賭け騎射レース


 

 秋風が気持ち良い。ずっと暑い日が続いていたが、やっと風が涼しくなってきた。絶好の昼寝日和だ。甘寧はいつものように、練兵所の裏庭で上着から袖を抜いて横になった。顔の上に木の葉が陰を作り、目を閉じてみてもチラチラと眩しかった。それが、逆に甘寧を眠りに誘う。
 どれだけ眠っていただろうか。人の気配がして目を醒ますと、遠くに明るい髪の色が見えた。
「あ、いた!興覇!」
 呉主孫権が、嬉しそうな顔で近寄ってくる。珍しく軍装で、手には弓を持っていた。
「あれ?主公、調練?」
「おう。騎射の練習に付き合ってくれ」
 孫権は剣の腕は今ひとつだが、弓だけは驚くほど巧い。特に騎射の腕は武将顔負けで、彼の趣味である虎刈りも、この腕があったればこそである。
「構わないけど、騎射なんて一人でも出来るじゃん」
「一人じゃつまらんから誘ってるんだろ。何か賭けるか?」
「俺を相手に騎射で賭けようって?『弓の甘寧』の二つ名は伊達じゃないぜ?」
 二人は調練場に的を立て、愛馬に跨った。孫権が調練をするのも珍しいが、甘寧が自分の部隊でなく、自分自身の為の調練をするのも珍しい。何が起こったのかと、その場にいる者達が寄ってきた。
「じゃあ、全力で馬を走らせて、的の中心に多く当てた方が勝ちだ。三十本勝負くらいで良いか?」
「良いけど、俺手加減しないぜ?それより、先に何を賭けるか決めてくれよ。それによってやる気が変わってくるから」
 甘寧が言うと孫権は少しだけ考えて、耳元でこそっと「お互いの恋人を一日賭ける?」と提案して、「それは相手に訊いてからにしろよ」と却下された。
「意外と興覇って、こういうの固いよな……」
「物じゃねぇんだから、勝手に外野が決めて良い問題じゃないだろ」
「分かったよ。まぁ、儂も子明相手にどうこうしようって気にもならんし。ちょっとシャレのつもりだったんだよう」
「あんたが言うとシャレに聞こえないんだよ」
 甘寧が嫌そうに馬腹を蹴ると、「こいつも子明が儂にされちゃったりすると焼き餅焼いたりするのかな?」と、ちょっぴりだけ野次馬心が顔をもたげた。
「まぁ、妥当なとこで一点千銭位賭ける?」
「張るなぁ!お前、どんだけ自信満々?」
「賭け事はこの位賭けないとつまんないだろ」
「うわ〜、さすが侠だね……。まぁ良いか、それならそれで……」
「お待ち下さい!!」
 その声に振り向くと、噂を聞きつけたのだろう、張昭・張紘コンビが走り込んで来るのが見えた。
「うわ、お前ら、そんなに走ったら死ぬぞ!年を考えろ!」
「主公がとんでもない賭をしていると聞いては、おちおち死んでもいられません!」
「別にとんでもない賭けなんかしてないぞ?ちょっと余興に、少し賭けようかってだけで」
「……賭け金は……?」
「え?いや、一点千銭で……」
「ちょっとじゃないでしょう!?何本勝負ですか!?」
「三、三十本……」
「三万銭?どんだけ興覇に儲けさせるつもりですか!」 
「何お前ら、儂が負けるの前提!?」
「主公と興覇じゃどう考えても主公が負けます」
「失礼な!!」
「大体、調練をなんだとお考えですか!主公がその様なお考えでは、下の者に示しがつきません!!」
 張紘は怒りまくっているが、張昭は少しだけ考え込むと、真面目な顔で孫権を見た。
「主公が賭に釣られて調練に精を出すのなら、それも良いのではないか?」
「子布!お前なんて事を!」
「いや、主公が武芸に磨きを掛けようというなら、それはそれで評価すべきだ。で、賭け金ですが」
「そっちかよ!」
 張紘と孫権が同時に突っ込むが、張昭は至って真面目なようだ。
「主公が大金を賭けて騎射をするなどとは困ります。よしんば賭けるにしても、これでは最初から興覇の一人勝ちが約束されているようなものなので、それも面白味に欠けます。ここは額を小さくして、主公は一点百銭で、興覇は一点五十銭くらいにすれば良いのでは?」
「そんな小さい額で?」
 今度は甘寧が白けた顔をした。
「五十銭。ガキの小遣いじゃないんだから」
「どんだけお前のとこのガキは小遣い貰う気だ!」
 五十銭もあれば卓の上を酒と肴で満杯にしてもお釣りが来る。だが、甘寧からしてみれば、呉主と将軍が騎射の腕を賭けようというのだから、五十銭では安すぎる。
 しかし、孫権の不満は他にあった。
「ちょっと待て。なんで賭け金が倍も違うんだ?儂はそこまで劣ってないぞ?」
「主公が確実に勝てるようにという配慮です。他意はありません」
「あるだろう!?」
「待てよ、そんだけ額を下げるなら、的のどこに当たったのかまできちんとやろうぜ。俺らの最初の話だと、両者共的に当てればチャラの筈だったんだ。三十本射って、せいぜい差が五本から十本位だと思ってたんだけど?」
「それでも五千銭から一万銭だろう?高い高い」
「だったら一つ一つの的の当たった位置まで計って、全てに優劣を付けようぜ。全部ど真ん中当ててやるからな」
「がめついな」
「ジジィ共が下らない話をし出すとこっちは興醒めるんだよ。もうやめても良いんだぜ、俺は」
 はなから外すつもりのない甘寧の態度に、孫権も少しムキになる。
「よし!その賭け乗った!儂の弓を甘く見すぎだぞ、興覇!」
「お待ち下さい!主公、賭け事などとは嘆かわしい!絶対になりませんぞ!」
 張紘が必死に止めても、それこそ三人とも聞く耳を持たない。
「子布!お前が煽ってどうするのだ!」
「たまには良い余興だ。で、子綱、お前どっちに賭ける?」
「はぁっ!?儂らも賭けるのか!?」
「当たり前だ。俺は興覇に五千賭ける」
「俺らの賭け金より高いじゃないかよ!俺が全部取ったって、せいぜい千五百だぞ!?」
