図 書 館


 
 それは遅い午後だった。そろそろ日も暮れてきて、かといってまだ夜というには早すぎる、そんな時間である。さっきから床の上でなにやらごそごそと書を漁っていた甘寧が、ふと思い出したように口を開いた。

「そういや子明ってさぁ、男にやられたことって、ある?」
「へ?」

 こちら側に背を向けたままの口調はいつも通りで、いきなりそんな突拍子もないことを言いだしたにしては平坦すぎた。

「……無いけど、いきなりなんで?」
「イヤ、何となく」

 あんまりにも当たり前な背中に少々不安を覚え、呂蒙は甘寧の隣に移動してみた。だが隣りに座ったところで、甘寧は書物に夢中で呂蒙を気にも留めていないようだった。

「いや、あの、興覇?」
「ん?」

 どうやら読みかけていた書の続きを探しているらしい。甘寧が呂蒙の家を図書館代わりにしているのは毎度のことだが、呂蒙が書を適当に積み上げてしまうのも毎度のことで、書を探すたびに文句も言わずに整理をしてくれる甘寧に、やはり毎度のことながら頭が下がる。

「えっと…あ、でも俺、男抱くのだって、興覇が初めてだし」
 言い訳のように付け足すと、甘寧は横目でちらりと呂蒙を見た。

「あー…」
「興覇…?」
「……そんな感じ……」
 どういう意味だと突っ込む間もなく、甘寧はまた書物に目を落とした。

「……何捜してるの?」
「呉子の…解釈つけた奴、あいつ何つったかなぁ…とにかく思い出せねぇとこあって、気持ち悪いからよ」
「ね、なんでいきなりそんなこと訊いたの?」
「いや…何、男に興味なかった?」
「うん。最初の時に言ったじゃん」
「俺には一目惚れって言ったぜ?」
「それも言ったけど……って言うか、興覇は別だよ? ……まぁ俺、女にもあんま興味なかったし」
「ふーん…」

 甘寧は脇目もふらず、木簡を手にしては右から左に振り分けていく。自然、口調はいい加減だ。人の話を聞いているのかいないのかもよく分からない。
 元々甘寧にはそういう所が少なからずあった。自分の興味の対象には熱心で、それ以外にはぞんざいな所が。だがこんな話を振るだけ振られて、放っとかれる方は堪らない。

「…興覇? えっと……何?」
「ん? イヤ、別に。何? お前、昔は枯れてたんだ?」
「そうじゃないけど……若い頃は武術を磨くのに忙しかったし、呉に来てからは書を読まないといけなかったからさ」
「じゃあ機会があったらしたんだ?」
「えー? しないと思うけど……」
「すりゃ良いじゃん」
「興覇以外とはしないよ、気持ち悪いもん」
「うわぁ、差別発言…」

 うわぁ、とか言いながら、その声すら上の空だ。いい加減何とかして欲しいと思っていると、いきなり甘寧は「おっ」と高い声を上げた。

「あった?」
「あぁ、これだこれだ。これ借りてっても良いか?」
「うん。返すのはいつでも良いから」
「ん、サンキュ」
 満足そうに見つけた書を文机の上に置くと、やっと甘寧は呂蒙の方に向き直って、大きく伸びをした。

「あぁ、これでやっと喉の骨が取れる」
「良かったね。…で、興覇。えっと、さっきの話、何?」
「イヤ、本当にちょっと思いついただけ。何? ホモが嫌いな子明殿は、男とやってみるか〜とか、やられてみるか〜とか、思ったこともねぇの?」
 別にホモが嫌いと言った覚えはないけどと口の中でぶつぶつ文句を言いながら、呂蒙は少し考えてみた。しかしいくら考えても、自分が男にやられるという考えは、あんまりぞっとしない。

 だが、しかし……。

「……そう言われると、あんまり興覇が気持ち良さそうだから、そういう時はまぁ、ちょっとは興味持ったりする…かな? でも俺は興覇が気持ち良くなってくれる方が良いからなぁ」

 そこまで言って、ふと思い当たった。

 ひょっとして興覇がいきなりこんな事を言いだした理由って……。

「あ、あのさ、でもほら、えっと、興覇がもししたいって言うんならさ、お、俺も考えないでもないよ?」
 そうだ。俺ばっか自分本位で、興覇はひょっとして長いこと不満だったのかもしれない! だからいきなりこんなことを……?

「……子明……」

 心なしか、甘寧はぐったりと疲れたような顔をしている。……ひょっとして、俺はまた見当違いのことを言ってしまったのだろうか……?

