小さな楽園の午後 |
象を見たいと言い出したのは、一番下の阿熊だった。 三日前に象のお披露目があったときにはその巨大さに泣き出したくせに、いきなり象を見たいと駄々をこねる。 「何言ってるんだよ。また泣くくせに」 「泣かないよ! ねぇ兄上、象が見たいよぉ」 曹彰に言っても無駄なことを知っている阿熊は、最初から曹丕にまとわりついている。 「兄上に我が儘言うなってば。象の側には父上がいるぞぉ」 「ははは子文、阿熊をいじめるなよ。大丈夫、父上は今日蒼舒とお出かけしてるから。こっそり見に行くか?」 うん!と体中で返事をして、阿熊が嬉しそうに兄上の手を握る。空いた方の右手は阿植に取られてしまった。まぁ、この年で兄上と手を握るのはさすがにちょっと格好悪いけど、本当なら俺が兄上と手をつなぎたいのに。 こんな時、次男は損だと、いつも曹彰はがっかりする。 三日前、どこだかから象が献上されてきた。あまりに巨大な動物で、父上は上機嫌になって象を見せびらかした。一通りのお披露目が終わった後、象の重さをどうやったら量れるのかお気に入りの者と内輪で考えたりしたらしい。 蒼舒がなにやら名案を出したらしく、父上はそれを大いに歓んでみんなにまた自慢していた。たった八歳の天才児。父上は蒼舒に夢中だ。 その場にいれば、兄上だってその位のこと、絶対進言したのに。 ……俺達はその場にいなかった。 呼ばれなかったのだ。 「それにしても蒼舒は賢いよな。おい、子文、虎痴殿がなんて言ったか知ってるか?」 兄上は暢気なことを言っている。兄上に合わせて「賢い賢い」と、訳も分からずに言っている阿熊を足先でこづくと、阿熊は兄上にしがみついて「二哥がいじめるよ!!!」と言いつけた。 「こら子文、阿熊いじめるなって」 「兄上、象にあげる物を持っていこうよ」 「象が何食べるか知ってるか?」 「野菜とか果物じゃなかったですか?」 阿植が賢そうな目で兄上を見つめる。弟たちは兄上の気を惹きたくて必死だ。 俺は今更兄上の気を惹く必要なんて無いぞ。だって俺が兄上に一番年が近いんだから。 理由になってるんだかなってないんだかよく分からない根拠で、曹彰は悦に浸る。 「じゃあ厨に行って何かもらってくるか」 「兄上、阿熊はリンゴが食べたいな」 「象にあげるんじゃないのか?」 「阿熊もリンゴ食べる!」 「阿熊が象なんだよな?」 「阿熊は象じゃないよ!」 「ほら子文、阿熊をいじめるなって」 兄上が楽しそうに笑いながら、阿熊の頭をそっと撫でる。 阿熊はずるい。年が小さいからって、兄上は阿熊ばかり撫でる。 廊を厨に向かって歩きながら阿熊はもう興奮している。兄上の手を前後に振りながら、「象はぁ大きぃなぁ〜」とか「象〜象〜」とか、訳の分からない歌を歌っているが、そんな阿熊にいちいち相づちを打つ兄上は本当に律儀だ。 「象はリンゴ、好きかな」 「そうだなぁ」 「でも兄上、どうやってリンゴをあげるんですか?」 「え?」 阿植の声に一瞬兄上の足が止まる。期待に胸をいっぱいにして一心に兄を見上げる弟二人の視線を受けながら、兄上は視線を辺りに彷徨わせた。 象が餌を食べるところを、この間は見れなかった。馬ならば口に人参を運んでやればよいが、あれほど大きな象だ。そのことを考えていなかったのだろう、微かに動揺しているのが分かる。 「あ」 その時廊下の端に人影が見えた。曹丕は弟たちを後ろにかばうように、一歩先に進んだ。 阿熊が兄の腰にしがみつき、阿植は間接が白くなるほど兄上の手を握っている。 「若?」 「夏侯の叔父上……」 兄の肩から力が抜けたのを見て、弟たちもほっと力を抜いた。そんなに緊張してしまう弟たちが不憫だと、内心曹彰は弟たちを哀れむ。だがそういう曹彰も気がつくと拳を作っていたらしい、手のひらに食い込んだ爪の痛さにやっと気づいた。 「どうなされました? お揃いで」 人影は父上の最も信頼の厚い夏侯惇と、その従兄弟の夏侯淵だった。 この二人は父の信頼が厚いせいか、それとも身内の気易さか、正夫人の息子である四人の兄弟のことも、長男である曹昂のことも、父の一番のお気に入りである曹沖のことも区別することなく、二十七人の子供全てに同じ視線を向けてくれる数少ない幕僚である。 