日革命の英雄的人物たちの銅像。

 一番奥には、特に抗日革命闘争の時に功績が大きかった人物の銅像が並んでいる。その真ん中が、金日成主席の初めの夫人で、金正日総書記の実母である金正淑同志像であった。Dさんが代表で献花し、我々はまた2列に並ばされて銅像に向かってお辞儀をさせられた。我々の後、遠足で来た子供たちも同じそうに銅像前に並んで花束を捧げた後、お辞儀をしていた。子供たちはさらに、烈士のうち、今日がたまたま誕生日である烈士の像の前に行って、やはり献花してお辞儀をしていた。

金正淑同志(金日成主席の初めの夫人)像に献花し、お辞儀をする小学生たち。

 抗日革命烈士陵を見た後は、地下鉄楽園駅の近くのテソンサン・ユウォンジ(大城山遊園地)の中を通って山道を上り、城壁址を見た。

地下鉄楽園駅。

大城山の城壁址に登って遠吠えする、我々のバスの運転手。

 それから山を下りてきて、ふもとにあるアンハックント(安鶴宮址)に向かった。途中に、ドームやパラボラアンテナのある建物があるのが見えたが、これは、天文台ということであった。

 安鶴宮址は道端の畑の中にあり、見落としやすい。我々の運転手も見落として行き過ぎてしまい、途中でUターンした。宮址に着いても、我々は、宮址そのものよりも、近くの農家ばかり見ていた。農民の暮らしぶりに興味があったからである。皆、宮址を写すふりをして、望遠レンズで農家の写真ばかり撮っていた。

 滞在中我々は多くの史跡を訪れた。それらには、説明文が掲示されていたが、私はうかつにも、その説明文の写真をあまり撮らなかった。しかし、ここ安鶴宮址では、説明文の写真をA君が撮っていたので、その説明文を以下に紹介したい。

「安鶴宮址
 偉大な首領金日成同志は、以下のように御教示なさった。
《安鶴宮址も復旧しなければならない。現在安鶴宮址にある部落は宮址の横に動かし、宮址を全て発掘して旧蹟を元の状態に復旧しなければならない。》
 偉大な首領さまのお授けになった教示を高く崇め奉り、安鶴宮址に関する大規模な発掘事業が行われた結果、安鶴宮址の昔の姿が明らかになった。安鶴宮址は427年に高句麗が首都を国内城から平壌に動かす際に建設した王宮址である。四角い城壁に囲まれた宮址の総面積は、38万平方メートルで、城壁の長さは2488メートルである。
 土城の城門は南側城壁に3ヶ所、西側、東側、北側にそれぞれ1ヶ所ずつあり、王宮の中心に向かって、南門、外殿、内殿、寝殿などの大きい建築物が並んで配置されていた。また、城内には、王宮建築の一部分を構成する池と華麗な庭園なども作られていた。安鶴宮址は、その大きな規模と優秀な建築技術で、高句麗の燦爛たる文化を集中的に見せてくれる国宝遺跡である。」

説明文の横には、「国宝遺跡第2号 安鶴宮址(安鶴宮址)」と書かれた、小さい石碑も建っていた。

安鶴宮址の説明文。アホなことをしている日本人が約1名。

 これで今日のスケジュールが終わり、本当ならば、これでホテルに帰るはずであったが、朝鮮労働党創建記念塔の裏手にあるピョンヤン・ムナ・チョンシグァン(平壌文化展示館)内に、政治スローガンを書いたポスターを売る売店がある、という情報をリピーターの人が仕入れてきたので、今から行くことになった。

平壌文化展示館を急遽訪問。

 そこでは、金日成総合大学の外国語学部英文科を出た女性説明員が、英語で説明をしてくれた。館内は絨毯を敷いてきれいにしてあったが、安鶴宮址を見るために畑の中に入っていった我々は、全員、靴がどろどろになっていたので、せっかくの絨毯が無残に汚れてしまった。特に、金日成主席の大きな肖像画が張ってあるところの前に敷かれていた赤い絨毯が、一番ひどく汚れてしまった。

 館内の展示物の説明が一通り終わったので、我々はポスターの件を切り出した。すると、何と、こっちの指定したポスターを、オーダーメードで描いてくれるという。一枚50ウォンである。これは予期しない朗報であった。ポスターのオーダーメードが可能なのである。それで、我々のうち5人が、合計7枚のポスターを注文した。我々が帰国する木曜日の朝までに、仕上げてホテルまで届けてくれるという。

