第1日(新潟→ウラジオストク→平壌)


はじめに

 マイナーな国(要するにガードの堅い国)に行くのが趣味の私には、そういう意味で憧れの国がいくつかあった。その中でも、世界中でも最も遠い国の一つ、北朝鮮には、何としてでも一度行ってみたい、前々からそう思っていた。インターネットを見ているうちに、北朝鮮旅行を手配できる旅行会社が国内にもいくつかある事が分かってきたが、1998年8月31日のテポドン発射事件で、日本政府が高麗航空の名古屋−平壌直行便の着陸許可を取り消したことで、北朝鮮はさらに遠い国になってしまった。

 ところが、折りよく、CG旅行社というところが、新潟発ウラジオストク経由平壌行きというコースを新設した。新潟からわずか4時間で平壌に入れて、しかも8日間という、一般のツアーでは今までになく北朝鮮に長期滞在するもので、しかも、毎週木曜日出発なので、連休中の4月29日の木曜日に出発して5月6日の木曜日に帰ってくれば、仕事に全く影響しない。

 喜び勇んで、友人のA君と一緒にこのツアーに申し込んだ。


平成11年4月29日(木)

 午前11時に穂積を出発した。岐阜までJRで行き、名鉄に乗り換えた。西春まで行って、空港行きのバスに乗る。連休だけあって、バスは満員であった。12時45分名古屋空港着。国際線のターミナルが新しくなっているのに気づいた。でも、今回はまず国内線に乗るのである。

 午後1時15分発の新潟行き全日空機の搭乗手続きをする。連休というのに、搭乗率は約4分の1であった。がら空きである。新潟までのフライトタイムは45分。2時ちょうどに新潟空港に着陸した。

 ここからは、午後4時40分発のウラジオストク行きXF808便に乗り換えることになっている。ツアーの待ち合わせ場所はJALのカウンター前、集合時間は午後2時40分である。まだ早かったので、我々のツアーらしき人は見えなかった。ロシアに行く、他の旅行社のツアーらしき人が大勢かたまっていた。

 空港ロビーをうろついているうちに、「佐納さん」と声が掛かった。A君ももう来ていた。二人で駄弁りながら、集合時間を待った。

 やがて、CG旅行社の担当者が空港に現れた。すると、一瞬の間に、我々のツアー参加者も集合した。皆早くから空港に来ていたが、旅行社の係員が来ていなかったので、その辺に分散して待っていたようである。

 平壌までの往復の航空券、北朝鮮出入国カードならびに税関申告書、その他の書類を受け取り、説明を受ける。事前にCG旅行社に聞いた話では、今回のツアーでは、4日間コースが11人、8日間コースが11人の、合計22人ということであったが、実際には両コースとも1人ずつ減って、10人+10人の合計20人になっていた。もちろん、全員日本人である。在日朝鮮人の人は、このようなツアーに参加しなくても、祖国を訪れることができるからである。

 それにしても、ツアーの参加者には、何度も来ているリピーターの人が多いのには驚いた。我々と同コースのBさんは、何と訪朝11回目という大ベテランである。Cさんも同じくリピーター、DさんとGさんも以前に来たことがあるらしい。4日間コースの方にも、リピーターは何人もいたようである。

 CG旅行社の社員は新潟までの見送りだけで、添乗員としては同行しないので、各自でウラジオストク航空の搭乗手続きをする。ウラジオストク航空というのは、アエロフロートから分離独立してできた航空会社である。しかし、アエロフロートから分離独立したと言うよりは、アエロフロートに見捨てられて切り捨てられた、と言う方が正しいであろう。旧式のツボレフ154であった。

 乗ってみると、やっぱりぼろい機体であった。機内は満員である。我々のツアー以外に、ロシア行きのツアーが3グループ程入っていたからであろう。程なくして、スチュワーデスが機内アナウンスを始めたが、ボケーッと聞いていると、どこまでがロシア語でどこからが英語か分からないようなひどいアナウンスであった。

 定刻に新潟空港を離陸し、約1時間半でウラジオストクに着いた。現地時間午後8時、日本時間午後6時である。滑走路から空港ターミナルまで、あまりに遠いので驚いた。

 空港ターミナルの建物の手前に、我々がこれから乗る高麗航空が停まっているのが見えた。ツボレフ134である。ウラジオストク航空よりも更に小さい(そして恐らく、更に古い)機体である。胴体の所に赤いストライプが入っており、その上に黒字でコリョ・ハンゴン(高麗航空)とハングルで書いてある。