 甘寧が、そっと呂蒙の肩を叩く。

「その心意気は買ってやりてぇけど、当分の間馬にも乗れなくなるから、その考えはとっとと捨てちまった方が良いな……」
「え?」
「いや、とっくの昔にやったことがあるってんならあぁそうふ〜んで終わる話だったんだけどさ。まぁ、その年でこれからそういう経験をしようと思っても相手捜すのも大変だし、お前の体もついていかねぇだろうし、馴れるまで休めるような暇な仕事もしてねぇだろうし、まぁあんまり興味もないなら、お前は一生そのまんまで行っちまう方が得策だと思うぜ?」
「……えぇと」

 今の発言には何か沢山突っ込みどころがあるような気がするのだが、あんまりにも沢山突っ込みどころがあるせいで、何から突っ込んで良いのか分からない。

 だが取りあえず。

「……相手捜すの大変って、相手は興覇じゃないの……?」
「いや、俺はお前相手にやるつもりはない」
 きっぱりと言い切る甘寧に、喜んで良いのやら悲しんで良いのやら分からなくなってきた……。

 ……いや、ちょっと待て。っつーか喜ぶ悲しむじゃなくて、ここはやっぱり「キレル」だろう!?

「じゃあなんであんなこと言ったんだよ! どうしてそんなこと言うのか気になるだろ!? それとも興覇、俺が他の奴とやったことあるって言ったら、焼き餅とか焼いてくれてるの!?」
「……」

 二人の間に沈黙が流れる。なんだよ、なんで何にも言わないんだ?傷つくじゃんかよ……!!

「腹立ったから、犯す!」
「お前いつもそれじゃん」
「今日はマジで犯す!」
「……はいはい」
 ごろりと横になる甘寧の胸ぐらを掴んで、呂蒙は甘寧を引きずり起こした。

「なんだよ、やらないのか?」
「犯すって言ってるのに、なんで協力的な体勢を示すわけ?」
「面倒くせぇなぁ……。何でも良いじゃん。やんだろ?」
「……しない」
「あっそ」
 そのまま書を引き寄せる甘寧を、今度は後ろから引きずり倒して情事にもつれ込む。

 ……情けないのは毎度のことである。

「しないって言っただろ?」
「これから犯しますって言ってから犯す奴もいないだろう!?」
「お前はいつだって「犯す!」って言ってからやるじゃないか」

「お父様も興覇ちゃんも卑猥な話はいい加減にして、夕餉の支度ができましたからさっさと食堂に来て下さい!」

「よし、食事が終わったらやるぞ、興覇!」
「ちょっと待て! 美玲、お前いつからそこにいた!? こらっ、子明…ちょっ、待てって! お前自分の娘にあんなこと言われてやれるのか!?」
「どうでも良いだろ、そんなこと!!  ほら興覇、やるって言ってるだろう!?」 

 二人の醜態にくびきを入れるように、どかんと激しい音がした。その音に、二人は同時に振り返る。すっかり目の据わった美玲が、部屋の扉を思いっきり拳で殴ったのだ。

「どっちでも良いから早く来て下さい! 今日は興覇ちゃんの好きなお魚ですからね!」
 娘の剣幕に押されて、二人は何となく押し黙った。そうして顔を見合わせる。

「……お前に似て良い根性だな……」
「……アレは興覇に似たんだって……」
「何か言いましたか!?」
「いえ、何も……」
「まったく!」

 どんどんと先を歩いていく娘の後ろを、二人はとぼとぼとついていった。これではどちらが親だか分かったものではない。

「夫婦喧嘩は犬も喰わないとか言いますけど、お父様達のはあまりにもばかばかしくて、喧嘩にすらなっていませんわ」

 ……夫婦喧嘩とか言われても……。

「だいたい興覇ちゃん! お父様の昔の男女関係が気になるなら、もっと素直に訊いたらいいでしょう!?」
「いや、俺は別に……って、マジでお前どこから聞いてたんだよ!」
「いいえ!」

 びたりと止まると、美玲はくるりと振り返った。甘寧が何か言おうとするより早く、彼女の細い人差し指が、びしりと甘寧の前に突き出される。

「興覇ちゃんったら、さっきの間合いは絶対に焼き餅ですわ。あなたがそうして素直に可愛くして下されば、我が家は平和で安泰です。あなたが捻くれているのはいつものことですが、我が家の為と思って、たまには可愛くしてて下さい」

 唖然として声を出すのも忘れている甘寧に、フンと大きく鼻を鳴らすと、美玲は再び食堂に向かってすたすたと歩き出した。

 後には色んな意味で内容が違う二人の、震える姿が残された……。



 その夜、感極まって興奮しまくる呂蒙が、前言通りに甘寧に襲いかかり、再び娘にえらくどやされたのは言うまでもない。

 まぁどんなにどやされようがしばかれようが、それぐらいで大人しくなるような、まっとうなオヤジではないのだけれど……。



終わり


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