リチャード様に頂いた小説

「Rain」

 蒸し暑い日の書庫は、誰も寄り付こうとしない。おまけにしとしと降っていた雨も雨脚を強め始めていた。陰鬱な夕暮れ時である。曹髦は父が雨を見ながら呟いた言葉を思い出していた。

「この時期の夕方の雨はな、老らくの恋と一緒だ」と、軒先で側室に膝枕をさせ、雨に濡れる庭を眺めていた父は、傍らに座る曹髦の手を握りながら呟いたのだった。曹髦は言葉の意味が分からず、無言で雨だけを眺めていた。あの日も同じように暑く、雨は執拗に降り続けていた。

今、曹髦は一人、ゆったりと広い庫内を歩いていた。ただ歩くだけでも、汗が背中を伝う。

曹家が三代に渡って集めたあらゆる書物が、天井まで積み上げられ、整然と並んでいる。自分がその蔵書をより増やすことはないだろうと、眺めながら嘆息した。

噎せ返る墨と竹の匂いが、湿気と混ざりあって、いくらか具合が悪くなりそうだったが、人気が全くないだけに気楽だった。顔を見ると、触れてほしくなる相手に会わずにすむ。憎らしいその相手は、政務にかまけてここ二十日ほど訪れてこない。時折、政庁で多くの巻きを従えて礼をとるだけだ。

関係を作っておいて、それを忘れてしまったかのように。

その来訪を待っているのが嫌でたまらなかった。期待しながら一日が終わることに嫌悪を感じる。心より体が先に悲鳴を上げてしまったことにもだ。人が訪ねてくる度に失望するくらいなら、いっそ誰にも会わない方がいい。手近に欲求を満たしてしまうほど、節操はなくしていないと、自身に言い聞かせるためにも。

足音がしていた。誰か先客がいたのかもしれない。こんな時に来るなど、文章が書けずに引用に頼る下級官吏に違いない。曹髦は顔を合わせないように狭い書棚の間に入り込んで、詩経を一巻手に取って広げた。何でも良かった。特に読みたいわけではない。

外の雨音がいっそう激しくなって、開いていた窓から横殴りの雨が振り込んできた。曹髦は窓際へ駆け寄った。見上げた空は重い雲に覆われていて、一向に止む気配はなかった。

大粒の雨が頬を濡らす。後宮まで戻る時はずぶ濡れになるかもしれないと考えながら窓を閉めた時、背後に人の気配を感じた。

「だ……」

 誰かと振り返ろうとした瞬間、口を塞がれて抱き締められた。

「じっとして」

簡単に抱きすくめられた。覚えのある香。馴染んだ腕。耳元に唇を寄せて曹髦に囁く声は、憎らしい男の声。司馬昭だ。

暴れないことを確認して、司馬昭はそっと口の戒めを解いた。いくつか行きそうな場所を回った最後だった。窓に寄って空を見上げる

憂いを帯びた姿が、思わず抱き締めずにはいられなかった。

「人を呼ぶぞ」

「誰もおりません。それに陛下は誰も呼ばれますまい」

 耳にかかる声には甘い響きがあった。気持ちを見透かした、傲慢な物言い。だが、曹髦が不快な気持ちになったのは一瞬だった。耳に触れる唇の動きで、曹髦の動悸は早まった。

「供も連れずに出歩かれるのは控えていただきたい」

「すべてそなたに報告しなければいけないとでも?」

「できる限り、そうしていただきたい」

 唇が耳を撫でた。

 息を飲んだ。ゆるやかに舌が耳を嘗める。濡れた感触に曹髦は抗ったが、押さえ込まれた体は逃れることができなかった。

「いや」

 腕を掴んでいた手が、襟元を割って差し込まれた。指先で乳首が刺激される。曹髦は握っていた書を落とした。その手で司馬昭の腕を握り締め、溢れそうになった声を殺した。

 肩まであらわに着物を引き下ろされ、首筋を吸われた。いつもより乱暴で性急だったが、曹髦は理不尽なこの暴行に暗い快感を持った。後ろめたさと、人に見咎められるかもしれない危険な行為。

「誰か、来るかも…しれないのに…」

「こんな雨の中、離れの書庫に来る者などおりますまい」

 曹髦の足の力が抜けた。立っている事ができなくて崩れ落ちそうになるのを、司馬昭が支えながら床に組み敷こうとする。立ち上がりたくても足が立たなかった。薄暗がりの中で司馬昭の顔が浮き上がる。その薄い唇に表れた猥雑な笑みに抗って後退ったが、壁に追い詰められ後がなくなり、足首を掴まれた。

「……いやだ。こんな所で……」

 裳が捲くり上げられて、堅くなった中心を掴まれた。曹髦の理性は快楽への誘惑に負けていた。ゆっくりとしごかれて小さな吐息をついた。羞恥と期待で、曹髦は目を閉じた。

「いや、ですか?」

 司馬昭の意地悪な問いに、俯いて小さく横に首を振った。

 司馬昭はこみ上げる笑いを殺した。いつでも無感情な若い君主が、羞恥を感じながらも溺れ込んでいく様を。曹髦が三週間ほど会わないだけで、これほどまでに快楽に従順になるとは予想しなかった。

 耳元に唇を寄せて甘噛みされ、曹髦は泣いてしまいそうで、腕で顔を覆った。たったそれだけの愛撫でも、待ち遠しくて仕方なかった。自慰と変わらないのに、司馬昭の手でされるだけで狂おしいほど体の芯が疼いた。 