 我々はウラジオストク航空機を降り、バスに乗せられた。これで、空港のターミナルビルに向かう。入り口を入ると、イミグレーションがある。ロシアに入国する人たちは、ここで入国手続きを取るのである。我々はトランジットなので、階段を上がって、2階のトランジットルームに向かう。階段の途中に係員がいて、パスポートと航空券をチェックしている。ウラジオストクから平壌までの航空券を提示すると、それを切り取って、代わりに高麗航空JS272便の搭乗券を渡された。平壌の空港コードがFNJであることをこのとき初めて知った。座席の指定はない。つまり、席は自由席である。

 トランジットルームは売店もない殺風景な小部屋であった。ロシアのテレビが流されているが、誰も見ている人はいなかった。高麗航空に乗るのは、我々トランジット組が大多数を占めていた。(トランジットでなくて)ここウラジオから高麗航空に乗る人は数人しかいなかった。

 午後9時すぎ、搭乗の案内があった。高麗航空機はすぐ目の前に停まっているのだが、乗客は全員バスに乗るように言われた。バスは約30秒で高麗航空機前に到着。バスを降りると、タラップ前で、にこりともしないロシア人の係員が搭乗券をチェックしている。

高麗航空機(ウラジオストク空港にて)。

 チェックが済んでタラップを上がると、高麗航空のスチュワーデスが笑顔で我々を迎えてくれた。

「アンニョンハセヨ」

北朝鮮の人と、生まれて初めて言葉を交わした。その瞬間、一種の感激のようなものが体中を走った。ついに未知なる国から来た人とのコミュニケーションに成功した、という感激である。北朝鮮と言うと、謎の秘密国家、というイメージが定着している。こちらからコミュニケーションを求めても、にべもなく拒否されそうなイメージのある国。そんな国から来た人が、私の話しかけた言葉に応答してくれた、そういう感激であった。我々が今から行こうとしている国は、一体どんなところなのであろうか。答えは、あと1時間すれば分かる。

 席は自由席なので、後ろの方の窓際に座った。座席数がいくつあるのか数えるのを忘れたが、左右に2席ずつ、つまり1列が4席で、10数列くらいではなかったかと記憶している。Cさんから聞いたところでは、定員は80人くらいだということである。座席があるのは機体の前から3分の2くらいまでで、後ろの方は座席がなく、単なる空きスペースになっていた。そこにカーテンをして、少しだけ荷物を積んでいた。

 高麗航空機は、ウラジオストク時間午後9時32分に離陸した。あたりはすでに暗くなり、せっかく窓際に座ったが、外は全く見えなかった。途中で簡単な機内食が出る。そのあと、スチュワーデスが、乗客の1人の在日朝鮮人の青年に声をかけ、この人が通訳をして我々のビザを配り始めた。

高麗航空JS272便は一路平壌に向かう。

 北京経由で行く場合には、北京の北朝鮮大使館でビザを受け取る。しかし、我々はウラジオストク経由であり、しかもウラジオストクでは空港内の乗り継ぎだけでロシアには入国しないから、ビザの受取場所がない。そもそも、ウラジオストクに北朝鮮領事館はないのである(ナホトカにはある)。そんな訳で、我々のビザはどこでどういう形で受け取るのか、大変興味があった。最初は、平壌到着時に受け取るのではないかと予想していた。しかし、ビザは機内で配られたのである。と言うことは、ビザは平壌で作って、この飛行機で運んで来たのだろうか。北朝鮮のビザはパスポートとは別紙になっているので、このようなことも可能なのである。しかし、実際には、以下に書くように、そうではなかった。

 もらったビザはブルーの用紙で、左半分の上の方の1行目に、チョソンミンジュジュイインミンコンファグク(朝鮮民主主義人民共和国)とあり、2行目にまずアンダーラインがあって、その次にサジュン(査証)、そしてビザナンバーが書いてあった。アンダーラインのところは、ビザの種類を書き込むためにあると思われるが、我々のビザでは空白になっていた。その次に、イルム(名前)、ナネ(生年月日)、ククチョク(国籍)、モクチョクチ(目的地)の4項目が書いてあった。目的地は平壌となっている。その下に、

「この査証を受けた者は、チュチェ88(1999)年5月6日まで、平壌を経由して入国、出国することができる。発給日 チュチェ88(1999)年4月28日」

と書かれていた。その下に顔写真が張ってあり、その横のコンイン(公印)の欄に押されたスタンプを見ると、

「朝鮮民主主義人民共和国総領事館 ロシア連邦ナホトカ市駐在」

と読めた。これで、このビザはナホトカで作って、ウラジオストクに届けられたものであることが確認された。よくよく考えると、平壌で作ってこの飛行機で運んでくるのならば、わざわざそんなことをしなくても、平壌に置いておいて我々が到着した時に配っても同じである。そうでないから、今ここで配っているのである。