そのせいか、曹丕はいつもこの二人を「叔父上」と呼び、寛いだ笑顔を見せていた。 「象を見たいのだが、今見れるだろうか……?」 「ああ、それなら俺達も見に行くところです。一緒に行きましょう」 夏侯淵が子供のように白い歯を見せる。 「妙才の叔父上も象見るの?」 「はい。何しろあんなにでっかい生き物は初めてですからね」 兄が寛いだ様子を見せているので、阿熊もそれにならって夏侯淵に甘え始めた。 曹彰はそれが面白くない。 阿熊はいつでもこうだ。俺なんか兄上一筋なのに、こいつは甘やかしてくれるなら誰でも良いのだ。 第一、兄上が俺達以外の奴にこんな風に自然な顔を見せてもこいつは平気なのか? 俺達の兄上なのに。 「象を見る前に、厨に行って象に与える物を貰ってきたいのだが」 「ああ、それならこいつがリンゴを三つと菜っぱを三把貰ってきたので、それを与えたらよろしいでしょう」 見ると夏侯淵は大きな包みを持っていた。どうやら象の餌らしい。 「叔父上、阿熊にもリンゴちょうだい」 「では一つはみんなで剥いて食べましょうか」 「阿熊、それ象の餌だぞ」 「じゃあ二哥は食べなきゃ良い」 「こら、叔父上達の前でケンカするな」 曹丕が流れるような手つきで曹彰の肩を押さえた。曹熊が得意げに曹彰に向かって舌を出すと、その頭を今度は軽く握った手で叩く。 「兄上が阿熊ぶった〜」 「お前が悪いからだろ」 「ははは、元気があっていいですね」 「お前が言うな、妙才」 「何でだよ元譲!」 曹丕が笑う。つられてみんなが笑い、ちょっと下唇を出していた夏侯淵も、一呼吸おいてから一緒に笑い出した。 近くで見ると、象は思ったよりも大きかった。長い鼻がゆったりと揺れている。 四人は一様に、その巨大さを実感するなり足を止めてしまった。 「どうしました、さ、どうぞ」 夏侯淵が楽しそうに四人の様子を眺めてから象に近づいていく。 「大きぃ……」 阿熊は口を開けっ放しである。 「……それで、象にはどうやって餌を上げるのだ?」 その場を動こうとしないまま、曹丕がやっと口を開ける。 「食べ物を差し出すとあの鼻を寄せてくるので、鼻に渡してやればよいのです」 「鼻に?」 驚いた曹丕の手に夏侯淵がリンゴを渡そうとするが、ためらって曹丕は手が出せずにいる。 「さ」 「……押しつぶされたりはしないのか?」 「象は優しい動物らしいですよ」 そっと曹丕の後ろに回って、夏侯淵が背中を促す。その様子に、曹彰は一瞬頭に血が上った。 何故両手を兄上の細い肩にかけている!? うわ! 兄上の背中を胸で受けてやがる!!! ちょっと待て!! いくら父上の従兄弟だろうと、そんなことをして良い権利はお前になんか……!!!!! 「みょ……」 「妙才の叔父上、リンゴを下さい」 勢い込んだ曹彰が一歩出るよりも先に、曹植が夏侯淵の手からリンゴを奪った。 「子建、大丈夫か?」 「兄上も一緒に上げましょうよ」 「ああ」 弟があげると言い出せば、決して弟を危険に曝さないよう、先に立つ兄である。 曹植の手からリンゴを受け取る曹丕を、夏侯淵が楽しそうに見ている。その夏侯淵を曹彰が後ろから睨んでも、勿論誰も気づかない。 弟をかばっている気持ちが強いせいか、曹丕の足は先ほどとはうって変わって力強く、なんの躊躇いもないように象に近づいていく。 「……やっぱり近くで見ると大きいですね、兄上」 「大丈夫だ。お前があげるか?」 兄に肩を支えられたまま、阿植が小さく首を振る。そんな阿植に優しく微笑んで、曹丕が、それでも少し怖々とリンゴを持つ手を象に近づけた。 「大丈夫ですよ、若。私がここにいますから」 夏侯惇が象の足下によって、その体をぽんと叩く。少し離れて阿熊が夏侯淵に抱き上げられながらその様子を見つめている。 ……曹彰は蚊帳の外、という感がある……。 象の大きく長い鼻が形の良い曹丕の手元に延び、ゆっくりと、吸い付くようにその手からリンゴを受け取った。 「うわぁ……!」 阿熊が声を上げる。 「兄上、大丈夫ですか?」 曹植も少し興奮気味だ。頬が紅く上気している。 「……鼻が触ったぞ……」 「どうでした!?」 