宣戦布告 |
部屋の中に、湿った息づかいが響いていた。まだ日の高い午後。執務室の中で、夏侯惇の脚の間に夏侯淵がしゃがみ込んでいる。何をしているのかは、言わずもがなという物だろう。 「ん……おい、もう本当に止めろ……」 「達っちゃって良いよ……」 「……はっ、ばかなこと……んっ」 お互いの家では、なかなか事に及べない。お互いの妻が気を利かせて二人きりにするのが、余計に気まずいのだ。せっかく夏侯惇と相愛の仲になれたというのに清い関係を続けているのが辛くなった夏侯淵が、勝手に人払いをしてから執務室に入ってきて、有無を言わさず夏侯惇の脚の間に滑り込んでから、もうずいぶん経つ。 「お前、何考えてんだよ……!」 「えっちなこと」 「おい……っ」 夏侯惇が夏侯淵の頭を抱えている。引き離したいんだか押しつけたいんだか分からないように、ぶるぶる腕が震えていた。 「元譲、我慢しないで達ってよ……。俺、そんなにヘタ?」 「んん…っ」 根比べのように暫く攻防を繰り返していたが、そのうち夏侯惇の体が硬直して、甘く、だが荒い呼吸が漏れた。 「はっ……はぁっ、はぁっ」 「……ごちそうさまでした……」 懐から畳んだ布を取り出して指先と口元をぬぐっている夏侯淵を、夏侯惇が嫌そうに睨んだ。 「……お前、いい加減にしろよ……っ」 「だって、じゃあどこでしたら良いんだよ。これでも俺、すごい譲歩してるじゃん。本当ならこのまま突っ込みたいとこだけど、めっちゃ我慢してるじゃん!!」 「ふざけんなよっ」 「何だよ。ほら、俺なんか元譲の声だけでこんなだよ?」 「触らせるなっ!」 夏侯惇の手を握って自分の股間に導こうとする夏侯淵を、本気で蹴りつけようとしたその時。 「元譲殿。張遼です。入ってもよろしいですか?」 「!」 部屋の外から扉がノックされた。張遼の声だ。一瞬、二人共声を出さずに慌てた。人払いしてるのに、さすがに張遼クラスだと夏侯惇の部下も通しちゃうのか!!!まだ色々と、すぐ入ってこられると困るような格好なのに……!!。 「今先客中だ」 弾みそうになる呼吸を整えて返事をすると、すぐに「では、一刻程したら出直してきます」と、足音が遠ざかっていく。 「ほら、とっとと出てけよ!そこに水あるから、ちょっと口漱いで行けっ!」 「……じゃあ、口漱いだらキスしても良い?」 「ふざけんな!何でそんな事した口とキスしなきゃいけねぇんだよ!」 そそくさと衣服を整える夏侯惇を横目に見ながら、夏侯淵は一応口を漱ぐと、その水をどこに吐き出そうか考えて、結局飲み込んだ。 「!!!」 「何でそんな顔すんの!?だって吐き出す場所無いでしょ!?」 「最悪!!信じらんねぇ!!お前こっち来るな!!」 色々我慢しているのは俺の方なのに。そう思うと夏侯淵はちょっと腹が立って、無理矢理夏侯惇の唇に齧り付いた。 「――――――!!!」 夏侯淵の口の中は、まだ自分の味がした。最悪だと思いながら、それでも夏侯淵の舌の感触に、一瞬持って行かれそうになる。 「ん……」 夏侯淵の腕が、自分の背中を力強く抱きしめている。いやだいやだと言いながら、気がつくと夏侯惇も夏侯淵の背中に手を回していた。 「元譲…」 耳元に、夏侯淵が唇を寄せてきた。耳朶をしゃぶりながら、低い声で睦言を囁いてくる。ダメだ。こいつのペースに乗せられるな……!! だがその時。 トントン またしても扉が容赦なくノックされた。 「元譲殿、もう良いですか?」 「あ、あぁ!もう帰るとこだから、入って構わないぞ!」 思わず反射的に返事をしていた。この顔でそれを言っちゃうの!?まだすげぇ色っぽい顔してるんですけど!!顔色!顔色元に戻して!! 夏侯淵の焦りも虚しく、張遼が中に入ってきた。夏侯惇の顔を見ると、ずかずかと近づいてくる。 「元譲殿」 「……なんだ……?」 「目が赤いです。どうしました?」 先ほどの余韻にまだ目元を赤くしている夏侯惇は、ゾクゾクするほどの色気を匂わせている。だがもちろん、夏侯惇にそんな自覚はない。 「え……いや、ゴミでも入ったか?」 夏侯惇にしてはベタな言い訳だ。それを聞くなり、張遼は夏侯惇の足下に膝をついて、頬に手を当てた。顔を近づけて、まるでこれからキスでもするみたいに。 「!」 頬に手を当てられた夏侯惇より、脇で見ている夏侯淵の方が焦った。何!?何すんの!? 「あ、本当だ。ちょっと入ってるようですね。取りますから、目を開けていてください」 そう言うなり。 レロ。 眼球に、何か柔らかいような生暖かいような物が押し当てられ、ぞぞぞと動いていった。 「なっ―――――!!!」 変な事された――――――――!!! さすがの夏侯惇も一瞬パニックになり、頭の中が真っ白になった。 脇で見ていた夏侯淵も一緒に白くなったが、いち早く自分を取り戻したようだ。 