「主公が大金を賭けるのがまずいからこの程度の賭け金なのであって、俺達は関係ない。どうだ、興覇。俺が子綱から巻き上げるから、二人で分けないか?」
「子布!!儂は賭など反対だと言っているだろう!?大体、お前の立場で興覇に賭けるとはどういう事だ!?」
「ん?お前も興覇に賭けたいか?」
 挑発するように笑う張昭に、張紘はかっとして思わず「儂は主公に五千だ!」と叫び、叫んだ直後に「しまった!」と口を覆っても、もう遅かった。



 こうなると、周りで見ていた兵卒から将校まで、勝手に内輪で賭が始まった。なにしろ呉主自ら言い出した話だし、お目付役の二張が率先して大金を賭けているのだ。周りが賭けないわけがない。ルールも細かく設定され、あんなに反対していたはずの張紘までついつい本気になっている。
 自分たちが思っていた以上に大事になってきて、孫権は内心ちょっぴり焦った。本当は、甘寧と情事をかけて夜の刺激にでもしようかな、位のつもりだったのだが……。だが、こうと決まればもう乗るしかない。大体、孫権だって賭け事は嫌いではないのだ。
「おい、ここまで話がでかくなったんなら、他にも何人か連れてきたらどうだ?」
「主公と興覇に立ち向かおうという強者もなかなかおりますまい」
「おいおい、うちの軍にはもっと才のある者がおるだろう?」
「サルでも呼んでくる?」
 甘寧が「サル」と言えば、もちろんそれは凌統のことである。
「いや、公績はまずいだろ。あいつはお前が絡めばマジになるぞ」
「でもサルも結構弓は達者だぜ?」
「ほう、お前の口からそれを言うか」
「なら幼平や子明や公奕も呼ぼう!」
「じゃあオッズを変えましょう。興覇五十、主公百、後の四人は百五十くらいで良いですか?」
「お前ら本当にそんな面子を投入する気か!?」
 張紘が止めるが、やはり誰も気にしない。気を利かしたのか早く賭場を開きたいのか、その辺の奴らがさっさと四人を呼びに行ってしまった。孫権の身を常に守る周泰、次期大都督と目される呂蒙、孫策の代から勇を競う司令官の蒋欽、そして若手の有望株である凌統を、こんな下らない賭け事に投入するとは!
「オッズそれで平気?」
「まぁこんなもんだろう」
「一斉射撃?」
「いや、一人ずつ、一里先から全力疾走して、五本の的を連射してもらおう。的の間隔は十丈ずつ、射撃は的から十丈ほど離れた場所から行うという感じで良いか?」
「まぁそんなもんかね」
 ちなみに、一里は後漢の単位で四一四.四二m、一丈は二.三〇四mなので、十丈は約二十三mということになる。
 ルールをまとめていると、訳も分からず四人が引っ立てられてきた。
「ど、どうしたんですか?何です、この盛り上がりは?」
 呂蒙が恐る恐る訊くと、張昭が事の顛末とルールをさらりと説明した。
「賭け事ですか!?」
 凌統が焦って叫ぶが、甘寧がニヤリと笑って「自信がないなら帰って良いぞ?」と言えば、もちろん凌統が引き下がるはずがない。
「ちょっと待ってください。二張のお二方がいらして、何故こんな騒ぎになるのですか?主公を巻き込んで賭け事などと」
 一応呂蒙が眉を寄せて抗議するが、周泰と蒋欽は元々が甘寧と同じヤクザ者である。自分たちにも配当があることを知ると、それなら良いかと納得したようで、ここで眉をしかめているのは呂蒙だけだ。
「子明、自信ない?お前、元々腕自慢だったはずだよな?」
「……風紀が乱れるでしょ?」
 呂蒙は甘寧の挑発には馴れている。ここですぐにカッとなったりしないのが呂蒙の偉いところだが、周りの者達からすれば大ブーイングだ。
「やって下さいよ呂将軍〜!!」
「そうですよ!呂将軍に賭けますから〜!」
「嘘つけお前ら!どうせ興覇に賭ける気だろう!?」
「そんな出来レースではつまらん」
「子布殿、完璧に頭が賭け事仕様になってますね!?」
「最初にさらっと一回流して、それでオッズを変えるかハンデを付けるかしたらどうだ?」
「だから子布殿!あなたお目付役でしょう!?」
「すまんな、子明。俺は嫌いじゃないんだ」
「駄目だこりゃ……。子綱殿!何とか言って下さい!」
「儂は主公に賭けることに決まってしまってな……」
「ぐはぁ……」
 二張が揃ってそう言うのであれば、もう呂蒙に反論できようはずがない。
 こうして、賭け騎射のレースが開催されることとなった。
 取りあえず、大本命から射られては、残る者達のモチベーションに関わってくるので、賭け金の低い方から射ることとなった。
 まず、最初は仕方なく呂蒙が弓を取った。最初の的はど真ん中のようだったが、二発目からは弓をつがえる手間もあって、精度がどうしても落ちていく。結局、五発中一発外してしまう結果となった。凌統、周泰、蒋欽も、どれも似たような結果である。
「それじゃあ次は儂か!」
 孫権が嬉しそうに弓を取る。さすがに騎射を得意とするだけあって、五発とも見事に命中させた。しかし、後半の二本は的の大分端の方を射抜いてしまい、孫権は悔しそうに地団駄を踏んだ。
「じゃあ本命登場って事で」
 甘寧は颯爽と弓を構えると、いきなり二本の弓を口にくわえ、三本を同時につがえた。
「何だ、そんな曲芸みたいな事するのか」
「基本基本。連射だろ?」
 みんなが興味深げに見守る中、甘寧は軽く馬腹を蹴った。そして三本つがえたまま、器用に一本ずつ弓を射っていく。最初の三本を見事にど真ん中に命中させ、すぐ口から弓を取ると、これも二本同時につがえ、これまた綺麗にど真ん中を射抜いた。甘寧に賭けているらしい野郎共が、やんややんやの大喝采である。
「……うわ、卑怯くせぇ……」
 思わず蒋欽がぽろりとこぼすと、凌統も一緒になって「弓を同時につがえるのは禁止だ!みんなと同じように、一本ずつ矢筒から抜き取れ!」とイチャモンを付けた。
