西近江路

古来琵琶湖周辺は京と東国を結ぶ交通の要衝として、古代から江戸前期に西廻り航路が開かれるまでは、人の往来、東国の物産は全てこの地方を経由していた。
 そのなかでも湖西を通って敦賀に至る西近江路は、織田信長が柴田勝家に命じて北国街道を整備するまでは、越の国と京とを結ぶメインルートとして古い歴史を持ち、伊勢鈴鹿、美濃不破の関と共に古代三関のひとつ愛発の関も置かれていた。
 現在の国道161号がそれに相当し、今では琵琶湖西岸も湖西線や湖西道路ができ賑やかになったが、それでも今津や海津の辺りまで行くと、まだまだ街道沿いには昔ながらの町並みが残っている。


レポート

今回は湖西道路で終点の志賀まで行き、その後国道161号で湖畔を走る。しばらく走ると湖上に白髭神社の赤い鳥居が見えてくる。
 白髭神社は、今から2000年近く前の垂仁天皇の25年、倭姫命により創建されたと伝えられている近江最古の神社で、湖上の大鳥居が有名だが、国道161号をはさんで山手に豊臣秀頼寄進の本殿が建っている。今では参道が国道で分断されている形になっているが、昔の人々は湖上からこの神社にお参りしたらしい。多分湖上の交通の安全を祈願したのであろう。
 紫式部も父の藤原為時が越後に赴任するさいに連れられてこの神社に参拝しており、その時に詠んだ歌の歌碑が境内に立てられていた。





 白髭神社から国道を北に行くと高島の町がある。国道の高島バイパスを通らずに街中の旧道を走る。
 少し進むと道沿いに大溝城三の丸跡の石碑があった。
 大溝城は明智光秀の縄張りにより築かれたと伝えられていて、織田信長の甥で光秀の女婿織田信澄の居城であったが、本能寺の変で光秀が謀反を起すと、娘婿である信澄に嫌疑がかかって、信澄は大阪城で自害した。
 その後城は解体され水口城に移されたが、江戸時代に入部した分部氏によって城跡が整備され現在に至っている。
 少し歩くと田んぼの真中に石垣らしいものが残っていた。周辺に残る地形の高低差でかつての城の姿が少しだけだが想像できる。
 高島、安曇川の町を抜けてから、一旦国道に戻ったが、今津で再度国道を外れ、かつての街道に入る。


今津は小浜から来る若狭街道と西近江路との合流地で、また湖上水運の一大拠点であったから、かつては大いに賑っていたという。今でも宿場町の面影が残っていて街中を走るとその雰囲気に触れることができた。
 松並木が続く湖岸を少し走る。 夏はキャンプや湖水浴のリゾートとして賑うマキノを抜けると海津の町がある。
 海津は、敦賀に抜ける七里半越の起点であり、また港町としても畿内と日本海との物資の中継点として、古代から江戸末期までは大いに栄えていたという。しかし明治後、太平洋航路の発達により日本海航路が廃れたことから町の繁栄も過去のものとなってしまった。
 街道沿いには古い町並みが続いていた。家々の間の石段を降り浜辺に出てみると、浜辺には江戸時代に築かれた水害防止のための石積みが延々と続いている。港としての機能は既に失われており施設ももう残っていない。山がすぐそばまで迫っていて実に寒々とした風景が広がっているのが印象的だった。




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