減災 2012/03/21





今日は朝からどんよりとした曇り空です。
そういえばここ数年、スカッと晴れた青空の日数が少なくなったように感じます。
それこそ学生のころは、年がら年中、星や月を見ていたように記憶しているのですが、
最近見かけるのは曇り空ばかり。
これは、実際には以前と変わらず星や月は見えているのに、私が年を取ったせいで「見なくなった」のか、
それとも本当に「見えなくなった」のか、確実な証拠は持ち合わせていません。

未曾有の大震災から1年が過ぎ、復興と同時に、次の災害への備えが取沙汰(とりざた)されるようになってきました。
最近、「減災」という言葉をよく聞きます。
これまでの「防災」とどこが違うのでしょうか。

「防災」とは、文字通り「災害を防ぐ」ことです。
地震による倒壊(とうかい)を防ぐには、「頑強な家」
津波による被害を防ぐには、「高い防波堤」
大雨による洪水を防ぐには、「上流のダム」「高い堤防」「放水路」
土石流を防ぐには、「頑丈な砂防ダム」
土地の液状化を防ぐには、「地盤改良」
これまで、こうした施設や設備が災害を未然に防いできたことについては異論はありません。
しかし、それにも限界があります。
10mの防波堤に8mの津波が来たとき、津波は防波堤が未然に防いでくれます。
では、10mの防波堤に12mの津波が来たらどうなるのでしょう。
「想定外」などといった短絡思考で片付けるわけにはいきません。
東日本大震災の後に、この単語を聞くたびに私はいらいらしました。
そんな寝言を言っている間にも、多くの人命が奪われてしまいます。
津波は防波堤で防げる、と考えた瞬間に、それ以降の思考回路(対策)は欠落してしまいます。
それでは駄目なのです。
そうしたとき、災害は防ぎきれるものではないことを前提に、では、どうしたら被害を最小限に抑えることができるのかを考えるのが「減災」です。

どんな津波にも100%耐えられる防波堤を作ることは、資金的にも技術的にも困難です。
ですから、どんな津波にも耐えられる堤防、という発想を捨てるところから減災は始まります。
津波は防波堤を越えてくることを前提とします。しかし、防波堤があれば、何もないよりは浸水に時間がかかります。そうしている間に、裏山へ逃げるのです。
町は全滅してしまうかもしれませんが、命は助かります。
このとき、防波堤の整備と同じくらい(むしろそれ以上に)重要なのは、避難経路の整備です。
海岸付近から、真直ぐ内陸に、あるいは真直ぐ高台に向かう太い道路を整備するのです。
病気の人や、高齢で歩けない人は、車で運んであげなければなりません。
そんなとき、信号も交差もない、内陸や高台へ真直ぐ伸びる太い道が何本もあれば、渋滞を怖がることなく、車で非難することができます。
もちろん健康な人は自分の足で走って逃げます。
高層階のビルを避難場所として確保しておくことも重要です。
減災のキーは、どうやって人命を守るかです。
町全体を高台へ移転させるのは極めて有効な方法ですが、これには多くの資金と時間がかかります。

ここでは、津波を中心に記しましたが、建築物やインフラについても同様のことが言えます。
いずれにしても、完璧な方法などないのです。
地震の発生を防ぐことはできませんが、地震に対して備えることはできます。
私の住む町でも、元禄地震の際、津波で多くの死者を出しています。東北での出来事は、決して他人事(ひとごと)ではないのです。
次の大地震は必ず来るということを前提に、今、何が必要かを真剣に考える時期に来ていると思います。

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