司馬昭は曹髦の腕を、顔から剥がして右手で壁に押さえ付けた。その顔をよりよく眺めるために。曹髦は必死に顔を反らしてきつく目を閉じた。

 緩やかな動きが、段々速くなって息が荒くなっていく。追い詰められ、射精感が近づくと、司馬昭の手の動きは緩慢になった。何度もその繰り返しで、焦らされる。

そこが書庫であることも、自分が皇帝である矜持も、司馬昭のもたらす快楽の前にはどうでもいいことに思われた。 

司馬昭は手中に堕ちた皇帝に、深く口づけた。曹髦の舌は拙くその舌を追って絡められた。鼻にかかった喘ぎが、小さな叫びになって、司馬昭の手に熱い液体がほとばしった。ぐったりと壁にもたれて、曹髦は薄目をあけた。

「……どうして?」

「他の者が無礼を働く前に、私が参っただけです。このところ随分と、艶を含んだ瞳でお歩きでしたゆえ」

「そなたが、一番、無礼だ」 

皮肉なせせら笑いは、すぐにやんだ。司馬昭の目は笑っていなかった。

「最近は王経とよくいらっしいますね。近衛の焦伯などの姿も見受けますが」「何が言いたいのだ」

「随分と親密なご様子だと、耳に入りましたので。寝室に足を運ばせておいでだと」 

司馬昭の詮索はいつも刺がある。悪いのは自分だと思わせる口調。常に人の上にいると、そんな口調や表情を体得するのだろうか。政務でも口を挟ませないが、情事の間でも、曹髦を被虐的にしてしまう。言葉だけでも興奮させられ、傷つけられる。

「誰がそんな、根も葉もないことを」

 司馬昭は曹髦の言葉に耳を傾けながら濡れた手を拭い、立ち上がって乱れた襟元を整えた。 

曹髦はだらしなく壁に凭れて、その様子を見上げた。嫌悪や不快感が浸透してくる。蒸し暑さと、情事への罪悪感、沈黙、纏わり付く汗と精液。司馬昭の醒めた態度。疑いの眼差し。どれもこれも不快でしかない。

「何故、来なかった?私を疑うなら、その目で夜中に確かめにくればいい。私が他の誰かと寝て、そなたが傷付くなら、本当にそうしてやろうか?」

 沈黙に耐えられなくなった曹髦は挑発的に切り出した。 

着衣を正した司馬昭は、乱れた姿のまま座り込んでいる曹髦へ視線を落とした。色鮮やかな赤い着物が白い肌に纏わり付く様は、外に見せるきりっとした美しさとは違う淫靡な姿。それが曹家の血なのだろうか。それを知っているのは、今は自分だけだという満足感と、いつか他の者に知られるかもしれない恐怖感に胸苦しくなる。だがそれはおくびにも出さない。

「単純に政務で忙しかったのです。それに私はそこまで陛下を束縛はいたしません。どなたと良い仲なのか、少々興味を持っただけのこと。陛下につまらぬことを吹き込む者ではないことを祈るばかりです」

 表情も変えない意地の悪さ。曹髦は体を起こした。つまらないことを聞いたものだ。曹髦は苦笑した。 

司馬昭は無言のまま屈んで、着物を引きあげ、恭しく腕をとった

。「脱がせて着せて。ご苦労なことだな」

 曹髦は袖を通した。汗で体に纏わり付く布の感触と、司馬昭への欲求への強さに吐き気を覚えた。 

司馬昭が丁寧に衿を合わせ、苦しくない程度に帯を締め直す。好き勝手に扱われている自身が惨めだった。司馬昭に愛されているのか、憎まれているのか、分からない。

 司馬昭は卑怯だ。どちらの姿も見せる。

「もう、いい」 

曹髦は髪を整えようとする司馬昭を押しのけて歩き出した。「陛下」 慌てて司馬昭は後を追った。

広い書庫を、出た。

誰もいない廊下は降り込んだ雨で濡れていた。乾いているところもあるのだが、蒸し暑さと体の火照りに、迷わず水の溜まった箇所へと足を進めた。庭へ出る階段を降りると着物の裾は水を吸い、足に絡まっていく。

 雨はまだしとしとと降り続けていた。昔見た雨と同じだった。父曹霖が見ていた雨だ。

 足が重くてもう前へ進めなかった。沓を脱いで庭にできた大きな水溜まりに投げ捨てると、重い飛沫を上げた。 

司馬昭は呆れてしまう。時として、曹髦は無謀だ。自分の身を顧みない。

「素足で、どこへ参られるおつもりか?」

「どこへも行かない。沓が重かっただけだ」 

曹髦の答えに、司馬昭は自らも濡れながら近寄って両腕を広げた。

「こちらへ」

司馬昭の腕は優しく曹髦を出迎えた。当たり前のようにその胸にもたれて、瞳を閉じた。

「私の居場所は、ここしかない。それなのに、そなたは私を苦しめるだけだ」 

司馬昭はひどく疲れた様子の曹髦の乱れた髪を梳いた。そうしてしまうのは司馬昭自身だ。見えない距離に追い詰められる苦しさはあったが、曹髦は司馬昭の存在にもっと追い詰められているのかもしれない。

「……この時間の雨は、なかなか止まないと父が言っていた。でも、止まない雨はない…。そなたも一緒だ。私を弄んで、虜にして、用がなくなったら捨てる」 

曹髦は司馬昭を見上げた。司馬昭は傷ついたような顔をしていた。そんな顔が上手いだけで、実はそうではないかもしれない。こんなにも傷付いて、得られるのは刹那の快楽だけなら、いつまでも残る傷を相手につけてやりたかった。いつか。溺れ込んだ以上に、溺れ込ませてやりたい。

「……雨は、まだ止みますまい」

司馬昭は曹髦の頬を指で拭った。そして頬を擦り寄せる。その水滴は涙なのか雨水なのか分からない。緋色の着物が水を吸って暗い赤に変わる様が、不吉なまでに美しかった







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