些細なこと |
「都督!」 執務室の扉を勢いよく開けて甘寧が呂蒙の執務室に入ってきたとき、呂蒙は甘寧に気づかれぬよう、少しだけ首を竦めた。自分の軍だけではなく、よその兵士にまで兄貴と慕われている甘寧が、孫軍の新しい当番制について文句を言いに来ることは予想していたが、本当に怒りながら来られてしまうとちょっと辛い。案の定甘寧はひとしきりこんなんじゃあいつら碌に家にも帰れねぇとか、それなら屯田に当てる時間を短くしろ、とか、荊州から帰ってきたばっかの奴らのことも少しは考えろ等と怒鳴りまくった。あまりの剣幕に、執務室にいた他の人間は皆用事を思い出して、退室してしまったほどだ。 「甘将軍、そうは言っても今がどういう時か知ってるでしょう? 荊州包囲で兵は割かなければならないし、魏はまた色々言って来てるし、かといってこれ以上徴兵を行う訳にはいかないんだ。あなた方の軍を割けと言っているわけじゃない。今いる数だけで建業の守りを固めようと思ったら、こうするしかないだろう?」 「別に俺らの軍から兵士を出したって良いだろう? 各軍から十名も出せばいい」 「皆が皆、甘将軍のとこみたいな訳にはいかないだろう?」 「建業は主公の領地だが、俺ら呉の都だ。四の五の言わせずに出させりゃいいだろ」 「甘将軍。人の軍立てにまで口を挟む権利は、あなたにはありません」 暫く睨み合っていたが、優しげな顔をしているくせに、呂蒙は意外と言いだしたら頑固なことを重々承知している甘寧は、忌々しげに舌を打った。 「とにかくうちから人を出すから、都督も少し出してくれ。都督が出せば、他の奴らもいくらか出すはずだ」 「分かりました。ただ、他の人たちを脅して回るのは厳禁だから、それは守るように」 先に釘を刺されて、甘寧は更に面白くなさそうに「分かってる」と頷いた。 「兵の負担に関しては、我々もちゃんと考えています。それより甘将軍、頼んでおいた船団の改良の方は進んでますか?」 「話誤魔化してんじゃねぇよ」 「そういう訳じゃないですが……」 「進んでる。大分いい感じになってるから、今度演習をしてみたいんだ。そうだ、その許可を貰っておこうと思ってたんだ」 「あぁ、でしたらそれは御前演習にしましょう。主公も気にしてらっしゃるし。それから甘将軍、キスしませんか?」 「あ?」 一瞬甘寧は何を言われたのか分からなくて、呂蒙を見つめた。呂蒙はさも重大な話をしているように、まじめな顔をしている。甘寧は瞬きをして、それから呂蒙と同じくらいまじめな顔で聞き返した。 「今か?」 「えぇ。今誰もいませんし、ずっとしていないでしょう?」 呂蒙が答えるなり、甘寧は呂蒙の襟首を締め上げるようにして机越しに引き寄せ、囓りつくようなキスをした。 まさか甘寧が素直に応じてくれるとは思っていなかった呂蒙は内心逆に焦ったが、甘寧が身を離そうとするのを慌てて引き寄せ直し、その口づけを深い物にした。 甘寧とキスをするのは本当に久しぶりだ。机があるのがもどかしいが、机を乗り越える間に唇を離してしまうのも惜しい。 表に人の足音がして、仕方無しに呂蒙は甘寧から離れた。甘寧は目元を少しだけ赤くして、ひどく扇情的な顔をしていた。その顔を見た途端、ずっとしていなかったのはキスだけではないことを思い出す。 「阿ね…」 「じゃあ都督、取りあえず、夜警の方だけでももう少し何とか出来るように、頼んだからな」 「あ、あぁ、分かりました、甘将軍……」 見れば物惜しそうな顔をしているのは自分だけではないようだったが、その時扉が開いて、下働きの者が書状を作るための木簡を山程抱えて来た。そういえば、ずいぶん前に頼んだような気もする。 「大都督、お持ち致しました」 「あぁ…、その辺に置いといてくれ」 下働きの人間と入れ違いに甘寧が帰ろうとするのを、呂蒙はひどくがっかりと見つめた。 ただでさえ都督になってから身分に上下の違いが出てきてしまった分、公私の別をつけようと城内ではひどくよそよそしくなってしまったというのに、それ以前に滅茶苦茶忙しくてなかなか会えないっていうのに、会えば会ったでこうして文句言われちゃうし、あーもー呉の都督は無念のうちに亡くなった前都督達の呪いで、不幸になるようにでも出来てるのか!?!! 呂蒙は下働きに一瞬気を配ったが、それどころであるかと立ち上がった。 「甘将軍!」 廊下のずいぶん先の方まで行ってしまっていた甘寧が、少し面白くなさそうな顔でうっとおしそうに振り返った。そんな仕草が駄々をこねているように感じられて、呂蒙には何となく嬉しかった。 「甘将軍、今日、伺いますから」 「…そんな暇あんのかよ」 「作ります。……遅くなるかもしれないけど……」 「顔色が良くないぜ。時間作れるなら、寝ろよ」 その時の甘寧の顔があんまり心配そうだったから、呂蒙は自分の頬を撫でながら、甘寧の耳元に唇を寄せた。 「寝るなら阿寧を枕にして寝る。良いだろ?」 甘寧は咎めるように呂蒙を睨みつけて、それから小さく頷いた。 その夜、かなり夜が更けてから甘寧の門をくぐった呂蒙は、どんなにせがんでも、結局本当にキスしかさせてもらえずに、「甘寧を枕に寝る」を実践しただけで終わってしまったのだけれども……。 |
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