ただひとりの人



 南風が暖かな空気を執務室に運び込んだ。気持ちの良い風だ。だがその心地良さとは反対の重い溜め息を、孫権は吐き出した。
「どうしました、主公。もう飽きたのですか?」
「……それもあるけどそれじゃない」

 木簡の山を堆く積みながら、張昭は孫権に軽く視線を向けた。張昭の年の割には張りのある目は、切れ長で形が良いだけに、こういうときの顔をひどく冷たい物にする。孫権は筆立てに筆を立て、頬杖をついて、「こいつが冷たいのは顔だけじゃないけどな」と思った。
 孫権の顔には大分疲労の色が見える。
 張昭が内政に関する木簡に説明を加え、決裁を仰ぐとき、孫権は熱心に話を聞きすぎてすぐに疲れてしまうのだが、今日の様子はそれとは少し違うようだ。今日は大分速いペースで仕事が進んでいる。少しくらいなら付き合ってやっても良いだろう。

「何かありましたか?」
「……興覇のこと、泣かせてしまったのだ……」
「……は? あいつを?」

 昨夜のことだ。孫権はいつものように悪戯しようとして、甘寧を広間に呼び寄せた。そしていつものようにこっそりと後ろから近づいて、いきなり後ろから襲いかかってみた。甘寧の方も、後ろから近づかれていることも、襲いかかられることも、分かっていながら驚いてみたり嫌がってみたり、孫権の負担にならない程度に抵抗してみたりした。

「……いつも通りのことではないですか」
「いやだからさ、その後があってさ」
「ほう?」

 その後すっかりプレイに熱中した二人は、喉の渇きを癒すために孫権の寝室に移動した。甘寧は「強姦プレイ」が一番燃えるし、孫権もそういうアブノーマルなプレイが大好きなので、二人はしょっちゅうとんでもない所でとんでもないことをやらかしている。今日は広間でやったりしたから、いつ誰が覗くかも分からないシチュエーションに、二人は大いに興奮してしまった。
「興覇、何かつまみもいるか?」
「いや、取りあえず、酒」
 まるで水でも飲むように、甘寧はがぶがぶと酒を喉に流し込んだ。

「―――薬を仕込みましたね?」
「そう。あいつそーゆーの馴れてると思ったんだけどさ〜」
 反省しているのだろう、落ち込み気味の孫権を、張昭は面白そうに混ぜ返した。
「泣いたんですか? 鳴いたんですか?」
「泣いたんだって! 途中で気づいたみたいなんだけど、あいつ薬嫌いなんだって! 知ってたか?」
 憤慨したように叫ぶ孫権に、張昭は溜め息を洩らした。
「何度も申し上げますが、私は興覇と寝たことは一度もありません」
「……儂にはするのに」
「興覇は主公ほど生意気ではありませんから」
「お前のHは折檻か!」
 他にどんな理由でこんな小生意気な若造を犯れというのだ。張昭にはそんな当たり前の議論などするつもりはないので、さっさと先を話すように孫権を促した。

「それでどうしたのですか」
「うむ……。いや、薬を盛られたって気づくなり、あいつ本当に嫌がりだしてさぁ。あいつがマジで嫌がったのって初めてだったから、つい……」
「……いつも以上にしつこくしたわけですか」
「……いやまぁ」
「貴方は思いやりのないセックスをしますからね」
「……そういうことはいっぺん儂に突っ込まれてから言ってみろ」
「ふっ」
 張昭はあからさまに孫権を見下したように鼻で嗤って見せた。ムカツク。子布の方こそサディストのくせに!!

「で、興覇は?」
 性的嗜好は別として、同じ「いじめっ子体質」の張昭と甘寧は、年の違いを乗り越えた良い友人関係を築いているようだ。「いじめっ子同盟」とも言う。主君である孫権にはあんなに意地悪な張昭が、甘寧とはあんなに仲良くしているなんて、なんだか理不尽な物を感じてしまう。

「主公?」
「いや、それで最初は嫌がって暴れてたのだが、何しろ薬が効いているから抵抗らしい抵抗も出来なくなってきてな、そしたら」

「……何の話してやがる」

 はっと振り向くと、扉に手をかけて、目を据わらせた甘寧が居る。いつの間に来たのだ。どこから聞いていたのか……。

「こ、興覇、体は平気か!?」
「あのくらいでガタが来るような、柔な体はしてねぇよ」
「泣いたって? ご苦労なことだな」
「うるせぇよ、じじぃ」
「あんなに嫌がるとは思ってなかったんだ!」
「仕事で来たんだ。その話はもう良いって」
 イヤそうに自分を見る甘寧の目に、孫権は余計に焦ってしまうらしい。おたおたとして、はっきりいって面白い。

