麗しい姿


 
 事の始まりは、郭亦の朝帰りだった。
 女の所からそのまま参内する辺り、父親とそっくりな男だが、こんな時にやはり父親に文句を言いまくっていた陳羣に捕まり、案の定こってりと叱られたらしい。

「しかし今日はいつもよりも大分絞られたと聞いたが」
 皇帝となった曹丕の耳にまでそんなことを伝えなくても良いではないかと郭亦も抗議をしていたが、そんな物は陳羣にとっては馬耳東風である。
「それは当然です!」
 陳羣は曹丕に向かって「あの男のなりを見てください!」と郭亦を指さした。
 曹丕はその涼しげな目をゆっくりと郭亦に向け、上から下まで何度か視線を巡らせた。
「? ……長文、何を怒っているのだ?」
 曹丕はほんの少し小首を傾げた。この主は、まるでそうは見えないくせして、実は結構天然である。そんなところが堪らなく可愛らしいのだが、本人にはもちろんその自覚はない。

「陛下、公益殿の着ている物ですが……」
 こっそりと司馬懿が助け船を出す。
「着物…? 俺は着物のことはよく分らんが……」
 そう、曹丕は着る物には全くの無頓着だ。あまりに無頓着すぎて、時々頭が痛くなる。
「……中衫の色がずいぶん派手なようだが、そういうことか?」
 派手などころか、若草色の上衣の間から、目に鮮やかな紅梅色の中衫が見えている。確かに色の重ねとしては目にカチカチ来るが、郭亦の少女のような美貌には、よく似合っているような気もするのだが。

「陛下…」
 司馬懿が溜め息と共に、そっと曹丕に耳打ちした。

「…女物です」

「ん?」
 もう一度よく見ようと曹丕が目を凝らした瞬間、陳羣のよく通る声が辺りを揺らした。

「そんな物を着て登城するとは、貴様は神聖な政の場を何だと心得ているのだ!」
「だって暗くってよく見えなかったんだもん。良いじゃんそんな怒んなくってもさ〜。サボるよりは良いじゃんよ〜」
「”よ〜“ではない! 女物の衣装を身につけるなど、貴様は恥という言葉も知らんのか! 男でありながら、何ということだ!」
「でも似合ってるっしょ?」
「貴様…!」

 曹丕は二人のやりとりを見つめながら、ほんの少し愉快になって、小さく笑った。どうやらそれを見られてしまったらしい。
「陛下! 何を笑っておいでですか!? その様に陛下がこやつを甘やかすから、奴の悪癖がいつまで経っても治らんのです!」
「いや、すまない……」
 小さく咳払いをした曹丕に、郭亦は「付け入る隙あり」とでも思ったのだろう、「長文殿が着るならまだしも、俺が着てる分には良いでしょう?」と鮮やかに笑って見せた。
「何を言い出すか! この私がそんな物を着るとでも思っているのか!」

「イヤイヤ、意外と着てみたら似合っちゃうかもしれませんよ?」

 それまで座の隅でオロオロと成り行きを見守っていた曹真が、いきなりぺろりと口を挟んだ。その不穏な発言に、陳羣がかっと目を見開いて喰ってかかる。
「若造共が何を言い出すか! この私を侮辱するつもりか!?」
「まぁそう怒るな長文」
 曹丕は陳羣を笑いながら諫めると、ほんの少し目を細め、遠いところを見るようにしていきなり口を閉ざした。

「…陛下?」
「陛下、どうなさいました?」

 曹丕は視線を皆に戻すと、涼しい顔に滅多に見せることのない柔らかな微笑みを乗せた。もちろんその場の五人が即座に顔を赤らめたことは言うまでもない。

「長文、意外とお前、似合っているぞ」

「…陛下!?」
曹丕はくすくすと笑いながら、形の良い顎に指を這わせた。口髭を蓄えた初老の男を捕まえて、この主は何を言い出すのか。
「公益ほどになってしまうと、あまりにも女物が似合いすぎて逆につまらんな。…子丹…、そうだな、子丹も結構可愛いかもしれないぞ。お前は顔がさっぱりしているから、紅を塗ると意外と映えそうだ」
「…陛下…」

 とんでもない遊びを始めてしまった曹丕に何とか現実に戻ってもらおうと、司馬懿は曹丕の袖をそっと引いた。その途端、曹丕はくるりと振り返り、司馬懿を見てふっと目を和らげた。
「仲達…くくっ、お前も結構なかなかの物だぞ」
「……そんなことをおっしゃると、私も陛下の女装姿を想像しますよ?」
「何? 俺を侮辱しようというのだな?」
 曹丕は形の良い唇をほんの僅かにつり上げて、挑発するような笑みを作った。
「面白い。想像できるものならして貰おうか」
「ではお言葉に甘えまして。

 司馬懿はそっと目を閉じた。

 齢四十を過ぎてもうずいぶん経つというのに、曹丕は奇跡のように昔の姿を留めていた。決して女性的な美貌ではないが、凛とした切れ長の、そのくせ黒目がちな目も、墨を掃いたような眉も、うっすらと色づいた唇も、すっきりと肉を削ぎ落として引き締まった体も、長くて細い手足も、曹丕の全てが我々を引きつけてやまないのだ。
 この主に女物の衣装を付けるなど、想像するだけでも主を穢しているようなもの。代わりに司馬懿は禅譲の折りの、あの豪奢な衣装を幾重にも纏った曹丕を思い浮かべていた。
 人の身ではなくなった主の、なんという美しさか……。

「こら仲達! いつまで想像していれば気が済むのだ!」
「そうだぞ! 少しくらい陛下に気に入られていると思いやがって!」
 うるさい外野の声に、司馬懿はそっと目を開けた。曹丕が面白そうに、そうして意地悪そうに司馬懿を見つめている。

「いえ、これは失礼を。どうにも陛下の女装姿というのを想像するのが難しかったもので」
 心にもないことをしらりと口にする司馬懿に、曹丕は愉快そうに怒り顔を作ってみせた。
「無礼な奴だな、仲達」
「はい、陛下」
 まじめな顔で頷いてみせると、曹丕は小さく笑顔を見せた。

「よし、ではお前達、今私が思い描いた姿を実際に晒さずにすむように、これからは気を付けて暮らすが良い」
「……と申しますと?」
 ふふん、と、曹丕が鼻で嗤う。そんな姿まで美しい。
「これからお前達に何か不手際があった際、お前達は俺の暇つぶしにされる、ということだ」
「陛下!?」
「そ、それはちょっとあんまりじゃ!」
「不手際がなければ何も問題はないのだ。まぁせいぜい気をつけるが良い」

 その時の曹丕の顔があんまりにも楽しそうで、それでいて綺麗だったから、五人はちょっとの間その顔に見とれてしまい、反論するのを忘れた。

 ……そうしてそれが、「諾」の印になったのだ……。



 それ以来だ。あの美しい主はもうこの世にいないというのに、五人は互いの不手際を見ると、「墓前で先帝の無聊をお慰めしてくるが良い」とこっそり女物の衣装を送り合ったりするようになった。
 曹真と司馬懿が対蜀の戦の折り、女装を賭けて作戦を主張した、というのも、実はこんな事がきっかけだったりするのだった。   


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