男性アーチストな行

中村雅俊 ふれあい 74年 NTV「われら青春!」挿入歌。下駄履きスタイルの素朴なイメージで
人気を集め、番組と共にこの曲も大ヒットした。
大学時代は外交官志望でESSに入るが、のち役者志望に・・・。
74年文学座に入り、同年テレビ「われら青春!」、映画「ふれあい」でデビューした。
以後、庶民派二枚目として活躍。歌手としてはここに展示した以外に「冬の色」などもヒット。
85年NHK大河ドラマ「春の波涛」で川上音二郎を演じ茶の間の人気を獲得。
他の出演作にドラマ「ゆうひが丘の総理大臣」「おんな太閤記」「結婚の理想と現実」「花神」、
そして壇ふみドラマ初出演作となった「虚構の家」などがあり、映画でも「夜逃げや本舗」を始
め、多数出演している。英語ミュージカル「雪舟」も話題に。77年、元アイドルで元女優の
五十嵐淳子と結婚した。
中村雅俊 いつか街で会ったなら 75年 NTV「俺たちの勲章」挿入歌。
中村雅俊 俺達の旅 75年 NTV「俺たちの旅」主題歌。
中島敏昌 西成山王町 00年 義理と人情の・・嗚呼・・西成山王町。西成区在住の私でも知らなかった曲。
四年前に中古レコード店で発見した一枚です。嬉しかった・・・
中条きよし うそ 74年 デビュー曲。これ以降パッとしなかったのか、役者に転向。必殺仕事人で決まり!
若い頃は毎晩のように飲み歩き、多い時は洋酒をボトルで2〜3本飲んでいた彼だったが、
最近ではすっかり甘党になり「つぶあんよりも、こしあんの方が」と好みもうるさく、和菓子
や洋菓子などを奥方(97年結婚)と2人で楽しんでいる毎日だそうな・・・(2000年現在)
座長芝居を始めて15年(2000年現在)になる彼は、元スナックのマスターである。

読売テレビの全日本歌謡選手権出身 歌謡選手権出演時のワンカット
永井秀和 恋人と呼んでみたい 67年 この年のレコード大賞最優秀新人賞を佐良直美と共に獲得し、翌年映画化されて
主役もこなしたが歌手としては長くは続かなかった