 甘寧は不機嫌そうに布を広げ、そこに書かれた大弩と戦船の図面を孫権に示した。
「さっき工廠に行って来たんだけどさ。あんたが言ってた大弩の飛距離出そうと思ったら、やっぱ三人引きでも無理だってよ。四人引きにするとなると大弩自体のサイズもでかくなるし、場所取るから船そのものを作り直さないと置けないぜ?」
「船が大きくなるのは構わんのだが」
「小回りが利かないのは不利だって。まぁ、敵に睨みを利かせるために必要だってんなら、あんたが乗る船だけでかくして、そいつにだけ四人引きを乗せることだな」
「費用と工程はどれだけかかる?」
「船からとなると……そうだな……」
 さすがに船で食っていただけあって、甘寧はこういう話に驚く程よく通じている。工人達からも兄貴と慕われているようで、自然甘寧は工廠との橋渡し役を買って出ていた。

「今後はお前に一切任せるから、とにかく呉の水軍は斯くや、という物に仕上げてくれ」
「ん。でも、マジでそれは実用的じゃねぇって事は、覚えておけよ?」
 話し合いが一段落つくと、甘寧は布を簡単に畳んで「そんじゃ」と出ていこうとした。そこをすかさず張昭が、ニヤリと笑って引き留める。

「で、泣いたって?」 
「うるせぇって、じじい」
「どんな風に泣くんだ?」
「殺すぞ?」

 この呉国に於いて、張昭を捕まえて「じじい」呼ばわりするのは甘寧くらいのものだ。そして「皆殺しの甘寧」に向かってあんな口を楽しげにきくのも、張昭くらいのものだろう。
 やくざな甘寧に身内の親しみを感じている孫権は、それが何となく気にくわなかった。

「まさか女のように泣いたのではないだろう?」
「別に興覇は泣いたと言うほど泣いた訳じゃないぞ」
「黙ってろよ主公!」
 ほら。興覇は儂を主公と呼ぶ。子布のことは「じじい」と呼ぶくせに。
 みんなが、自分を主公と呼ぶ。「仲謀」と呼ぶ人は、もう誰もいない。だから孫権は、「ベットの上でくらいは字で呼べ」と甘寧に強要していた。しかしベットを降りた途端に「主公」に戻ってしまうなら、君主でいるのはつまらないことだ。

 何となくムカツクので、孫権は甘寧をいじめることに決めた。

「泣いたと言っても、ただちょっと薬が効きすぎたもんだから、『もうやめてくれ』とか、『薬はイヤだ』とかそりゃもう可愛らしい声でよがりながら涙を見せたりしただけだぞ。な?」
「……殺されたいか…?」
「薬はイヤか」
 張昭がしみじみと呟く。何てデリカシーのない奴らだ!

「じゃああんたは好きなのかよ!」
「プレイとしては面白いだろう」
「盛られるモンの身にもなれっつうの! そりゃ大概あぁいうのは自分の意志とは関係なく犯られるもんだけど、薬だけは本当にただの物にされてる気がしてイヤなんだよ! 体だけ抱きたいならレイプでも何でもすりゃ良いけど、だったら俺のことまで無理やり感じさせようとしてくんなくても良いんだよ! 俺の意志は無視してるくせに、身体だけ薬で帳尻つけようってのがスゲェむかつくんだよ! 薬なんか……!」

 まくし立てる甘寧に、張昭は少し眉を寄せた。
 元から甘寧の「強姦プレイ好き」は昔のトラウマから来ているようだが、孫権との「プレイ」は合意の上の物で、ただの「プレイ」の筈なのに……。

「だが主公がお前に薬を盛ったのは、お前を無理やり犯すためではないだろう?」
 張昭の冷静な声に、甘寧ははっとして孫権を見た。孫権の顔も複雑に歪んでいる。

 そうだ。薬を盛ったのは、主公だ……。

 甘寧は口ごもったように唾を飲み込むと、それでも「……どんな理由で盛ったとしても、薬は達っても達っても終わりがないんだ、拷問と変わんねぇよ……!」と、そっぽを向いて吐き捨てた。

 小さな、そして苦い沈黙が走った。甘寧は呂蒙以外の人間に、自分の過去を話したりはしないが、それでも酔った言葉の断片から、彼の過去は何となく察しがついている。
 きっと甘寧は「そんな大した過去じゃない」と言い捨てるのだろうが、無神経に逆撫でて良いようなものではないのだ。
 張昭は小さく首を傾げながら自分の肩をトントンと叩いた。その場の雰囲気を変えようとしたのだろう。いつも通りの少し冷たく、それでいてどこかとぼけた声で、張昭は孫権を振り返った。

