地上に降る楽園 |
兄が変わってしまったのは、そう、あの豪勢な銅雀台の落成を祝う、宴の翌日からだった。 確かに宴が終わって、部屋に戻るまではいつも通りの兄だった。父に求められるままに詩を詠み、だが父が内心求める父への賛美は氷の美貌で無視したその頑なさも、その後いつも通りの流麗な詩を詠み、大いに父を歓ばせた阿植に目を細め、柔らかさを瞳にだけ上らせた無表情も、いつも通りの兄だった。 宴の間中父の幕僚の追従の笑いを冷ややかに見ていた目も、そのくせ兄の袖を引く阿熊に優しく微笑んだあの笑顔も。 何かあったのだ。あの兄が、あの日以来自分たちに向かってぎこちない笑顔しか見せてくれなくなるなど、そんなことが何故起こる? 変わってしまった兄を見て、阿熊はいきなり泣き出した。その阿熊に向かって差し出した手はぎこちなく震え、必死に笑って見せようとした顔は痛々しかった。助けを求めるように自分を見てくれたことが嬉しかったが、目があった途端に兄はうろたえたように顔を伏せた。 大地が裂けるかと思った。蒼天が割れ、大地が裂け、この世の終わりが来るのだと。そうでなければ、何故兄が自分を見て顔を伏せるのだ。 何かが起きたのだ。決定的な何かが、あの美しい兄の上に。 ……自分のあずかり知らぬところで……。 あれ以来、もう何年の時が過ぎたのか。兄がいたから自分たちは子供でいられたのだ。兄が兄でなくなってしまってから、否応もなく自分たちは冷たい現実に引きずり出された。 だが曹彰は、この冷たい世界に何の顔色も変えていない男がいることに気づいていた。あの日から変わってしまった兄に、何の違和感も持っていないかのように振る舞っている弟。母親の顔を写し取った阿植。詩才に恵まれたというだけで父の寵愛を一身に受け、今兄と後継者の座を争っている弟。母親の顔と父親の暗闇を受け継いだ弟。 兄が変わってしまったのに、貴様だけが変わらない。そのむかつく高慢に吐き気すら覚える。 あいつは兄に何をした? あの美しい兄に、誰より潔癖で純粋だった兄に、あの弟は何をしやがったのだ? 曹彰はそのことを思うたび、誰でも構わない、兄以外の全ての人間を殺してしまいたい衝動に駆られた。あの弟の取り澄ました顔に刃を突き立て、兄を押し殺し苦しめる父のはらわたを引きずりだし、兄を父の後継者としてしか見ようとしない幕僚達を斬り殺してやりたい。 兄は曹彰の全てだった。兄が変わってしまった今でもそれは変わらない。息をつくことすら辛そうな兄を守ってあげたかった。父は自分に学問をしろと言うが、学問などが一体何の役に立つと? 自分はただ兄を守る鎧であり、兄のための刀であればよい。 ……だが何故、自分はあの取り返しのつかなくなる時まで兄を頼り切っていたのだろう。弟であるという心地よさに甘えて、自分は兄の心の支えになろうとはしなかった。年だっていくらも離れていないのに。体は兄よりずっと大きかったのに。寄りかかるのはいつだって自分の方だったのだ。 あるいは、兄の腹心の司馬懿や、父の腹心であるが故に後継者争いには興味のない夏侯惇や許チョのように兄に接することができたなら、兄は例え弟としてではなくとも、彼らに向けるような「いつも通り」の瞳を自分にも向けてくれたかもしれない。 友達になれたかもしれないのに。腹心になれたかもしれないのに。兄の信頼を勝ち得たかもしれないのに。 あの頃はずっとあの幸せな時代が続くと信じていた。あの幸せな楽園が兄の心によってのみ成り立っていたことに、今になって気がづく。今はもう、阿植は勿論、阿熊とすら昔のように話をすることはなくなっていた。 兄は寄りかかってくる自分たちを煩わしいと思ったことはなかったのだろうか。誰かに支えられたいと思ったことはなかったのだろうか。 本当は自分だって、兄が辛かったことを知っていたはずだ。兄が司馬懿に向かって見せる顔が、夏侯惇や許チョに向かって見せる態度が、自分たちと一緒にいるときよりもずっと寛いでいたことに、本当は気づいていたのだ。ただ、弟であるが故に与えられる無償の優しさに有頂天になっていて、兄が誰より支えてくるれ手を欲っしていたことに気づかない振りをしていたのだ。 