「文遠!!!お前今何した!??!?」 一声叫ぶと、まだ夏侯惇の頬に手を当てたままにしている張遼の腕を引っぺがして、喉元を締め上げようとする。 「え?何って、ゴミを取ったんですけど?」 そう言いながら、自分の舌先を出して見せる。 「なに……俺今何されたんだ……?」 夏侯惇が涙目になって、自分の右目を押さえている。 「え?普通しませんか?目に入ったゴミを手で取ると、指で目を傷つけますから、舌先で取った方が良いんですよ?」 「……そ、そうなのか……?」 「違うだろ!普通は瞼を下げて、布で涙ごと吸い取ってやるもんだろ!?」 「え?それ、手加減間違えると布で眼球こすって余計傷つけますよ?」 まだ眼球に、舌先の感触が残っている。なんか……なんか、やらしかった様な気がするのは気のせいだろうか……。 未だ相当なダメージを受けているらしい夏侯惇が、自分の右目を庇うように手で覆ったまま、肩を震わせている。 「げ、元譲、大丈夫?」 「……大丈夫だ……」 夏侯淵が張遼を睨むと、張遼はまるっきりのポーカーフェイスで夏侯淵を見返した。 こいつ……! 全部承知して、俺に見せつけるためにやりやがったな……!!! 「……えっと……なんだっけ、文遠殿……?」 「先日調練の済んだ騎兵から、三百ほど某の部隊に回してくれると仰有ってましたが、あまり新兵を入れたくないので、前回の戦で死傷した三十名の倍、六十だけの補充で良いかと交渉に来ました」 「……いや、三百は引き受けてくれ。精鋭の騎馬兵を何としても増やしたいのだ」 「戦の時に足並みが揃わなくては困ります」 「それを鍛え上げるのが文遠殿の腕の見せ所だろう?まぁ、全騎兵を投入しなくても良いように、俺から主公に申し上げておくが……」 まだダメージから脱し切れていないようだ。口調は普段通りだが、ずっと右目を押さえて下を向いている。 「……元譲殿、大丈夫ですか……?」 「……いや、いや、大丈夫だ……。すまん、せっかく取ってくれのに……。でもこれからは、そういう事するときは一言かけてからにしてくれ……」 「失礼しました。では、新兵の三百は引き受けますが、戦には全てを投入しなくても良い、という事で、間違いありませんか?」 「間違いはないが、できるだけ全投入できるまで鍛えてくれ。新兵の中でも特に見所のある奴だけ選んであるんだから」 「了解しました。では、早速調練を開始したいのですが、今すぐ補充できますか?」 「元嗣に言って、連れて行ってくれ」 「了解しました。では、失礼いたします」 張遼は拱手の礼を取って、ちらりと夏侯淵を見てからすぐさま部屋から出て行った。 張遼が出て行ってから、暫く夏侯惇と夏侯淵は、全く身動きが出来なかった……。あまりの張遼の態度にわなないて動けない夏侯淵とは違い、夏侯惇はまだ何が起こったのか、理解できていないようだ。それはそうだろう。大体、目にゴミが入ったなどというのは口から出任せだったのに……。 「……元譲、これで分かったでしょ……?」 「え?何が?」 本気で分かっていないらしい。きょとんとした顔に腹が立つ。 「だから!文遠がヤバイって、これで分かったでしょ!?」 「え?でもあいつが言葉足らずで突拍子がないのはいつものことだろう?」 イヤ違うだろ―――――!!だって普通あんな事する!?目……元譲の目舐めたんだぞ!!俺だって舐めたこと無いのに……!! 「も、元譲が鈍いのは俺が一番よく知ってるから!もう良いからこれだけは肝に銘じてくれ!マジであいつに隙を見せるな!今度は目玉だけじゃ済まないぞ!」 「何言ってるんだ……?俺、文遠殿があちこちで女に手ぇ出してるの知ってるぞ?第一お前、文遠殿が俺よりいくつ若いと思ってるんだ?」 どうせその女もあれだろ?ちょっと年上で落ち着いてて、涼しそうな顔した美人だろ!?そんでもって何となく元譲に雰囲気が似てるんだろ!?うちの側室がまさにそのタイプだよ!やってること同じだよ!!とか言うと怒られるのが目に見えてるので、それは内緒にしておいて。 「も、年とか関係ないから!良いからもう隙を見せるな!はい、返事は!?」 「……」 「返事は!?」 バカじゃねぇのか?どうせこいつ自分の目が腐ってるから、他の奴まで腐ってると思ってんだろう……? しかしあんまりにも夏侯淵が必死な顔をしているから、一応夏侯惇も口先だけで「分かった、気をつける」と返事をしておいた。 決闘の火蓋は切って落とされた。 文遠の野郎覚えてやがれと、更に自分の武に磨きをかける夏侯淵であったとさ。 |
宜しければ忌憚のないご意見をお聞かせ下さい。
●メール●
「小説部屋」 へ戻る |
![]() 「泡沫の世界」 トップへ戻る |
![]() 「新月の遠吠え」 メニューへ戻る |