「何だよ、こっちの方が技術的には難しいんだぞ?まぁ、別に一本ずつ矢筒から抜いても良いけどさ」
 その様子を見ていた張昭が、すぐに訂正を入れる。
「興覇、ハンデ付けるぞ。お前は二十丈離れて射て」
「何だよ、俺だけ?」
「主公は十五丈です」
「儂も!?」
 こうなると、ハンデを付けられないという事が、なんだか見下された気がして、凌統は顔を赤くした。
「そんなハンデは要りません!」
「バカ、お前らに賭けてる奴らもいるんだぞ?」
「でも!」
 凌統がくってかかっても、張昭は相手にしなかった。
「ほら、じゃあ本番だ。公績から行け」
 凌統に賭けているらしい奴らが、でかい声で応援している。汗が額から流れたが、凌統は弓をつがえて走り出した。
 最初の弓はど真ん中。二本目は僅かに外したが、三本目は真ん中を射抜いた。しかし四本目は的を外し、五本目も的の端をかすめただけだった。
「くそう!!」
 凌統が悔しそうにする様子を、呂蒙が「気にするなよ、ただの余興だ。戦の時と同じ調子が出ないのは仕方がないさ」と慰める。
 が、次に弓を取った呂蒙も、続く周泰・蒋欽も、今度は誰一人的を外さなかった。
「あれ?お前ら、外さないな?」
 孫権が意外そうな顔をすると、三人は小さく笑った。
「ここからが本番ですよね?」
「ん?」
「いや、予行演習で実力を出すと、ハンデ付けられるでしょう?」
「ん?」
 三人とも思わせぶりな顔をしてる。その顔を見て、やっと孫権も理解した。
「……お前ら……!」
 ハンデを付けられると分かっていて実力を出すなんてばからしい。凌統のように、ハンデが付かないことを侮辱と思うような可愛らしさを、三人は持ち合わせていないのだ。元水賊の周泰と蒋欽だけでなく、何だかんだ言ったって、呂蒙もとっくに世にすれている。
「あらら、そこまでしないと勝てないと思っちゃう?」
 甘寧がわざと混ぜ返すが、どうせやるなら少しは儲けなくてはやった甲斐がないではないか。
「興覇を相手にするんだから、この位は涙ぐましい努力と笑ってくれても構わないよ?」
「おい、儂もいることを忘れるな」
「主公は先ほど実力を見せていただきましたので」
 周泰がニヤニヤ笑う。いつもセクハラの嵐を受けている周泰は、今回どうしても孫権をぎゃふんと言わせないと気が済まないのだ。
「幼平、ハンデがついているのだ。もし儂の方がお前より勝ったら、今日は臥室で儂の言うことを聞くのだぞ」
「絶対負けませんよ!」
 なんだか小さい賭がここでも始まっている。元々蒋欽と周泰は、二人だけで金も賭けているらしい。
「じゃあ興覇、俺達も何か賭ける?」
 思わせぶりな顔で、呂蒙が甘寧に提案する。
「何賭けるんだよ。勝った方に一万銭くらい?」
「いや、俺が勝ったら興覇は一週間俺の奴隷ね」
「何だそりゃ」
「興覇が勝ったら、オッズの関係があるから、俺が二日間興覇の奴隷で」
「何だそりゃ!だったらお前も一週間だろ!?」
「しょうがないでしょ、オッズが違うんだから」
 呂蒙はちらりと凌統を見てから話を続ける。凌統が憮然とした顔をしているのが少し小気味良い。
「バカ、お前も一週間くらいの奴隷でないと、旨味はないぞ?」
 凌統の視線に気付いているのかいないのか、甘寧が呂蒙の耳元に口を寄せ、ニヤリと笑ってそう告げると、呂蒙はなるほど、と頷いた。
「何?そんなに美味しい思いが出来るの?興覇の奴隷は?」
「それはお前が試してみないと?」
 孫権が弓をつがえているのも目に入らぬように、二人はお互いの耳元で囁き合っている。脇で見ている凌統は気が気でなくて、ついつい二人をガン見した。
 注目の少ない中で孫権が弓を放つと、おぉ!と歓声が上がった。十五丈の距離から放たれた矢は、五本とも的のほぼ中央に吸い込まれていった。
「えー!?あの距離で!?」
「主公もハンデ避けしてた!?」
「そんな事するか!お前らのような腑抜けではないわ!どうだ、儂の実力を思い知ったか!」
 もちろん、同じように角度がずれても、的が遠ければ着地点では大きな誤差になる。ましてや全力で走る馬の上から射るのだ。騎射には技術だけではない、動体視力や予測視力、それにセンスが必要となる。本番と聞いて燃えてきたのだろう。孫権のセンスも大した物だ。
「興覇!しくじるなよ」
 甘寧に賭けている張昭が甘寧にはっぱをかけるが、孫権に張っている張紘は「主に花を持たせるのを忘れるな!」と叫んでいる。
「どっちだよ……。だいたい、俺にハンデつけといて、しくじるなとはよく言うな……」
 ぶつくさとほざきながら、甘寧が馬腹を蹴った。もちろん五発ともど真ん中……と言いたいところだが、四本目だけ僅かに中心をそれた。
「こら興覇!四本目ずれてるぞ」
 張昭がすかさず喝を入れる。
「主公に花持たせろって言ったじゃん」
「そういうのは主公の為にならん」
「あんたの為にならん、の間違いだろ」
 全員が射ち終わった所で、二張が一本ずつ検証する。
「……一本目は全員ほぼ中央ですな」
「これは優劣がつかんな」
 真剣な表情の二人に対して、射った六人は口々に相手の手際の感想戦になっている。
「どうして興覇はあの距離で外さないんだ?」
「矢を抜くのが速いよな」
「二十丈くらいは大した距離でもないだろ。戦になったら二里先でも騎射で狙うじゃん」
「でも馬走ってるじゃん!」
「的が動かないんだ、大したことじゃねえよ。戦ん時はこっちの馬も全力だけど、的の方も全力で馬走らせてるじゃん。それでも射抜くのが戦の醍醐味だろ?」