暁星高校入学の67年、ビクターから「夕陽のチャペル」でデビュー。2作目のこの曲で新人賞
を取った。68年映画化の同名タイトル「恋人と呼んでみたい」に続き、「だれの椅子?」、69年
「恋の乙女川」に出た後、日大高校に転校、歌手を廃業して大学に進んだ。以後テレビ俳優
となって、73年以来NHK「国盗り物語」、NTV「つくし誰の子」「北都物語」「渇愛」「新五捕物
帳」、TBS「白い荒野」他に出演。64年には東海ラジオの「永井秀和のマイルドナ朝」にレギ
ュラー出演していた他、企画制作会社「エヌボックス」社長としてイベントのプロデュースを
おこなっていた。
お父さんは「水戸黄門」、「大岡越前」「大江戸捜査網」などの時代劇に多数
出演していた俳優の永井秀明(64年以前は本名の永井達郎で映画に出ていた)さんです。
仲 雅美 ポーリュシカ・ポーレ 71年 曲そのものはメジャーすぎて、この人の持ち歌と言えるかどうか・・ それでも36万枚を
売り上げて、この年の
レコード売上ベスト17位に喰い込んだ曲である。
映画「愛と誠(西城秀樹主演)」や「同棲時代(由美かおる主演)」をはじめ、テレビの「刑事く
ん」など、多くの映画・テレビにも出演していた彼だが、それを覚えてる人は何人いるだろう?
デビュー当初は沖雅也と兄弟に間違えられたりもしたんだよね?仲雅美って。美男子だった
NAC 表参道 74年 犬と散歩する高級住宅地のお嬢様が目に浮かぶ、そんな美しいメロディーと詞です
中村鋭一 タイガース音頭 00年 大の阪神ファンで知られる鋭ちゃんです。
同志社大学商学部卒業後、朝日放送のアナウンサーとなって人気がでました。
中村鋭一 阪神タイガースの歌 00年S52年参院選立候補で落選。55年当選するも61年には西川きよしとの競合で落選。
平成元年参院選再度の立候補で当選・・・色々とた〜いへん。
なぎらけんいち 悲惨な戦い 73年 放送禁止扱いの一枚です。
彼は高校を卒業してペンキ屋に勤めるうち、何故かフォークブームに乗っかって
プロ歌手に。
72年ファーストアルバム「万年床」を発表。
映画では、日活「嗚呼!!花の応援団」に”薬痴寺”役で出演してました。これがまたハマリ役で
最高に面白かった。現在は司会などテレビタレントとして活躍中。
漫才ブームだった頃、ヒップアップに「上田馬之助の歌」を提供したのは彼です。
永田英二 恋をあげよう 70年 フォーリーブスのオリジナルメンバーだったけど年齢が低すぎるということで外されて
代わりに青山孝がメンバーに加わった
。後に八田英二と改名。
ソロとしてのデビューは69年に発売された下記の「あこがれ」って曲から。
永田英二 あこがれ 69年 デビュー曲。
女の子みたいな顔してるな? 確かに幼いや・・・
南雲修治 女風呂の唄 70年 ジャケットは古谷三敏氏(ダメおやじを描いた方)による女風呂の漫画
この名前、”なぐもしゅうじ”と読みます。年の割にオジンくさい風貌、明るく振舞うほど暗さの
目立つ性格。歌よりもそっちの方が面白い人でした。
仲 浩二 グリーン・エイージの恋 00年 どなたか情報を下さ〜い m(__)m
名取忠彦とグリーングラス しのび愛 00年 どなたか情報を下さ〜い m(__)m
中山 仁 亜矢子 66年 ABC-TVドラマ「亜矢子」主題歌。不良っぽい雰囲気がカッコよく決まってる中山仁さん
のジャケットです。しかし、気が滅入るような暗い曲であります。
65年劇団NLT入団。68年三島由紀夫の劇団浪漫劇場創立に参加し、70年の解散まで所属
していた。映画での二枚目時代を経た後、TVドラマなどでワキ役の中堅どころとして活躍。
僕は「サインはV」を見て始めて彼という存在を知った。岡田可愛というかわい子ちゃんも。
長江健次 SHYナ・ガール 83年
西川きよし 愛妻物語 75年 きよしさんは自動車修理工場を経て、17才の時に石井均(舞台俳優)に弟子入り。
1年後、吉本新喜劇へ。横山やすしとコンビを組んだのは66年で、その翌年、漫才大賞新人
賞、70年上方漫才大賞を受賞。さらに80年には芸術最優秀賞も受賞した。
やすきよの速いテンポの縦横無尽な笑いは、東西ナンバーワンの実力とも言われていた。
86年に参院議員初当選。次男はタレントの西川弘志。
妻のヘレンさんは、母1人子1人の母子家庭に育ち、混血ということでいじめられて泣き明か
したこともある。高校を中退して歌手を目指すが半年後、吉本興業へ。
そこで西川きよし氏と出会い、周囲の反対を押し切って20歳の時に結婚して芸能界を引退。
下積み時代から夫を支え続けた。(そんなヘレンさんに対する思いがこの曲なのかもね?)
話の流れから横山やすしさんについても以下に↓
59年中学卒業後
松竹新芸社に入社。
同年天才的な漫才作家と呼ばれた秋田実氏に入門し、「堺シン助、正助」でデビュー。
”天才少年漫才師”と称賛された。61年横山ノックの元へ弟子入り。
その後何度か相方を変え、66年西川きよしとのコンビを結成。
以来めきめきと名をあげ、漫才ブームの頂点に立った。セスナも操縦、音楽はジャズまで聴く
など趣味は広く、ボートでは自分のレーシングチームも持つセミプロぶりだった。
強烈な個性、絶妙な間どりで「天才漫才人間」と評される。84年映画「唐獅子株式会社」に
初主演したのに続き、85年にも映画「ビッグ・マグナム黒岩先生」で主役をつとめた。
しかし、その後長男(木村一八)の傷害事件や自らの度重なる事件・事故のため、平成元年
4月吉本興業から解雇された。
(タクシー運転手を”カゴかき”呼ばわりして暴行を加えたり、飲酒運転で事故を起こしたり、
酒を飲んでTVに出演して暴言吐いたり、番組をすっぽかしたり・・・ 色々ありました)
吉本から解雇されたあとは復帰もままならず、悩み、酒で寂しさをまぎらわす日々を送ってい
たが、96年1月21日アルコール性肝炎のため逝った。享年51歳であった。
なお、99年3月18日、彼の娘さんが「木村光」の名で漫才初舞台を踏んだのは喜ばしかった。
ニック・ニューサ サチコ 81年 名前の由来は”New York City New York U.S.A”の頭文字からきています。
音楽界に数々のアーティストを送り込んできた福岡。その中でもロックバンドの宝庫として
名高いのが博多のナイトレストラン”LALA”