 一方、ビザの右側は上下に分かれており、上半分にはピゴ(備考)欄がある。下半分には、

「査証の入国、出国日を19  年 月 日まで延期する」

と書かれ、公印と署名の欄があった。つまり、ビザの延長欄である。また、この段階では、備考欄は何のためにあるのか分からなかったが、後に、入国印、ホテルの宿泊確認印、出国印を押すためのスペースであることが分かった。

ピントがぼけてしまいましたが、私のビザ。

 ここに出てきたチュチェ(主体)とは、金日成主席の生まれた年1912年を元年とする北朝鮮独特の年号である。1997年から使われ始めた年号で、1997年はチュチェ86年になる。金日成主席を讃えるため、わざわざ途中から始まる年号を使い始めたのである。余談だが、1912年はたまたま中華民国が成立した年でもあり、台湾で使われている民国の年号と一致しているほか、我が国の大正の年号とも偶然一致している。

 ウラジオから平壌までは、約1時間で到着する。飛行機は、徐々に高度を下げ始めた。下に明かりはほとんど見えない。と、突然、ガクンという衝撃があり、滑走路のブルーのライトの列が目に入ってきた。平壌国際空港(スナン(順安)空港)に着陸したのである。平壌時間午後8時44分。暗くて余りよく見えないが、かなり大きい空港である。軍事国家だから、経済力の割には大きい空港を作っているだろうということは多少は予想していたが、延々と連なる誘導灯の列を見ていると、実際のスナン空港は、その予想をはるかに上回る規模の大きい空港であるように見えた。

 ここもウラジオストク空港と同じく、滑走路と空港ターミナルとが離れている。何しろ、途中に橋が架かっていて、川を渡っていくのである。かなりタキシングをして、やっとのことで空港ターミナルのあるところに着いた。金日成主席の大きな肖像がターミナルビルの上に掲げてあり、その肖像の向かって左手にハングルで、右手にローマ字で、それぞれ「ピョンヤン」という表示がある。ついに来た。未知なる国へ。

 飛行機を降りると、またバスに乗せられた。バスに乗り換えるとき、空港ターミナルビルの写真を撮ろうとしている人が何人かいて、それを見つけた女性係員が、大声で「No photo!」と怒鳴っている。

平壌空港に到着。

 滑走路の規模の大きさに比べると、空港のターミナルビルは予想通り小さかった。入ってすぐの右手に売店があったが、閉まっていた。リピーターの人によると、ここの売店は開いていたためしがないらしい。売店には、ハングルでメデ(売台)と書かれている。こんな言葉は、韓国では見たことがない。韓国では、メジョム(売店)である。

 正面が入国検査場になっている。ブースは全部で4つあり、そのうち3つが開いていた。パスポートとビザを提出。やや緊張したが、こちらの緊張をよそに、係員はいとも簡単にスタンプを押してくれた。スタンプを押すのは別紙になっているビザ側だけであり、パスポートにはスタンプは残らない。ちょっと残念な気はするが、下手に北朝鮮のスタンプがパスポートに残って、今後の韓国行きに支障を来たすのもつまらないから、まあ、これで良かったと思うことにする。

 そのあと、荷物をX線にかけて、不審物の検査をする。入国の時に、全員の全荷物についてX線検査をする国は初めてである。しかも、税関には仕切りがしてあって、中が見えないようになっている。先に検査を受けた在日朝鮮人の人の荷物が引っかかったらしく、税関の中で係員ともめている様子である。そんなわけで、我々の検査は一時中断してしまい、かなり長い間待たされた。

 ようやく税関検査を受けることができて、外に出ると、朝鮮国際旅行社のアンネウォン(案内員)が我々を待っていた。案内員とは、ガイド兼通訳であるが、実際には我々の監視員でもある。

 皆が女性案内員の所に集まって話を聞いているので、A君と私も一緒に話を聞いていた。そのうち、横を見ると、両替所があるのが目に入った。ロシア人の婦人が、ドル札を北朝鮮のお金に換えようとして、窓口の人と話をしている。それで、案内員に、

「お金を少し替えていいですか」
と聞くと、
「いえ、ホテルに行ってから両替してください」
と言うので、
「もうこんな時間(午後9時をすでに回っていた)ですが、今からホテルに行って、両替所は開いていますか」
と聞くと、
「開いています」
と案内員は自信たっぷりに答えた。
「でも、ほんの少しだけでもいいので、ここで替えておきたいのですが」
と言ったが、案内員は、やはり、
「ホテルで替える方がいいです」
というので、
「ここは両替率が悪いのですか」
と聞くと、
「いえ、そういうわけではありませんが、とにかくホテルで両替する方がいいです。その理由は、ホテルに着いたらお話しします」