「でも主公、あなたが薬を使わないといけないほど、テクニックに自信を持っていなかったとは知りませんでしたな。いつも儂は一番巧いとか何とか言っていますが、あれはハッタリですか?」
「あ、そうだよ。あんたが薬盛る必要なんかないじゃん」
 甘寧も一緒になって張昭の案に乗った。
 ……甘寧だって、あぁいう雰囲気を引きずって、傷ついたふりをするのは嫌いなのだ。

「何を言う。薬なんか盛らなくても儂は滅茶苦茶巧いぞ! それは興覇が一番良く知ってるだろう?」
「だからさ。何であんたが薬盛るんだよ。俺の感度ではお気に召しませんか?」
「……もちろんそういう訳じゃないけど……まぁ、色々と思うところがあったのだ」
「はっは〜ん、幼平に使おうと思って、振られたんだろ」
「む…それもある……」
 
 孫権が本命である周泰に粉を掛けていることは有名だが、実際に手を出して、いつも途中までは何とかなるのだが、最後は力負けして逃げられている、という事はあまり知られていない。周泰が力で押し切らないようにと薬を入手した、というのなら、その理由もよく分かった。

「で、結局使えなかったその薬を俺に使ったのか?」
「……まぁ、そんなところだ」
「幼平に使うつもりだったのでしょう? そういう薬はベットに入る前に飲ませておかなければ意味はありませんよ」
「……子布、お前飲ませたことがあるな……?」
「さぁ…?」
 ニヤリと笑ってみせる張昭に、甘寧も孫権も「わ〜、こわっ」と肩を竦めた。

「さってと、バカっぱなししててもしょうがねぇから、俺もう行くわ。工廠の方には出来るだけ小回りが利くように改良を心がけるように言っとくぞ」
「脅すための船だ。でかくても構わんぞ」
「お〜」
 甘寧はいい加減に右手を挙げて、孫権の要請にいい加減に応えた。



 甘寧の姿がまるで見えなくなると、張昭は孫権を音の出そうな目で睨んだ。別に何も言わない。ただ、鋭い目で睨んでいるだけだ。元々張昭が苦手な孫権は、その目だけで少し小さくなる。いつまでもそうして自分を睨んでいるだけの張昭にじれて、孫権は「言いたいことがあるならはっきり言え」と促してみた。だが張昭の口から出てきたのは、孫権が思っていた叱責ではなかった。


「……何であんなバカなことをしたんです?」
「……別に。お前に言っても仕方ないだろ?」
「ほう? 言いたい気にさせてあげても、よろしいんですよ?」
 張昭が一歩近づく。孫権はびくりと身体を硬くした。

 張昭は自分のセックスを「折檻だ」と言っているだけあって、こっぴどいやり方で孫権をとっちめる。それでなくても孫権は他の相手に受けになったことがないのだ。そんな顔で近寄られるとやっぱり少し怖かった。

「主公?」
「分かった! 言うからこっち来るな!」
 厭そうに張昭を追い払うと、孫権は忌々しげに舌を打った。それでもちゃんと諦めて、溜め息と共に口を開く。

「お前、興覇抱いたこと、本当にないのか?」
「ありません」
 妙にきっぱりと張昭が言い切る。まぁこんなにもはっきりと否定するのだから、きっと嘘ではないのだろう。
「なら知らないかもしんないけど…。興覇はすごく感じやすくてHな身体をしてるんだ」
「それは知ってます。いつもあいつは自分の身体を『最高の玩具』と言ってますから」

 『最高の玩具』

 その言葉を口にするとき、張昭は僅かに眉をしかめて口元を歪めた。
「うん…。でも、興覇が感じるのは上っ面一枚だけだ」
 抱けばいつでも最高の反応を示した。あまり声こそ出さないものの、反らせた背も、肩に回された手にこもる力も、快楽を堪えようと震える唇も、いつでもその身体は最高の官能を見せてくれた。

 ―――でも、その目はいつでも醒めている―――

「……本当に感じているのかなって、思うときがあるのだ。体を繋いでいるときが、興覇を一番遠くに感じる。……だから……」

 甘寧を心の底から感じさせてみたかった。身も世もなく鳴かせてみたかった。誰よりも、近い二人になってみたかった……。
 だが、薬を使って分かったことは、今まで以上の虚しさと、甘寧の誰よりも深い哀しみだけだった。

 ……こんな事が、したかった訳ではなかったのに……。

「主公、あなたが本当に好きなのは、幼平一人です。他の人間は、所詮身体の隙間を埋めるための存在でしかありません」
「そんなの分かってる」
「それと同じように、興覇にとって本当に大切で愛情をもって身体を結ぶことが出来るのは、子明だけなのです」
「……」
「幻を追うのはおやめなさい。あなたが興覇の物ではないように、興覇はあなたの物ではありませんよ」
「……分かってる……」