 なるほどなと、何となく納得する。甘寧は馬に乗って逃げる黄祖を、騎射で射止めている。あの時、確かに黄祖までの距離は、一里以上離れていた。
「おい、子布、もう一本目はチャラにして、早く二回戦始めさせろ」
 早く三十本射ちたい孫権が急かすが、二張は真剣だ。
「では一本目は同点として、二本目は……主公も子明もほぼ中央だが」
「……興覇はピタリと真ん中だな……」
「でも主公と子明もこれだけ真ん中なら真ん中で良いんじゃないか?」
「いや、興覇がこれだけど真ん中なのだから」
 文官共のこの悠長さには苛々する。勝負事にはリズムがあるのだ。
「もう三人共一着で良いじゃないか」
「金賭かってるからって細かすぎるんだよ!」
「はい三本目三本目!」
「あぁもう分かった!では二本目は三人とも一着だ。次に三本目は主公と興覇と……公績もかなり中央だな」
「いや、公績は少しずれているだろう?」
 どれもこれも一着一着と身内に甘い武将共に、張紘が眉を寄せる。何だかんだ言ってもやはり武将共は仲間意識が強いのだ。
「良いよこん位!三人とも一着で!」
「はい四本目は!?」
「お前らの判定は雑すぎる!」
「うるせぇよ」
「四本目位になると大分差が出てきますな」
「今回興覇が中心外してるからな」
「主公はどうだ!?」
 張紘が息巻くが、孫権の的は残念な所から割れていた。
「いや……主公も外してるな……」
「これ、公奕が真ん中じゃないか?」
「俺!?他は!?」
「いや、これは公奕が一人勝ちだな」
「おっしゃぁ!!」
 蒋欽が一人勝ちと聞いてガッツポーズを決める。蒋欽一人に美味しい思いをさせて堪る物か!一気に六人が気炎を上げる。
「五本目は!?」
「五本目は……普通に興覇だな……」
「普通に興覇って何ですか、それ!普通なんですか!?」
 言葉尻をとらえて凌統が詰め寄ると、うるさいうるさいと、みんなが凌統の頭を小突いて口を閉ざさせた。
「いや、主公が中央から一寸も外してるから、これは興覇一人勝ちだろう。おい興覇、次は全部真ん中行け」
 張昭が興覇をつつくが、張紘はまさか主公をつつくわけにもいかない。
「ちょっと待て!興覇にはもう少しハンデを付けろ!後十丈後ろに下がれ!」
「別に良いけどよ」
 十丈位の距離は何とも思っていない甘寧は簡単に頷くが、金を賭けている張昭は納得いかない。
「貴様、いきなりここでハンデを付ける気か!?」
「これでは周りの奴らもつまらんぞ!!」
「お前がつまらんのだろう!?それなら主公にも後五丈下がってもらおう」
 白熱する二人をよそに、一人だけ一本外してしまった凌統が悔しそうに唇を噛んでいる。その姿を見て、「俺は別に後十丈位なんて事ないから、後は適当にやっといて」と張昭の肩を叩くと、甘寧は凌統の脇に近寄った。
「公績」
 珍しく甘寧が字で呼んだので、凌統は何事かと甘寧を振り返った。甘寧が「ちょっと」と、みんなから外れた場所へ凌統を誘い出す。
「お前の俺へのいざこざをちょっとこっちに置いて、真面目に話聞け」
「……何だよ」
 甘寧への遺恨があるのに、弓ですらこうも叶わない。正直、今甘寧の顔を見たくなかった。だが。
「お前の弓は結構イケてんだよ」
「嫌味かよ!」
「ばか、俺は弓のことでは嘘は言わねぇよ。で、お前が今回戦績が奮わないのは、こういった連射のコツが分かってないからだよ。戦の時とは勝手が違うから、お前どうして良いのか分かんないんだろ?良いか?お前はクソ真面目だから、馬を全力で走らせろって言われたら本気で走らせてるけど、俺達は少し緩めてんだよ」
「え?」
「当たり前だろ?全力で走らせたら、矢をつがえる前に次の的の前に行っちまうだろうが。弓をつがえて一拍置いてから射て。そうしたらどの弓も一本目と変わらねぇよ。その速度で馬を走らせろ」
「う……うん」
「それと、お前の矢筒、ちょっと長過ぎんだよ」
「え?でもこん位ないと、矢の数が減ったとき、落ちやすいから」
「まぁお前メッチャ暴れるからそうかもしんないけど。でも矢筒が長いと真っ直ぐ抜かないと矢が抜けないじゃん。お前、次俺の矢筒使えよ」
 甘寧が腰から矢筒を外すと、矢筒の底で凌統の腕を小突いた。
「え、でも……」
 ただでさえ甘寧が自分の為にアドバイスしているというのが信じられないのに。戦で使う道具というのはどれも、自分の命を左右する大切な物だ。武将は皆、自分の道具には細心の注意を払い、自分だけの工夫を加え、手入れを欠かさない。そういった武具を他人に貸して、例え小さい物であっても、傷を付けられるのを嫌がるのが普通だ。それをこんな簡単に……?
「ほら見てみ?この上のとこに切り込み入れてあるだろ?」
 見ると、腰に付けた時に上に来る部分に、上部に横一寸半、縦に五寸ほど、緩くカーブを描いた逆三角形の切り込みが入れてある。
「ここから抜けば上向きに抜けるから抜きやすいし、矢をつがえる動作に無駄が出ないんだよ」
「え?でもそうしたら、矢が減った時ここから落ちない?」
「この程度の隙間なら落ちねぇよ。うちの奴らはみんなこれ使ってるけど、矢が落ちた話は聞かないな。良いから、ちょっと使ってみろ」
「で、でも……」
 どうして?という気持ちが強い。どうして甘寧が、俺の為に?
「お前の弓が結構イケてるって、最初に勧めたの俺なんだよ。恥かかせんな」
 そのまま矢筒を押しつけると、甘寧はみんなの輪の中に戻っていった。
「あれ?興覇、矢筒は?」
「おう。ちょっと下の奴らに借りてくる」
「何?公績に貸したの?」
「借りてくるから、先に二回戦やっててくれ」
 自分のことは何も言わず、さっさと手下の所に借りに行く甘寧を、凌統はどうして良いのか分からずに見送った。
 俺の弓が巧いって、最初に勧めたのが甘寧……?