自分こそが、一番兄を支えてあげられたはずだったのに。弟であろうとしないで、友達になろうとすれば良かったのだ。そうするだけで、兄はどれだけ楽になれただろう。 何が兄を守る鎧だ。兄の心を守ってやることすらできないで。 あの弟が兄の心を引き裂いた。だがその土壌は確かに自分達にもあったのだ。 しかしこの怒りは、例え自分がその一翼を担っていたのだとしても、どうしても直接兄を傷つけた阿植に向かった。阿植。兄の後継者の座を脅かす弟。一体あの弟は兄に何をしたというのだ? 兄の心をああまで引き裂くことのできる、どんな得物を持っているというのだろうか……。 兄の部屋に明かりが灯っている。まだ眠っていないのか。父は兄を一顧だにしないくせに、兄には完璧な後継者を望んだ。そのくせ父は兄と弟の間で後継者を悩んでいる。弟にはどんな我が儘も許しておきながら。 反吐が出る。父も弟も、この世から消えていなくなればいい。曹彰はこんな眠れぬ夜に、幾度となく父と弟の血の海を夢見た。この血が兄を苦しめているのだ。あの兄に必要だというのなら、自分の血をこの海に注いでも構わない。 兄の部屋に灯る明かりを見ながら、曹彰は自分もまた狂っていることをチリチリと感じていた。確かに自分にはその海に入る資格がある。この狂った一族。上帝は曹家に有り余る才能を与え、その代償としてその血の中に狂気の種を植え付けたのだ。 灯っていた明かりがやっと消えた。もう大分遅い。父の傍らに常に控えて施政の術を学び、空いた時間に武芸も磨いている兄である。こんな時間まで起きていて、体がおかしくなったらどうするのだ。 その時、曹彰は我が目を疑った。 兄の部屋から、出てくるはずのない人の影を見たのだ。 出てくるはずのない人間……。 禍々しいまでに華やかな、弟の姿を。 兄はいつも通りだった。いつも通りのぎこちなさ。美しい無表情も、張りつめた振る舞いも、一心に木簡を見ることによって他人を近づけまいとする痛々しさも。 ……昨夜阿植が部屋を訪れたのに……。 普段から曹植には近づかない兄である。曹植が兄に近づけば、そのたびに傷ついたように目を伏せる兄である。その兄の部屋を曹植が訪れ、何故兄が普通でいられるのだ? 曹彰は食い入るように兄の姿を目で追った。どこか一つでも今までと違っているところはないか、と。だがあまりにも兄の様子はいつも通りで、それは曹彰の絶望的なまでの予感が正しいことを告げていた。 あの夜、兄は変わってしまった。どうやって? 阿植はどのような得物で兄の心を引き裂いた? 曹彰は己の狂った血が沸き立つのを覚えた。 得物は曹植自身だったのだ。 あの弟は、否、あの男は兄を穢し、兄を引き裂いて、曹彰にとって何よりも大切だった兄を壊したのだ。 兄は? 何故兄は黙っているのだ? その卑劣な行為を、まさか許しているのか? まさか。それならば何故あのように、壊れる必要がある。 許せない。 曹彰には、自分がもう何を考えているのか分からなかった。正常な思考を手放してしまったのかもしれない。 許せない、と。曹彰の体はその感情の、ただの容器に成り下がった。 いつもの通り、政務を終えてから兄は戟を手にして兵練場に姿を現した。 曹彰は暗い気持ちで笑う。昨夜曹植を受け入れておきながら、今日は通常通りの政務をこなし、なおかつ兵練場か。 ―――馴れているのだ。 さすがに疲れが早いような気がするが、兄はそんな体を戒めるように、舞うような美しさで戟を振るった。 「……兄上、俺がお相手を勤めましょう」 「子文か。ああ、だが手加減をしてくれよ」 ぎこちない笑顔。兄上はまだ俺が目撃したことを知らない。 二、三合も打ち合うと、兄の息はすぐに上がった。上気した頬に汗が飛んでいる。 曹彰は己の血の昏さを思った。 自分もああの父の血を確かに受け継いでいる。いや、父を想って己の世界に閉じこもった、あの母の、と言うべきか? 昏い狂気の血。 許せない、許せないとその血がたぎっている。 その気持ちは、何故こうまで兄に向かうのだろうかーーー。 