 ここの、金日成総合大学英文科卒の女性説明員はA君の好みのタイプらしく、本人は一緒に写真に入ってもらってご満悦であったが、それを見たP案内員は首をひねっていた。そのうち、別の女性職員が、

「1階にどうぞ」

と言うので、1階に降りようとしたが、他の人たちはまだその女性説明員と写真を撮っていてなかなか動きそうになかったので、私一人だけが先に階段を下りて車に戻ろうと思って階段を下りはじめた。すると、それを見た展示館の男性職員が

「おい、あいつ外に出ようとしているぞ。目を離すな」

と別の職員に指示しているのが聞こえた。それを聞いたL案内員が飛んできて、私にぴったりとつき添った。私は別にスパイでも何でもないのだから、そんなにピリピリしなくてもいいのにね。

 この日は、市内のレストランで夕食をとることになっていた。平壌国際文化センター地下のミンジョク・シクタン(民族食堂)と言う名のレストランで、チョンゴル(煎骨)という、肉と野菜と松茸を入れて煮込む鍋料理が出た。それ以外に、魚フライとビビンバも出てきた。いずれもなかなかおいしかった。

民族食堂で、チョンゴル(朝鮮風すきやき鍋)の夕食。

 ここでは、3人の女性歌手が生演奏に合わせて歌ってくれる。朝鮮民謡だけでなく、我々のために日本語の歌も歌ってくれた。Cさんに聞いた話では、津軽海峡冬景色、みちづれ、北国の春、瀬戸の花嫁など、外国人向けの舞台では歌ってもよい日本の歌がいくつかあり、それらはポチョンポ電子楽団のCDにも収録されているらしい。さらに、女性歌手は舞台から客席の方に降りてきて、前列に座っていたDさんの手を取って、ダンスを始めた。Dさんはよく女性にもてるのである。なにしろ、いつも食事をとる高麗ホテル1階の食堂の美人のウエートレスのペクさんから名前を聞かれたのは、Dさんだけなのであるから。2回目に舞台から降りてきたときは、A君と、Eさん、Dさん(2回目!)の3人が指名を受け、ダンスに誘われた。指名された人たちがコチコチになって踊っているところの写真を撮っておきたかったが、ちょうどトイレに行っていて、シャッターチャンスを逃してしまった。

歌手が生演奏に合わせて日本の歌を歌ってくれる。

 その帰りに、第一百貨店の近くの噴水公園と、金日成広場に立ち寄った。夜の大同江の向こう側に、チュチェ思想塔がライトアップされて輝いているのが見える。ここで、皆で夜景の撮影をした。その後、凱旋門ならびに凱旋青年公園にも立ち寄った。

ライトアップされたチュチェ思想塔。背後には、「一心団結」の赤い文字。

ライトアップされた凱旋門。

 ホテルに帰ってから、1万円追加両替した。両替証明書を書いてくれますか、と言うと、係の人は証明書を書いてくれた。「ウェファ・ヒョングム・チュルグムピョ(外貨現金出金票)」と書かれた用紙に「¥10,000×0.0179=179」と手書きで記入し、「ウェファ・キョホァン(外貨交換)」の印が押してあった。

 高麗ホテルは設備も整った快適な高級ホテルである。部屋には、テレビと冷蔵庫も置いてある。ただし、冷蔵庫の中には何も入っていなかった。テレビにはチンダルレ(つつじ)、冷蔵庫にはテドンガン(大同江)とブランド名の表示があったが、中を開けてみると、テレビは東芝、冷蔵庫はサンヨーの製品であった。

 それはそうと、このホテルで、困ったことが一つだけあった。それは、枕許のラジオのスイッチが切れないことである。OFFと書かれたスイッチがあるにはあるのだが、それを押しても、AM2チャンネルに切り替わるだけで、ラジオはオフにはならない。しかも、ボリュームを全部絞っても音量はゼロにならないので、自己陶酔状態に陥ったアナウンサーの張り上げるかん高い声が初めから終わりまで続く平壌放送を、寝ている間もずっと聞かされっぱなしなのである。これが単にラジオボックスの故障なのか、それともそういう仕様なのか、最後まで分からなかったが、そのおかげで平壌滞在中は慢性的睡眠不足に陥っていた事は事実である。


   


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