 思わず矢筒を持つ手に力が入る。端から見ると、まるで甘寧の矢筒を抱きしめているように。
「公績、お前から始めろ」
 後ろから張昭に小突かれて、凌統はびくりと肩を震わせた。慌てて矢筒を取り替える。「今、今行きます!」
 騎乗して甘寧をちらりと見ると、甘寧と一瞬目があった。甘寧が小さく頷くのを見て、凌統も頷き返して馬腹を蹴った。
 一本目はもちろん真ん中だ。馬の手綱を僅かに緩める。速度を落とし、矢を抜く。初めて使った矢筒なので、いつもの癖で真っ直ぐ弓を引き抜いたが、抜き取る瞬間、肘が上に動くことに気づいた。矢をつがえ、射る。僅かに逸れた。今度は意識して矢を斜め上に抜く。肘がそのまま回って、つがえる角度に無駄がなかった。一拍置く。一投目と同じように、呼吸を止めて矢を放つ。
 矢は気持ち良いほど真っ直ぐに、的の真ん中を割った。
「やった!」
 口元で小さく囁くと、そのまままた四本目をつがえて放つ。コツをつかむと、後は面白いほど矢は真ん中に刺さった。調練場の中は熱い歓声に包まれた。自分の知らないところでファンクラブが結成されている凌統のことである。彼に賭けている野郎共が、実は結構いるのだ。
 連射を終え、凌統は少し上気した頬で皆の元に戻ってきた。
「何だよ公績!お前いきなりどうしたの!?」
「何!?矢筒!?矢筒変えただけで!?それちょっと見せろよ!」
「興覇に何言われたんだよ!」
「いや、あの……」
 困ったように凌統が甘寧を見るが、甘寧は素知らぬ顔をしていた。
「ほら、次誰だ?子明か?サルに負けるなよ」
 弓で呂蒙の背中をつつくと、呂蒙が何か言いたげに甘寧を睨んだ。さっさと行けと手を振ると、少々ふくれっ面のまま呂蒙が出走位置に着き、そのまま走り出した。
 甘寧と凌統の事で腹を立てている呂蒙の集中力はすごい。五本とも、ほぼ中央に当ててきた。
「ったくこれだよ。もう、ハンデ要らなくない?」
 甘寧が呆れたように肩をすくめると、張昭がちらりと嗤った。
「何だ、泣き言か?」
「いや、ハンデ付けるのも失礼だって話」
「お前でも失礼なんて言葉を知っていたか」
「うるせぇよ、ジジィ」
 次に周泰が出たが、これは五本中真ん中が三本、残りの二本は的の端で、次の蒋欽は一本外した。
「主公、頑張って下さいよ!」
 張紘が声をかけると、孫権はにやりと笑って見事に五本とも、ほぼ中央に当ててきた。どうやらハンデは関係なかったようだ。
「次は興覇か。三十丈あるぞ?大丈夫か?」
「一里くらいまでは関係ねぇな」
「ほざいたな、興覇!」
「まぁ見てろって」
 甘寧は口は悪いが言ったことは違えない。三十丈の距離から、見事に五本ともど真ん中を射抜いてきた。
「……マジかよ……!」
 思わず周泰が叫ぶ。弓の甘寧。後に合肥で、迫り来る張遼軍を弓で翻弄する男である。
「どうよ」
 笑顔で馬から下りると、二張の判定を覗き込んだ。
「……いや……、いや、これは恐れ入った……」
 張紘が小さく唸る。だがさすがにこれ以上ハンデを付けろとは言えなかった。
「しかしこの三本目は少しずれてるな」
「うむ、公績の方がど真ん中だろう」
「じゃあ三本目は公績が一着で。五本目はどうだ?」
「これは……公績と……主公もど真ん中だな」
「じゃあ五本目は三人一着という事で良いか」
「子明は良いとこ行ってるのに微妙にずれてるな……」
「うむ。子明らしいといえば子明らしい」
 判定の様子を覗き込んでいるのは、演者だけではない。賭けている奴らもみんな、的の具合を見ては一喜一憂している。その様子を見て、博奕がしたくてウズウズしている甘寧が、隣の周泰をつつく。
「な、二着当てしない?」
「何?どうせ一着は自分だって言いたいんスか?」
 周泰が睨むと、甘寧は「違うよ。どうせ一位はみんな自分に賭けるだろ?」と笑った。
「いや、俺は興覇殿に賭けます」
 蒋欽がまじめに言うと、甘寧がこれには眉を寄せた。
「お前なぁ……武将だろ?」
「俺は実力を見誤ったりしませんよ」
「それじゃ白けるだろ。全順位当てだと計算面倒くせぇから、二位誰になるかだけ賭けない?どうせ俺たち、そんなに取り分無いじゃん」
「そうだね……じゃあ、俺は二位は主公に五千」
 呂蒙が乗ると、孫権は「儂は興覇で」と乗る。
「何?一位は自分?」
 甘寧がにやりと笑う。
「当たり前だ」
「バカだね、一位は俺に決まってんじゃん。後で泣くよ、主公」
「うるさい。興覇に五千だ」
「じゃあ俺は主公に五千」
 周泰が張ると、蒋欽は「俺は俺に五千」と、本当に首位に甘寧を推したらしい張り方をした。
「お前、だから一位は自分に賭けろよ」
「いや、俺は二位くらいが丁度だ」
「儂は!?」
「主公には負けませんよ?」
 蒋欽が笑うと、孫権が頬を膨らませた。そもそも、ここで皆が二位に推してくるのが腹立つというのに。
「で、公績はどうする?乗る?」
 呂蒙が促すと、凌統は「まだ考え中です」と口ごもった。
「甘寧から先に聞いて下さい」
「俺?俺はお前に五千」
「え?誰に?」
 凌統がきょとんとして甘寧を見上げた。「お前」というのが誰のことだか分からないのは凌統だけではないようで、皆が一様に甘寧を見た。
「ん?だから、俺はサルに五千」
「え!?俺!?」
「何だよ、さすがに俺がいるのに、お前が一位はないだろ?」
「いや、でも主公もいるのに……!」
「二位はお前だよ。若いから」
「え?」
「若いから?」
 意外な理由に孫権も怪訝そうな顔をしている。
「じゃ、じゃあ、三位は?」
 呂蒙が訊くと、甘寧は少し考え込むように首をひねった。
「三位難しいな……。たぶん、三位は子明か公奕だと思う」
「儂は!?」
 まさか自分の名前がここまで挙がらないとは思っていなかった孫権が憤慨して叫ぶ。
「あんたは五位だよ」
「じゃあ俺がビリですか!?」
 今度は周泰が憤慨する番だ。
「予想だよ、予想。やってみなけりゃ分からないじゃん。で、サルは誰に賭ける?」
「じゃ……じゃあ、えっと……じゃあ、俺は子明殿で」
「自分に懸けとけよ」
「……いや……それはさすがにないと思う……」
「良いから自分に懸けとけって」
 勝手に甘寧が「公績は公績に五千な」と宣言する。
「おい、勝手に決めるなよ!」
「良いじゃん、公績。もし外したら、責任取って興覇に払ってもらえよ」