 自分と甘寧は似ていると、孫権はいつでもそう思っていた。似ている筈など無かったのに……。
 孫権は、小さく唇を噛み締めた。



 辺りはまだ明け方の冴えた空気を漂わせていた。朝儀が終わったばかりというのに、最近は日が昇るのが遅い。
 孫権は冷えた手を擦りながら、三々五々と消えていく人々を、柱の陰から見つめていた。本来なら主君である自分が誰よりも先にこの場から去らなければいけないのだが、孫権はこうして、自分がいないものと思ってさらす、みんなの素顔を見るのが好きだった。

 呂蒙が甘寧に声を掛けている。人前ではあまり親しげにしない二人の、あんな姿は珍しい。
 呂蒙は、いつもの笑顔をいつもよりほんの僅かに優しくさせて、甘寧に何事か話しているようだ。それを聞く甘寧の顔はいつも通りの人を食ったような面だが、時々呂蒙の話が可笑しいのだろう、口元を小さく笑いの形に歪ませた。

 『幻を追うのはおやめなさい』

 先日の張昭の言葉が耳元に響く。
 分かってる、そんなこと。
 辛そうに溜め息を吐く孫権に、大きな影が声を掛けた。

「どうしました、主公? お疲れですか?」

 孫権は殊更ゆっくりと顔を上げた。顔を上げる前の相手の顔が見えない間、周泰の声だけを感じていたくて。

「幼平」
「はい?」

 周泰の大きくて暖かい声。いつも自分に温もりをくれる声。昔、まだずっと小さかった頃、周泰はいつでも自分の傍にいてくれた。父は既に亡く、兄は遠い地にいて、他人の屋敷に預けられていた孫権にとって、周泰は彼の生活の全てだった。
 周泰がいてくれて、本当に良かった。周泰がいてくれたから、あんな生活に耐えられたのだ。
 周泰をお前につけると言われたときの喜びを、孫権は今も痛い程よく覚えている。

 孫権にとって、周泰はただ一人だけの、特別な存在なのだ

「主公?」
 黙ったまま自分を見上げている孫権の様子を心配したのだろう。周泰は小首を傾げて、孫権にもう一度声を掛けた。

「……幼平」
「はい」
「……仲謀って、呼んでみてくれ」

 孫権の声は小さくて、少しだけ掠れていた。
 誰か一人の物になりたかった。周泰はただ一人の人だけれど、周泰のただ一人の人は自分ではないから。心の隙間を埋めるには、身体の隙間を埋めるしかなくて、ただ一人の相手を見つけた甘寧が羨ましくて、彼に自分を重ねてみたくなる。

「どうしたんですか、仲謀様? 小さい頃の夢でも見たんですか?」
 笑みを含んだ周泰の声に泣きたくなる。

 仲謀様。

 いつだって、昔はそう呼んでくれたのに。
 あの頃周泰は本当に近い存在だった。なのに今の自分と周泰の間には、何て広い距離が広がってしまったのだろうか。

 ……君主になるというのは、こういうことなのだろうか。
 父も兄も、こんな椅子に座っていたというのだろうか。

 見上げた周泰の目は、孫権のいつもと違う様子を気遣う色に縁取られていた。
「幼平、今日は一日儂に付き合ってくれ」
「はい」
 周泰の目は優しかった。声も、孫権の視線に合わせようと屈められた背も、気配までも優しかった。

 ……孫権が欲しいのは、そんなものではないのに……。

「今日は一日、ずっと儂の傍にいてくれ」
「え? ずっとですか?」
 周泰は苦笑いしながら、それでもいやとは言わなかった。
 周泰の着物の裾を握り締めてみる。優しい周泰。誰よりも大切で、誰よりも残酷な周泰。

 誰かの物になりたかった。
 誰よりも大切な、誰かの物になりたかった。
 目の前にいる周泰は、決して自分の願いを叶えてくれはしないと、分かっているのに……。

「分かりました、仲謀様。今日は一日、お供を致します」
 甘えたように裾を掴む孫権の手を、周泰はそっと包むように握りしめた。

 優しい周泰。例え欲しい物を与えてくれないと分かっていても、きっと遠くから見れば、自分たちは睦まじい二人に見える。

「さ、仲謀様。早くお仕事に向かわないと、また子布殿に怒られますよ?」
「うん、この間も子布には怒られたばかりだからな」
「何をなさったんですか?」
「興覇を泣かせちゃったんだ」
「興覇殿をですかぁ? 興覇殿は駄目ですよ! 怖いですからね!」
「怖くなんてあるもんか」
「仲謀様はご存じないから!!」



 握った手の重さに、気づいてもらえる日は、決して来ないけれども。 


宜しければ忌憚のないご意見をお聞かせ下さい。

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