ニック・ニューサはそこのレギュラーバンドとして活動していました。
(”LALA”でかなり検索かけたけど見つからなかった。そのお店、今はもう無いのかも?)
西田敏行 もしもピアノが弾けたなら 81年  テレビの「池中玄太80キロ」「おんな太閤記」そして曲のヒットと、この頃は西田人気
の絶頂期だった

明治大学農学部を66年に中退後、日本演技アカデミーを経て、友人と「劇団 シアター67」を
結成。しかしたった1年で解散。70年に劇団「青年座」に入団。72年矢代静一の「写楽考」で
舞台初主演して注目され、74年NHKの朝の連続テレビ「北の家族」の大工役でお茶の間の
人気をつかんだ。その後NHK大河ドラマ「おんな太閤記」や「鬼が来た・棟方志功伝」「池中
玄太80キロ」などで活躍し、ユーモラスな風貌が人気を呼び売れっ子俳優となった。
その後の出演作に映画「植村直己物語」「敦煌」「釣りバカ日誌シリーズ」や、テレビでは「西
遊記」「サンキュー先生」「港町純情シネマ」「武田信玄」「翔ぶが如く」他多数あります。
90年にはNHK紅白歌合戦の司会もつとめました。
西田敏行 淋しいのはおまえだけじゃない 82年 映画「敦煌」では88年度日本アカデミー賞主演男優賞を受賞。
にしきのあきら もう恋なのか 70年 途中でヒットが出なくなり、しまいには"8時だよ全員集合"の体操コントや、水泳大会の
隅っこでしか見かけなくなった。運動神経抜群の王子様って感じのイメージもあったのに・・・。
妙にパンタロンがよく似合う歌手でした
。彼のライバルには野村真樹がいた。知ってるけ?
にしきのあきら 罪の色 75年 彼には珍しく、歌い方がメッチャ可愛らしいんですよ・・・この曲・・・
該当無し 該当無し 該当無し
各駅停車 73年 このグループの大久保さんは、後に伊勢正三と組んで「風」を結成されました。
リードギター&ボーカルは御守孝明さんて方で、現在も自作CDやTVのコマーシャル作り、
ライブ活動にと活躍中です(2001年現在)。
ちなみにこの曲の作詞は、文化放送の番組の構成作家としても大活躍していた喜多条忠、
作曲は石山恵三さん。
彼らのもう一つの大ヒット曲、「地下鉄に乗って('72)」を作ったのは吉田拓郎さんであります。
他に同じ72年には「雪」というヒット曲もありました。
73年という年は彼らと共に、「学生街の喫茶店」のガロをはじめ、よしだたくろう、五輪真弓、
ビリー・バンバンなどが活躍し、フォークというものが若い人達に浸透した年でもありました。
野口五郎 私鉄沿線 75年 この曲は実兄である佐藤寛さん(作曲家)が彼に提供したものです。
12才でテレビの歌謡大会チャンピオンとなったのをきっかけに歌手を目指して中学2年の時
上京。
71年に演歌歌手として「博多未練」でデビューしたがさっぱり売れず、ポップスに転向。
次に出した「青いリンゴ」が大ヒットし、一躍アイドル歌手となった。
当時は郷ひろみ、西城秀樹と共に”新御三家”と呼ばれてたけど、激しいアクションの秀樹、
目立つ衣装のひろみの中にあって静かな感じの五郎は少々押され気味な存在ではあった。
そうそう・・・ 2000年になってやっと彼にも結婚話が出てきましたね?
野口五郎 オレンジの雨 73年 甘いマスクに甘い歌声、人柄の良さが受けて多くの女性ファンをつかみました。
野口五郎 愛ふたたび 74年 NTV「カックラキン大放送」では二枚目顔で演じるギャグに大笑い。
野口五郎 きらめき 76年 "19:00の街""誰かが私を愛してる"等もスローバラード調で良い曲だよ。
野口五郎 甘い生活 74年 初のNo.1ヒット。悲しく切なく歌います。
野口五郎 青いリンゴ 71年 デビュー曲の「博多未練(演歌)」が全く売れず、この曲で方向転換。
野村勝夫 北の流浪 77年 東映映画 「トラック野郎・男一匹桃次郎」挿入歌。