「……濡れてた……」 はしゃぐ弟達とは対照的に、曹丕は少し気が抜けたような顔だ。 楽しそうに夏侯淵が菜っぱを小分けにし、曹植と曹熊に渡していく。 「ほら、大丈夫ですから、あげてごらんなさい」 「うん!」 兄のすることなら何でも真似をしたい弟は、菜っぱを手に象に近づいていく。曹丕は象に触れられた手を見つめ、そっと匂いをかいだ。 つまらなそうにその様子を見ている曹彰を、いきなり兄が振り返った。 「子文、お前はあげないのか?」 「俺は……」 「なんだ、下の子達だって平気なのに。ほら」 笑いながら曹丕が切り分けられた菜っぱを曹彰に渡す。 ……俺の気も知らないで……。 だが優しく笑う兄を見ていると、曹彰はむくれているのがバカらしくなって、菜っぱを手に弟たちの輪に加わった。 銘々が餌をあげ終わり、それでは人間がリンゴを食べましょうかと夏侯淵が小刀を取り出したとき、背後で突然人の声がした。 「何をしておる」 ―――父だった。 すっと曹丕の顔から表情が無くなり、弟たちにもそれが伝わる。 曹操は脇に幼い曹沖を連れ、その手を握っていた。 ……そんな事を、自分たちはされたことがないのに…… 「ああ、主公。今若様方をお誘いして、象に餌をやっていたところです」 夏侯惇が笑顔で曹操に報告する。ほんの少し事実をねじ曲げて。 「この間のお披露目では遠すぎて、若様方もよく見れなかったんじゃないかと思って。ね、今リンゴをあげてたんですよね?」 と、夏侯淵も続ける。 ぎこちない顔で阿熊が頷くが、他の三人は気まずげに視線を伏せたままだった。 「そうか。象はでかくて危ないから、お前達、あまり近づくではないぞ」 「はい、父上」 曹丕が形式通りに頭を下げると、曹操は軽く頷いて曹沖に向き直った。 「どうだ、蒼舒、お前も餌をあげてみるか?」 「はい、父上」 「父がいるから、怖いことはないぞ」 子供達の住む館へと四人を送りながら、夏侯淵が大げさに溜息を吐いた。 「全く、可愛がり方も半端じゃないよな」 「よせ、妙才」 「あ……」 夏侯淵が慌てて口を閉ざして四兄弟を盗み見たが、四人は無表情のままだった。謝るのもどうかとは思ったが、でも言わずにいるのもなんだと思ったのだろう、口の中で小さく、でもはっきりと「すいません」と呟く。 気まずい空気が流れた。 その時、小さくクスリと笑う声がした。 「父上がペットを可愛がるときは、いつもあんな物ですから」 「子建……?」 五人の視線が自分に集まっているのを感じたのか、曹植は顔を上げて、にこりと笑う。 「象はペットとは言いませんか?」 「ああ…、象か……」 「象は……ペットかな……?」 夏侯の二人が複雑な顔をしていると、すぐそこはもう子供達の住まいである。 「それではここで」 「叔父上、ありがとうございました」 曹丕が丁寧に頭を下げると、夏侯惇、夏侯淵の二人も儀礼通りに拝手の礼をし、それから三人で楽しそうに笑った。 一番下の阿熊は、先ほどの一件があったのも忘れて興奮して喋っている。兄はその阿熊の話にいちいち頷きながら、時々阿植の方を気にしていた。阿植は椅子に腰掛けて、兄の書物をひもといている。 曹彰は最近の曹植にほんの少し違和感を持っている。 確かに弟であるはずなのに、なんだか弟ではないような、何かおかしな感じがするのだ。 「でも兄上、やっぱり象、面白かったですね」 阿植が笑顔で兄上に声をかける。兄上もほっとしたように阿植に微笑んだ。 「そうだな、また見に行こうか」 曹丕が笑う。 大好きな兄の笑顔。 「今度は四人で、内緒でな?」 何も心配することはない。この兄が居るのだから。 そうだ。俺たちは兄上さえいれば、それでちゃんとうまくいくのだ。 「二哥、今度は象に後込みしないでくださいよ」 「うるせぇばぁか、俺は別に後込みなんてしてません〜〜〜」 「どうだか。あの二哥の顔ったら!」 「ああ、ちょっとした見物だったぞ」 「兄上まで、何言うんですか!!!」 午後の風が気持ちよい。 四人はいつまでも囁きながら笑いあった。 この、小さな楽園の午後に。 |
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