 蒋欽がまじめに提案する。こういう賭け事を、甘寧が外すとは思えないのだ。一瞬自分も凌統に変えようかと思ったが、それはいくら何でも意気地が無いだろうと、心の中だけの事とした。
 三巡目は、甘寧の評に発憤したのか、皆そこそこの所を叩きだした。だが、四巡目になると、急に皆の調子が崩れ始めた。甘寧が言った通り、孫権と周泰の崩れ方が顕著だ。
「どうしました、主公?頑張って下さいよ!」
 張紘が叫ぶが、孫権だって崩したくて崩しているわけではない。相変わらず甘寧と、先ほど矢筒を変えた凌統は真ん中を射抜いてくる。呂蒙と蒋欽は、崩れたと言うほどの崩れは見せていないが、それでも一巡目の水準よりは僅かに下回っていた。
「……何?興覇の呪い?」
「興覇殿、何したんだ?」
 不穏な視線を物ともせずに、甘寧は凌統の肩を小突いた。
「ほら、自分に賭けといて良かったろ?」
 小突かれて、まさか自分が、と、凌統は少しぽ〜っとなった。だって試射の時も一巡目も、一番成績が悪かったのに……。
 結局六巡目、三十本全てを投了して、甘寧の予想通り、一位甘寧、二位凌統、三位蒋欽、四位呂蒙、五位孫権、六位周泰という結果となった。
「なんだ、これなら全順位当てにすりゃ良かったな。まぁ良いか。はいとりあえず、みんな負け払って〜。サル、二人で分けようぜ」
「え?あ、でも俺は子明殿に賭けたんだけど……」
「何言ってんの。お前は自分に賭けただろ。お前ら今手持ち無い?ジジィ、清算は後で?今日中に精算してくれよ。んで、みんなで呑みに行こうぜ」
「もちろんお前の奢りだろうな?」
 孫権が睨むと、「そりゃこういうのは勝った奴が奢るもんでしょ?」と腹の太いところを見せる。
「んじゃ、勝負もついたし、もう一眠りしてくるかな」
 さっさと馬を連れに厩に向かおうとする甘寧を、みんなが引き留める。 
「払うのはもちろん払うけど、その前に教えてくれ!あの予想はどうやって叩きだしたんだ!?」
 蒋欽が声を上げると、呂蒙も甘寧の袖を引く。
「公績に何したの!?」
「何もしてねぇよ。言ったろ?公績若いからって」
「若いから!?どういう意味だ!?」
「騎射の連射だよ?集中力の勝負に決まってんじゃん。誰だって戦でもないただのゲームでそんなに集中力続く訳ないし。元々主公は机上に集中力はあっても、調練に集中力続く人じゃないのはお前らだって知ってんだろ?だから主公はすぐ崩れると思ったんだよ。クマ公は戦の時だって滅多に弓は使わないんだぜ?本番でもないのに騎射なんか続けられるかよ」
「集中力…」
 凌統が意外そうに甘寧を見た。
「そ。ガキの集中力は侮れないから、お前は最後まで保つかなって」
「じゃあ、俺と子明殿は?」
「公奕は元々騎射得意じゃん。水賊は弓よく使うし、戦の時だってよく射ってるし。馴れてるから、そう崩れないかと思って。子明はほら、最初からゲームだと思ってあんまり本気出てないみたいだったじゃん?だから逆に、最初の調子のまま最後まで行くかなって思ってさ」
「……集中力って言うなら、お前だってそんなに集中力無いだろう……?」
 むかついた孫権が少し嫌味を言ってみるが、甘寧は全く気にならないようだ。
「あ、俺、戦の本番と金賭けてるときは集中力切れないよ?」
「だったら普段の調練ももっと真面目にやれよ!!」
「あ〜、ごめん。金賭かってないと、俺集中できないんだよ」
「……お前、その分析力を、もう少し別の時に使う気にはならんのか?」
 張昭が甘寧を睨む。いや、元々甘寧は献策も結構容れられてるし、戦の読みも鋭い。バカでないことは分かっているが、こういう時に奴の能力の一端を見るというのは、正直不本意だ。個々の性格までよく分析してやがる。ただの賭け騎射でこんなに分析できるなら、戦の時にはもっと参謀に協力するべきではないのか?
「だからさー、これは博奕だろ?博奕だから俺の勘も絶好調な訳よ。じゃ、ホント俺、少しさぼってくるわ。また後でな〜」
 笑いながら甘寧が手を振って消えていくと、周泰がぼそっと呟いた。
「やべ、俺手持ちないや。いっぺん家に取りに帰っても良いですか?」
「え?あ、そう言えば俺も……。二着当てだけで五千でしょ?騎射はどんだけになりました?」
「いや……興覇一人勝ちってのも何だから、もう騎射の分は払わなくて良いんじゃん?どうせ額小さいし、興覇そんなにこだわってないと思うよ?」
 呂蒙が半ば本気で言うと、周泰と蒋欽が「そりゃそうだよな」と頷いた。だが孫権の意見は違うらしい。
「でも興覇、博奕の負け払わないと、多分いつまでもうるさいぞ?」
「いや、あいつは自分が勝ったってだけで満足しますよ、きっと?」
「そうかなぁ……」
「そういう奴ですって」
「あの……」
 凌統がこっそりと手を挙げる。そうだ。一人勝ちしたのは甘寧だけではない。凌統だって、ごそっと持っていったのだ。
「あの、が、額が大きすぎると思うんですけど……。これ、五千じゃなくて五百にしちゃまずいですか?」
「……いや、それは小さくしすぎだろ……?」
「何?公績の取り分も減るんだよ?」
「いえ、あの、俺本当は子明殿に賭けていたのに、勝手に甘寧が変えちゃっただけだし……。まさか本当にあんな大金を皆さん払う気なんですか?」
「まぁ、かなり痛いけど、最初から払う気があるから賭けたんだし」
「でも、俺そんなにたくさん貰うの、ちょっといやです……」
「なんで!?」
「だって、なんか皆さんから巻き上げてるみたいだし……。じゃああの、せめて五を取って、千にしませんか?」
「え〜?それは興覇のいる所で言わないと!」
 さっきまで、騎射の賭け分はチャラで、とか言っていた奴らの台詞とも思えないが、みんなの気持ちとしては、甘寧を相手に小さな賭を丸々チャラにさせるのよりも、でかい賭の賭け金を負けさせる方が難しい気がするのだ。
「まぁ、儂は幼平との賭には勝ったわけだし、何でも良いぞ?」
 孫権がウキウキして言うと、周泰の顔色がザ〜っと青くなった……。
「いやあの、それって本気でしたか……?」
「無論本気だ!儂の方が順位が高かった事を忘れてないな?」
「いや!あれは主公が一着だった場合の話です!」
「そんな事言ってないだろう!?」
 二人の必死の攻防戦を見ながら、薄々事情が分かっている面々が、不思議そうにしている凌統の視線に気付いてちょっと慌てた。子供には見せたくない物もあるのだ。いや、凌統もう二十超えてるけど、あまりにも凌統はお子様過ぎる……!