鍛錬を終え、軽い夕食を済ませた後、曹彰は曹丕の部屋を訪ねた。理由はいくらでもつけられたが、曹彰が兄を慕って部屋を訪れることを、兄が拒むはずはなかった。 ひとしきりくだらない噂話で盛り上がった後、まるで今までの調子を崩さず、曹彰は笑顔で曹丕に切り出した。 「そう言えば、昨日子建がこの部屋から出ていくところを見ましたよ」 その瞬間。 曹丕の体は可哀想なほど強ばった。 顎が微かに震えている。握りしめた指が白い。 「……そうか……、昨日は……」 「兄上、いつからですか? あの銅雀台の宴から?」 兄に言い訳する隙を与えるつもりはなかった。潔癖な兄が嘘をつくところを見たくなかったのだ。 曹丕は白い顔で曹彰を見た。曹彰が何を言っているのかを必死で推し量っているのだろう。何かを言おうとして開かれた唇が、必死に言葉を探している。だがそれは、ただわなないているようにしか見えなかった。 「何故、子建と?」 笑顔のまま曹丕に一歩近づくと、曹丕の体がびくりと震えた。 その怯えた兄を見た瞬間、曹彰ははっきりと理解した。 そうしたかったのは、自分の方だったのだ。 兄を穢し、兄を引き裂き、兄を自分だけのものしたいと、そんな想いに駆られていたのは、この曹彰だったのだ……! 「子建が好きだと言うつもりではないでしょうね? 兄上」 「子文……?」 「それとも、子建には望んで抱かれているのですか?」 「寄るな、子文!」 その声が耳にはいるより先に、曹彰の腕は狂ったように兄を抱きすくめていた。兄の細い体。兄の長い髪。兄の柔らかな首筋。 こうして兄に触れたのは、一体何年ぶりなのだろう。ずっと求めていた。こうしたかったのだ。 「兄上、兄上、あんな奴に兄上を渡したりなんかしない。兄上は俺のものだ……!」 「子文……!!」 曹丕がもがけばもがくほど、曹彰は熱い昂ぶりを覚えた。もっともがいて欲しい。この腕の中に、兄上をきついほど感じていたい! 掻き抱く腕に曹丕が爪を立てる。どれほどもがこうとも、兄の力など自分にかなうものではないという余裕が、獲物を駆り立てる獣の本性に火を点ける。 「嫌だ、子文、どうして!?」 「あなたが子建なんかと寝るからだ……!!」 「ちが……!」 逃げようとする曹丕が、裾を踏んで体勢を崩した。今や体重の抜けた体は完全に曹彰の支配下にある。 曹丕に逃げ場はなかった。 太く逞しい弟の腕が、曹丕の体を床に押さえつける。 「兄上……」 吐く息が熱い。曹丕は曹彰を初めて見るような目で見つめた。弟はこんな顔をしていたのか、と。その自失した目が曹彰にはとても綺麗に映った。 こんなに綺麗な人だったのだ。自分が今まで見ていた兄は、死に体も同然の兄だった。こうして男に凌辱される瞬間、兄は初めて生き返り、天上の美しさを取り戻すのだ。 「兄上、暴れても叫んでも構わない。あなたが俺をその目で見てくれるのなら、俺はあなたに殺されても良い……!!」 曹丕の頬を伝う涙を舐め取り、そのまま唇を奪う。曹丕の舌は熱く、これがあの兄の舌だと思えば、ことさらに甘かった。 「……どうして」 曹丕は細く細く、うめくように泣いた。 「どうして…? お前まで俺を憎んでいたのか……?」 「兄上?」 「俺の何がいけないんだ……?」 「兄……」 押し殺したような嗚咽が曹丕の口をつく。 曹丕は傷ついた顔をしていた。いいや、この世の全てをあきらめ尽くしたような、絶望的な顔だった。 「俺はそんなにひどい奴なのか? こんな事をしなくちゃならないほど、お前達が俺を憎んでるなんて思わなかった……!」 「兄上!!」 腕の中にいる兄は、溢れる涙を拭うすべも知らずに泣いていた。 美しい兄上。 曹彰が求め続けた、曹彰の全てだった兄上。 「兄上、俺は……」 兄の流す涙。その涙の一粒までが美しかった。 「……それでお前の気が済むのなら、好きなようにするが良い。……どうせ俺なんて、その程度のものなんだ……」 「違う……!」 抵抗を手放したように、曹丕は体から力を抜いた。その姿は抵抗を手放したというよりは、むしろ生そのものを手放したようで、曹彰にはそれが恐ろしかった。 