淳仁天皇の隠れ里

菅浦

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万葉集に 「高島の 阿渡の湊を 漕ぎ過ぎて 塩津菅浦 今か漕ぐらむ」 と歌われている菅浦は、三方を切り立った山に囲まれているため、昭和47年に奥琵琶湖パークウェイが開通するまではほとんどの交通手段を船に頼る、陸の孤島であったという。
 道鏡と藤原仲麻呂との政争に巻き込まれて位を追われ、淡路に流され淡路廃帝と呼ばれた淳仁天皇がかくれ住んだという伝承が残っていて、須賀神社の本殿裏には淳仁天皇の御陵が残っている。
 中世の頃には天皇家に特産物を収めることで漁業の特権を持っており、「惣」という独自の自治組織を持っていた。他郷者の移住を拒み、村の東西南北の入り口には四足門と呼ばれる要害の門が置かれていた。
 またこの村には「菅浦文書」と呼ばれる中世の村落の暮らしを記録した文書が残っていて、国の重要文化財に指定されている。

 

レポート
 海津から県道557号で湖沿いを走る。しばらく走ると琵琶湖八景のひとつ海津大崎の岩礁が見えてくる。
 この辺りは春になるとソメイヨシノが約4kmに渡ってトンネル状に咲き乱れるという。日本の桜の名所100選として知られている。

 大浦を過ぎると、交通量も減りほとんど無人の道を走る。ふと道端を見ると丸子船が展示されていた。
 丸子船は琵琶湖独特の船で、丸太を二つ割にしたものを舷側に取り付けられているところから丸子船と呼ばれていたそうだ。今では現存するのは、ここにあるのと大浦にある「北淡海・丸子船の館」にあるのと2隻しか残っていないが、最盛期の江戸時代享保年間には、ここの西浅井町だけでも89隻も就航していたらしい。
 しばらく走ると道は行き止まりになり、菅浦の集落に着いた。山が岸のすぐそばまで迫っており、集落の家々は岸に沿って建てられている。
 集落の入り口のところに四足門があり、その横に須賀神社があって、参道が真直ぐ山に向かって伸びている。
 神社の案内を見ると、本殿の裏側に淳仁天皇陵とあるのには驚いた。淳仁天皇は道鏡と藤原仲麻呂との政争に巻き込まれ淡路島に流されたはずだがこんなところに御陵が残っているとは。とりあえず神社の本殿までいってみる。
 300mほどの参道を進むと本殿前にいかにも手作りといった風の石段があった。登ろうと思ってふと脇の石碑を見ると、土足禁止と書いてある。ちゃんとスリッパも用意されていたが地元の人は今でもはだしで本殿にお参りするらしい。


 神社に参拝後、集落の中を歩いてみる。低い石垣を備えた家が続いている。家々が密集して建っているのが印象的だった。
 あとで知ったことだが、この集落は「男はつらいよ」のロケ地となったらしい。いかにも昔の日本の集落という感じのする懐かしい風景が残る集落だった。




 
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