「……な、何賭けちゃったんだろうね……」
「そうですね。幼平殿、妙に焦ってるように見えますが、よっぽど大金賭けちゃったんでしょうか……。それだったらやっぱり、二着当ては賭け金下げませんか?」
「だから、それは興覇と交渉してきなよ。俺達は別に構わないって」
 正直、五千銭くらいの金額は、一般の兵卒なら気軽に扱える金額ではないが、国の重鎮である面々ならなんてことない金額だ。だが若い凌統はそんな簡単に大金を払う場面に出くわした事がない。石高が上がっても家計は家宰に任せっきりで、自分では名馬を贖う位しか、大金を出した事がないのだ。もっとも、名馬の価格は五千銭等では全然足りないが、それは額が違いすぎて感覚が麻痺している。五千銭くらいの手の届く額の方が、凌統には畏れ多く感じるらしい。
「じゃ、じゃあ甘寧の所に行ってきます……。今、厩でしょうか……?」
「もうその辺で寝てるんじゃん?」
 甘寧の居そうな場所なんて、凌統の方が知ってるんじゃないのか?と、みんなが思っていても口には出さない。凌統のストーカーっぷりを知らないのは、凌統だけである。
 じゃあ、と凌統がその場を離れようとすると、呂蒙が「俺が一緒に行ってあげるよ」とくっついていく。呂蒙と甘寧の関係を知らないのも、この場では凌統と張紘だけだ。
「うは〜。子明殿、ガード固ぇな……」
 蒋欽が嫌そうに顔をしかめると、張昭がそっけなく返事をする。
「いや、興覇がやたらと公績に甘かったから、気が気じゃないんだろ」
「え……。公績殿と何かあるんですか?」
「……いや、子明がアレなのはいつもの事だろう?」
 さすがに凌統との関係を知っている奴は、呉国中探しても、当事者の他には張昭くらいだろう。そもそも、こんな事は広めるべき物ではないのだ。
「あー。子明殿もあんな因縁があるんだから、公績殿が興覇殿相手にする訳ないって事ぐらい分かりそうなもんなのに……」
「……まぁ、子明にしてみりゃ興覇がアレだから、どんな相手でも心配なんだろうよ」
 張昭のいい加減な説明に納得したようだ。蒋欽は「困ったもんだよな」と唸った。



 練兵場を離れると、練兵場の裏庭を見てから厩に行き、そのまま凌統は躊躇うことなく後宮にほど近い竹林に足を進めた。
「……公績、何でここに……?」
「え?練兵所の裏庭にいないときは、大抵あいつはここにいるんです」
 何故そんな事をお前が知っている!?俺だって知らないのに!!ストーカー!このストーカーめっ!!というのは、ぐっと胸に秘めておく。
 竹林の一角に小さな四阿があり、果たしてその四阿で、甘寧は昼寝をしていた。
「甘寧!」
「ん?あれ?なんだお二人お揃いで」
 甘寧的にはありえない二人連れに、ちょっと鬱陶しく思いつつ体を起こす。せっかく気分よく寝ていたのに。ここなら誰も来ないだろうと思っていたが、凌統に案内されて、呂蒙にこの隠れ家を知られてしまった。畜生、また違うねぐらを探さなければ……。
「興覇、公績が、あんなにたくさんの賭け金はもらえないって。一人五千の賭け金を、千くらいに変えませんかってさ」
「はぁ!?何言ってんの!?」
 甘寧が睨むと、凌統はさすがに気まずそうに、でも「諸先輩から金を巻き上げるような真似はしたくない」と主張する。
「バカだな、だから、そういう時はみんなから巻き上げておいて、みんなに奢って返せば良いんだって。お前もガキじゃないんだから、そろそろそういう大人の付き合いを覚えろよ」
 甘寧が大袈裟に溜息をつくが、凌統にしたらあまりにも大金過ぎるとまだ尻込みしているようだ。
「だってそんな大金、奢り返そうと思ったって一度に奢れる金額じゃないだろ!?」
「公績、俺達は逆に、ここでそういう風に気を遣われる方が気詰まりなんだけど……。大体、五千銭って最初に言い出したのは俺だし」
 呂蒙が取りなそうとするが、凌統はそもそも自分に賭けるつもりがなかったのに、甘寧が勝手に張ったから大金を手にしたという、そこからもう気になっているのだ。自分がまっとうに勝ち取った金しか手にしたくない。あまりにも潔癖すぎる凌統に、大人二人は溜息をついた。
「んじゃサル、こうしろ。今日、お前は賭の上がりを貰って、そいつでお前の部隊の奴らに奢れ。飲み屋でも妓楼でも借り切って、朝までバカ騒ぎして、金は一銭残らず使い切れ。お前らが応援してくれたから、主公達から金巻き上げられたんだって言えば、兵卒達も盛り上がるから。お前、戦の後に褒賞貰ったら、ちゃんと兵達に奢ってる?」
「そ……それは奢ってるけど……」
「金だけ支給しても駄目だぞ?一緒にバカ騒ぎするのが意外と大事なんだからさ。ま、あんまりお前呑めないから、誰かお前の面倒見てくれる奴もちゃんと連れてけよ?じゃないと自分とこの兵卒にお持ち帰りされちゃうゾ?」
「お持ち帰り?」
「……いや、分かんなきゃ良いよ……」
 はい話は終わり、と凌統の肩をバンバンと叩くと、甘寧は「じゃ、俺もう少しここで寝てくから、後はよろしく」と四阿の椅子に体を沈める。
「興覇、時間内はちゃんと仕事しろよ。お前こないだの報告文、まだ提出してないだろ?」
 そのままサボりを決め込んでいる甘寧に、呂蒙が突っ込む。本当に言いたい事は他にあるんだろうに、モヤモヤ感がだだ漏れである。甘寧はちらりと呂蒙を見た。むくれてると思うとなんだか可愛くなってきた。こういうとき、甘寧の「もっと可愛がりたい」は、違う方向に働く。
「子明、今日から一週間俺の奴隷じゃん。俺の手下捕まえて、詳しい話聞き出して、報告文書いといて。虎青辺りが大体把握してるから」
「……奴隷ってそういう事かよ!」
「何?他にどんな奴隷が?」
 脇に凌統がいるので、それ以上の話はさすがに出来ない。四阿の中から手だけ出して振ってくる甘寧に、凌統を引っぺがしてからじゃないと話も出来ないと、呂蒙は「分かったよ!後で話があるから、逃げるなよ!」と捨て台詞を吐いてから、凌統と一緒にその場を後にした。