苦しんでいないはずがなかったのだ。あの兄が、誰よりも潔癖で、誰よりも俺達を愛してくれた兄上が、曹植の仕打ちに傷つき、苦しんでいないはずがなかったのだ。 曹植のことが起きる前からどこか儚げだった兄の、その生きる力の希薄さにやっと曹彰は気がついた。 何ということだ。兄上は自分をあきらめてしまっている……。 「兄上……」 もしも曹操が「お前などいらない」と言えば、そのまま納得していなくなってしまいそうな兄を、もしも弟たちが「兄上なんか死んでしまえばいい」と言えば、そのまますぐにもその存在を消してしまいそうな兄を、そんな兄の儚さの意味を、曹彰は初めて目の当たりにした。 兄上はまさしく天上に住む人だったのだ……。この地上にとどまっているのは、ひとえに俺達のためだったのに。その俺達が兄上を地上から追い出そうとしていたというのか?。この兄の心は何と遠いところにあったのか……! 強張った腕に力を込めて、ゆっくりと曹彰は立ち上がった。 「嘘だよ、兄上。ちょっとからかっただけだよ。何本気にしてるんだよ」 「子文……?」 放心して自分を見上げている曹丕を助け起こし、着物を整えてやる。 兄は自分よりも遙かに幼い子供だった。 愛されることを知らない、誰よりも無垢な子供。 「何だよ、兄上。ばかだなぁ。こんな事、本気でする訳ないじゃん」 頭をゆっくり撫でてやると、やっと虚ろだった曹丕の瞳がはっきりとしてきた。まだ涙は流れ続けているけれど。 「泣くなよ。本気にするとは思わなかったんだ。ごめんなさい、兄上」 「ど……して……?」 「どうしてって……。最近子建とは仲良くしてるみたいなのに、兄上俺達とはあんまり遊んでくれないから、ちょっとは俺のことも構ってくれないかなって思ったんだ。それだけだよ」 「仲良く……?」 我ながら苦しい言い訳をしていると思った。だが、今はこの嘘をつき通すしかない。 流れる涙を拭ってやり、愛嬌たっぷりに笑ってみせると、曹丕もぎこちなく笑い返してきた。 心が千切れそうになるほど、その笑顔は哀しい笑顔だった。 俺が守らなくては……! この兄を、この兄の心を、誰よりもこの俺が守ってやらなければ!! 曹彰はずっと前から考えていたことを、だが今ほど心の底から沸き上がるように決心したことはなかった。そう、そのために自分は生まれてきたのだと。そのことさえ叶えられれば、自分は他に何もいらないと。曹彰は今初めて万物に激しく誓った。 「さ、兄上、遊びは終わり。明日もまた仕事大変なんだろう? 俺ももう帰って寝るから、兄上もゆっくり休んで」 「子文……」 ゆっくりと曹丕に背を向け、扉に手をかける。兄が不自然に思わないように。 「じゃ、お休み、兄上。何かあったらすぐに俺を呼んでよ」 「弟のくせに、何言ってるんだ」 曹丕はいつもの顔をいくらか取り戻したように、きつい、意志を持った無表情で笑った。 ……これから今起きたことを反芻して、兄はまた取り乱すのだろうかと思うと、曹彰の心は激しく痛んだ。だがそれはもう取り返しのつかないことで、だから曹彰は、せめて自分の姿を兄が見ないでも済むようにしてやることしかできなかった。 兄に何か問われれば全てを嘘で塗り固めてでも、兄の望む答えを返そう。自分の感情を殺すことなど、兄の心の傷の深さに比べれば、一体どれほどの物だというのだろう。 自分はいつも本当に間抜けで、兄の気持ちに後手後手にしか回れない。そんな自分が曹彰は心底嫌になった。 あの男は、あんな風に泣く兄上を見ても、何も思わないのだろうか。どんな仕打ちよりもあの兄上を見せられることの方がよほど辛いと思えるのに。 兄の部屋を背にしながら、曹彰は自分の心が鋼で出来た鎧になれば良いと願った。、この欲望に満ちあふれた薄汚い心が何の意志も持たないただの鋼となって、兄を護る何よりも強い鎧になれば良い。 もう二度と、あの楽園は地上に降ることがないのだから……。 |
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