ということであった。

 その案内員が、
「皆さん、何か要望はありませんか」
と言うので、リピーターらしき人が、
「もう地下鉄は乗り飽きたので、市電やトロリーバスに乗ってみたい」
と言っているのが聞こえた。

 ところが、案内員の話を聞いているうちに、この案内員は4日間コースの案内員であることが分かってきた。4日間コースと、8日間コースとがあることは知っていたが、初めの4日間は両コースが一緒に行動するものと思っていたが、そうではなくて、到着直後から両コースは別行動になっていて、従って、案内員も違うのだそうだ。知らずに、違う案内員の話を一生懸命聞いていたことになる。

 それで辺りを見回してみると、我々の案内員らしき若い男が立っていた。確かめてみると、確かに我々の案内員であった。その案内員が、自分のことをしきりに「オレ」と言うので、聞いていてあまり感じが良いとは言えなかった。まだ、全員の税関検査が済んでいないので、案内員と一緒に暫く待っていたが、同じツアーの人が次々と税関検査を終えて出てきたので、全員が揃ったところで、空港前に停まっていた車に乗り込んだ。

 車は、トヨタのミニバスであった。側面に、コースターと書かれていたが、私は車に強くないので、詳しい車種は分からない。フロントガラスには、「外国人代表団」と書いた丸い紙が貼り付けてある。

 車に乗ったところで、案内員から、我々のパスポートとビザ、そして帰りの航空券を預けるように言われた。我々一行の案内員は3人である。目付きの鋭いリーダー格の案内員がP案内員、もう1人がC案内員、一番若くて自分のことをオレと言うのがL案内員である。

 車は、平壌市内に向けて走り出した。聞いているとおり電力不足らしく、街灯がほとんどなくて、あたりは真っ暗やみである。時々、道沿いに金日成主席やチュチェ(主体)思想を讃える大きな立て看板があり、そこだけがライトアップされて闇の中に浮かんでいるのが見える。

 空港から市内までは、約30分と言うことであった。途中、検問が1ヶ所あった。これは難なく通過。

 市内に着くまでの間、案内員は、滞在中の諸注意事項についての説明を始めた。建物の写真を撮るのは良いが、人物の写真は撮らないこと、北朝鮮人民は日本人に対して反感を持っている場合があるので、独り歩きすると袋だたきに遭う可能性があるから、外出するときは必ず我々案内員と一緒に外に出ること、などなどの話があった。

 しばらく行くと、平壌市内に入ってきた。高層アパート群が見え始めてきた。アパートには、思ったよりも多く部屋に電灯がついていた。一部の人々が言っているように「人けがない」というほどではない。少なくとも、確かに人が住んでいるところであることには違いなかった。

 初めて来たのでどこを走っているのか分からなかったが、とにかく市内を走って、我々の宿泊場所、高麗ホテルに着いた。45階建てのツインタワーからなる高級ホテルである。玄関を入って右側に売店があり、売店の向かいがフロントになっている。玄関を入った左側は喫茶店になっており、その向かい側が両替所とクロークになっていた。しかし、両替所は案の定閉まっていた。A君が案内員に両替のことを言うと、後で部屋を訪れます、とのことであった。

 案内員がフロントで手続きを取り、部屋の鍵をもらってきた。2号タワー31階の22号室が私の部屋であった。宿泊カードは朝鮮語とロシア語で書いてあった。A君の部屋はお隣の23号室。広々とした部屋にはツインのベッド、机、テレビ、応接セットが置いてあり、もちろん、バス・トイレ完備である。温水も常時出る。テレビをつけると、歌劇を放送していた。

高麗ホテルの客室。平壌で2番目にいいホテル。

 しばらく部屋でくつろいでいると、A君がP案内員を連れてやってきた。P案内員が両替をしてくれるという。1万円=179ウォンのレートらしい。1ウォン=約56円ということになる。そこで、1万円替えることにした。

 手にしたのは、青く小さい紙幣で、とても真面目に作ったとは思えない、子供銀行のような紙幣であった。どうせ外人専用の紙幣なので、こんなにちゃちなのであろうか。

 紙幣の表面には、「ウェファワ・パックントンピョ(外貨と交換した金券)」とか、「チョソンミンジュジュイインミンコンファグク・ムヨグネン(朝鮮民主主義人民共和国貿易銀行)」とか書かれていた。後で金額を確かめたら、全部で180ウォンあった。1ウォン儲かってしまった。それは良かったが、4日間コースの方の案内員が、なぜ空港で両替をしてはいけない、と言ったのかは分からずじまいになってしまった。後である人に聞いたところでは、空港には充分な量のパックントンが用意されていないからではないか、ということであったが、正確な理由は未だに分からない。


  


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