 その日の夜、甘寧は孫権を始め、賭けで騎射を演じた連中や判者の二張だけでなく、その辺の武将達をみんな連れて、朝までどんちゃん騒ぎをした。鉄翁城内ではなく、市井でも一番でかい料亭を借り切ってのどんちゃん騒ぎだ。京口の城郭に住む民達も何事かと見物にきて、振舞酒など貰っていた。甘寧が気前の良いのは昔からだ。巻き上げた金の倍は使って、大騒ぎをしまくった。酒という酒の封が切られ、肉が飛び交い、妓女が舞う。さすがの二張もこの時ばかりは愉快そうに酒を煽り、張紘などはガラにもなく、踊りを披露して座を沸かせた。
 おかげで孫権と周泰の臥室でうんたらとかいう賭けも、呂蒙と甘寧の奴隷がどうこうとかいう賭けもうやむやに終わって、何となく助かったようなすっきりしないような、変な気分だ。だが楽しかったのは本当なので、さすがにそれ以上孫権も呂蒙もほじくり返すような真似はしなかった。
 凌統は言われたとおり自分の部隊の連中と飲み会をしたらしい。珍しく凌統が飲み会を開くというので、部下の兵士達は大いに感動してくれたらしい。甘寧のアドバイスがどこまでも効いて、凌統は複雑だった。翌日甘寧に礼を言ったものかどうかもよく分からない。
 借りた矢筒も、返し時を無くしてしまった。甘寧は翌日会ったときにはもう新しい矢筒を腰に留めていた。多分、返すと言えばそのまま使えと言われるだろう。実際、甘寧の矢筒の使い心地はとても良かった。昨日の成績も、この矢筒のおかげだろう。甘寧の矢筒。返さずにいて良いのなら返さずにいたかった。でも、甘寧の好意にこのまま甘えているのも心苦しい。自分たちは、そういう関係ではないのだ。
 甘寧の姿を探していつものように練兵所の裏庭に行ってみると、甘寧は珍しく昼寝をしないで書物を読んでいた。何を読んでいるのか、熱心に竹巻を紐解いている。
「か…甘寧……」
 声を掛けると、甘寧が顔を上げた。竹巻には、何やら甘寧の手による書き込みがしてあった。勉強だろうか。自分の執務室でやれば良いのに……。
「おう、なんだサルか。どうした?昨日は飲み会ちゃんとした?」
「うん……みんな喜んでくれて、すごい楽しかった。ありがとう」
「ん?お前が俺に礼なんて言うと、今日は赤い雪でも降るんじゃねぇの?」
 甘寧の軽口に、凌統は少し口元を歪めて、それでも矢筒を甘寧の手元に押しつける。
「これも、ありがとう。この仕掛け、真似しても良い……?」
「おう、気に入ったんならそのまま使えよ。ほら、俺んとこ同じのたくさんあるから」
 まるでお揃いの矢筒のように、甘寧が自分の矢筒を凌統に見せた。凌統の頬が赤くなる。「お、お前から貰ういわれがない」
「俺の弓具使えばさ、俺にあやかって、下手くそなお前も少しは上手になるんじゃん?」
「なっ!」
 一瞬怒ろうとしたが、昨日は本当に、甘寧のアドバイスと矢筒だけで成績を上げたのだ。それを思い出して、怒ろうとした気持ちが萎えていく。
 どうしよう。
 どうしよう、甘寧に対して、嫌な気持ちが沸いてこない……。
 矢筒を握って下を向いてしまった凌統に、甘寧が僅かに眉根を寄せた。それから凌統の背中をばんと叩いて、耳元に囁く。
「それやるからさ、お前、もう俺んとこ来るな」
「え?」
「いい加減、そろそろチャラにしねぇ?俺もお前のヘタクソなセックスに、付き合いたくねぇんだわ」
「……」
「それとも何?そんなに俺が良いの?」
「何…何言ってるんだ…っ」
 凌統が甘寧の顔を睨みつける。
「俺はお前と違って男とやる気なんてサラサラねぇんだよ。もういい加減俺から卒業して、まともに女抱けよ」
 凌統の額がさっと白くなった。
 女を抱け?それをお前が言うのか?お前は……お前は俺の獲物なのに……!?
「俺だってお前なんか、抱きたくて抱いてる訳じゃねぇよ!」
「だったらいい加減に終いにしろよ!何なんだよお前!ヘタクソのくせに!俺がどれだけ迷惑してるか分かんねぇのかよ!ほら、その矢筒やるから、もう俺んとこ二度と来んな!」
 カッとして、凌統は矢筒を甘寧の顔めがけて投げつけた。だが、ぶつかる直前に、甘寧がそれを受け止める。
「いらねぇよ、こんなもん!何だよ!何だよ、甘寧なんか……!」
 振り切るように踵を返して走り去る凌統の頬に、涙が光って見えた。
「……やべ……」
 凌統の姿が完全に見えなくなってから、甘寧が手に残った矢筒に視線を落とす。
「やべぇ……。あの程度でもうアウトなのかよ……」
 甘寧はずるずると、その場にしゃがみ込んだ。矢筒をそのまま地面に投げ捨てると、空いた両手で頭を抱え込む。
「……勘弁してくれよ……。何だよあいつ……。畜生、ちょっと弓教える位良いじゃねぇか……。少しくらい優しくさせろよ……」
 暫くそうして一人で固まっていた。どうれだけそうしていたのか。相当長い事固まっていたが、秋の日溜まりはポカポカと暖かくて、なんだかこんな事で考え込んでいるのがバカバカしくなってきた。
「……も、いいや……。連射のコツは教えたし、矢筒の仕掛けも教えたし……。もうホント、あいつの事考えるのやめよう……。俺はもう、子明の事だけ考えりゃ良いや……」
 立ち上がって、辺りを見回す。さっき投げ捨てた矢筒が落ちていた。少しだけ考えて、矢筒はそのまま拾い上げず、放り出したまま練兵所に向かった。
 誰かいるかもしれない。
 何となく暴れたい気分だ。立ち合いでもするか。誰か強い奴とかいなかな……。
「あっ興覇殿!」
「何ですか!今日は立ち合いで賭でもする気ですか!!」
「俺はイヤですよ!」
「あんだよ、普通に調練だよ」
「興覇殿が普通に調練なんかするもんか!」
 そのひどい言われようが少しだけ甘寧の気に入って、甘寧は笑って槍に手を伸ばした。


宜しければ忌憚のないご意見をお聞かせ下さい。

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