竹林を揺らす風 |
風の強い夜だった。賈 ![]() 賈 ![]() ![]() また書に顔を戻すと、しばらくして家人がそっと扉を叩いた。 「曹子桓様がお見えです」 「……そうか。お通ししてくれ」 「は」 何の前触れもない公子の訪問は、これが初めてのことではなかった。時々思い出した様にふらっと現れる曹丕は、いつもどこか思い詰めた目をして、賈 ![]() 曹丕がこの屋敷を訪れたからといって、何をするでも、何を話すでもない。ただ何となく傍にいて、何となく帰っていく。 それは、いつもの事だった。いつも通りのことだった。 すぐに部屋に通された曹丕を見て、賈 ![]() 曹丕の形の良い唇の端が、赤く滲んで腫れていた。手首には軽く鬱血した痕が見える。髪や衣装こそきちんと整えられていたが、何があったのかは一目瞭然だった。 だが、それを見なかったように振る舞うのが賈 ![]() 賈 ![]() 「夜分に邪魔をする」 「構いませんよ。書を作っておりました故、何のおもてなしも出来ませんが」 「かまうな」 曹丕が座り込むと、賈 ![]() 「何かお飲みになりますか?」 「いや、いい」 「では、何かお召し上がりになりますか?」 「いい。仕事を続けてくれ」 「は」 墨の良い香りが辺りに立ちこめている。竹林を揺らす風の音が強い。 「海のほとりにいるようだ」 「子桓様、海をご存じなのですか?」 「いや、こんな音がするのだと……あぁ、誰が言ったのだったか……」 思い出せないことが残念なようにも、どうでも良いようにも聞こえる声で呟くと、曹丕はそのまま外を見た。月明かりに浮かぶ雲の流れが速い。多分、明日には黄砂が飛ぶだろう。 しばらくそうしてから、曹丕は出し抜けに口を開いた。 「文和、話をしてくれ」 「さて、何をお話しいたしましょうか」 「何でも良い。昔の話をしてくれ。昔の、何か面白い話を」 「面白い話と申しましても……」 賈 ![]() ![]() 「そうですね。面白いことなど、何もありませんでした」 「では今は」 「今も」 賈 ![]() 「主を替えるというのは、どういう気持ちがするものだろう」 「主と仰ぐに足らぬ者を見捨てるだけの事。大した事ではございません」 「……そうか」 主を替える。 もう一度、曹丕は口の中で小さく呟いた。どこか歌うような、夢見るような声だった。 「……俺も、どこか違う国へ行ってみたいと思うことがある」 「ほう」 聞き捨てにできない台詞を、曹丕はぼんやりと口にした。普段なら決してそんな事を口にする曹丕ではない。だが、誰にも言ったことのないその台詞を、曹丕は時々胸の中で夢想することがあった。 自分が曹家の第一子でなければ、と。 どこかよその国でただの人間として暮らしていたら、自分は果たしてどこまで事を成すことが出来たのだろう。例えば、呉の ![]() ![]() そう、蜀の劉備。彼のように筵売りの家に生まれたら? 曹子桓が筵売り。この考えは悪くない……。 曹丕は思考の淵で小さく嗤った。こんな事は誰にも言えない。言ったが最後、皆がどんな反応をするか目に見えているではないか。 ……この男だから言えるのだ。 曹丕がそっと賈 ![]() ![]() 「もしも他国へ仕えるのであれば、身を慎むことが大切です」 「何?」 まさか返事を寄越すと思っていなかった賈 ![]() 賈 ![]() 「他国へ仕えれるのであれば、あなたの経歴はまっさらになったと考えた方が宜しいでしょう。また、元の国を出奔して出てきたのであれば、再び同じことを繰り返すかもしれぬと、人は違う目であなたを見ます。それ故、身を慎むことが大切です」 まじめな顔でそういってから、賈 ![]() 「そうだな。俺は丞相閣下の息子であるから文武に秀でているなどと言われているが、他国に仕えた時、それが何処まで通じるのか。真価が試される時だな」 「そういう意味ではありません。あなた様なら何処の国でもその点では問題ありますまい」 「俺は世辞は嫌いだ」 「誰が世辞など言うものですか」 二人はもう一度見つめ合うと、小さく笑った。 それから二人はまた何を話すでもなく、賈 ![]() どれだけそうしていたのだろう。馬が小さくいなないた。 「この風だ。馬を怯えさせては可哀相だな」 「もうお行きになりますか」 「あぁ。いきなり来てすまなかった」 「何のおかまいも致しませんで、申し訳ありませんでした」 礼をして顔を上げると、曹丕はじっと賈 ![]() 何の表情も浮かんでいない曹丕の顔。この顔を見ると、いつもの冷たい無表情が「無表情を装った顔」なのだと気づく。 曹丕は子供のような顔をしていた。唇に血を滲ませながら、手首には屈服の証を刻んでおりながら、それでも曹丕の顔はまるで穢れを知らない子供のようだった。 あぁ、この人は……。 賈 ![]() 「また、いつでもおいで下さい」 曹丕は小さく頷くと、そのまま馬首を返して見えなくなった。 遠い蹄を聞きながら、賈 ![]() 「わたくしが、どこか別の場所へお連れいたしましょうか、子桓様」 あるいは曹丕は、賈 ![]() 子供の目をした子桓様。あなたが自由に息をつける場所は、確かに此処ではないのだ。 決して告げることの出来ないその言葉を、賈 ![]() そうして、多くの物を身に纏わされた、本当は小さく儚い曹丕のことを、どこか誰も知らない二人だけの場所に連れ去ってしまいたいという自分の想いも、そっと胸の中にしまった。 風が強い。 竹林を渡る風の、何という強さか。 胸が痛むほどに……。 |
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