蝶と菜の花 |
凌統には苦手なものがいくつかある。 まず、蝶が苦手だ。 昔父上が凌統の為に捕ってくれた蝶を掴んだ途端に、その羽を破いてしまったことがあるのだ。指先にべったりとついた鱗粉がきらきらと光って、それがとても気持ち悪かった。 それから菜の花が苦手だ。 見ているだけなら可愛くて、黄色い花が黄緑の葉の間に並ぶ様子はとても愛らしいと思うのだが、それが食卓に並ぶとなんだかとても嫌になる。 なにもこんなに可愛い花を食べなくても良いだろう。 口に入れると見た目に反して少し苦みがあるのも嫌だ。せっかく可愛い花なのだから、もっと甘くても良いと思う。 春は本当に暖かくて過ごしやすく、花の甘い香りが漂っているのに、何故こんな季節に蝶が飛び菜の花が食卓に上るのだろう。 周り中を飛び交う蝶を見ながら、凌統はちょっとげんなりしていた。 蝶を邪険に振り払っていると、目の端に甘寧が歩いていくのが映った。腰の刀だけではなく、手に短剣まで持っている。 常に甘寧の弱点を探している凌統は、いつもと違う様子の甘寧を当然のように尾けることに決めた。 甘寧はそのまま後宮に近い庭の一角へと歩を進めた。もし塀をよじ登ろうとも、後宮の様子が、あるいは城内の様子がお互いに見えないよう、庭と後宮を仕切る塀の両側には太い竹が植えられ、そこは鬱蒼とした竹林になっていた。 相変わらず、あるんだか無いんだか分からない細い目である。その目で甘寧は一本一本、丹念に竹を眺めていた。 何をするつもりなのだろうか。 昼でも薄暗い竹林だ。身を隠すところはいくらでもある。気づかれぬように竹の間に身を隠し、凌統はじっと甘寧の様子を窺った。 甘寧は凌統がいることにまるで気づいていないらしい。無造作に腰から刀を抜くとその柄を軽く握り、太さ20pはあろうかという竹を一気に両断した。 凌統は呆気にとられて声も出なかった。 城内の物は、竹の一本に至るまで主公のものだ。それをあんな、あんまりにも無造作に……。 だいたい、あれだけ太い竹である。凌統だってもちろん竹より太い人間を斬りまくっているので、あの程度の竹を斬り倒すのは造作もないが、でも少し腕の辺りに力が入るだろう(この辺の考え方に問題があることに、凌統は気づいていない……)。もし甘寧のようにさりげなく、撫でるように斬れるかと言われたら少し自信がないのが正直悔しい。しかもそれを人が見ていないのにさりげなくやる、というのが、いかにも余裕綽々で腹が立つ。誰も見ていないのだから、両手で斬っても良いではないか。 甘寧の様子を見ていると周りに蝶が寄ってきていらいらする。何故俺の周りに蝶が寄ってくるんだ。 凌統は昼食にナツメの甘ずら煮を食べたことをもう忘れていた。もちろん口の周りに蜜が付いているとは思いもよらない。 甘寧は切り倒した竹の一節を更に切り取り、筒状の竹の側面を短剣で少しそぎ落としてから、窓のように形を整え始めた。 どうやら何か細工をしているらしい。しかし細工物なら、いくらでも城外に竹林があるではないか。何もわざわざ城内の竹を使わなくても良いはずだ。後で問題になったらどうするつもりなのだろう。 もちろん後で問題になったら、凌統は堂々とチクるつもりだ。主公にこってり怒られればいい。 甘寧は何か歌を口ずさみながら、その窓の縁に釘の先を入れては抜き、入れては抜きを繰り返している。凌統は相手が甘寧だということも忘れて、「何を作っているのか」に興味が移っていた。 その時、足音がガサガサと聞こえて凌統はびくりとした。竹に見え隠れしながら、誰かが近づいてくる。あぁバカ、ほらみろ見つかったじゃないか、と、凌統は後でチクってやろうと思っていたことも忘れて思わず甘寧の心配をしてしまった。 「お〜い、興覇、ここか?」 「おう」 よりにもよって、やって来たのは張昭だった。あの口やかましい目付役の張昭に甘寧が叱られるところを想像して首をすくめる。甘寧が叱られるというのは気味が良いが、脇で一緒に聞くとなんだか叱られてるのが自分のような気がしてしまうのだ。 「よくここだって分かったな」 「主公が様子を見てこいとさ。何を頼まれたんだ?」 主公に頼まれた? がっかりと凌統は肩を落とす。それでは甘寧が叱られるところを見るのは、今日はおあずけか。 それにしても、何故か張昭は甘寧の前では結構ぞんざいな口をきく。甘寧の後を尾けていて、初めて張昭と甘寧が二人で話している場面に出くわしたときにはかなりびっくりした。もちろんぞんざいな口をきくからといって、張昭の口やかましいのが収まっているわけではないが。 「いや、虫を捕ってこいってさ」 「虫?」 「ああ。こないだ俺がガキの頃に虫を飼ってた話をしたんだよ。ほらうち貧乏だったからさ、虫捕ってくるくらいしか娯楽が無くてね」 「はぁん?」 「本当は夏にでかいカブトムシとかクワガタとか捕ってきて、ケンカさせるのが楽しいんだけどさ。この季節だと蝶かな……」 「蝶?」 凌統は思わず声に出してしまったが、張昭も同音異口にしていたので、どうやら聞かれずにすんだらしい。 「お前が蝶を飼ってたのか?」 「俺じゃねぇよ。二姐が好きでな。喜んで欲しくてよく捕ってきたもんだ」 「美人だったのか?」 「ああ。優しかったしな」 「いまいいくつだ?」 「死んだよ」 新しく切り取った節を細く裂きながら、甘寧は何でもないことのように口にした。その様子があんまりさりげなくて、凌統は少し胸が痛んだ。 「綺麗な人だったから金持ちの家に妾にもらわれてってな。どうやら産褥で死んだらしいが、詳しいことはよく知らん」 「……そうか……」 細く細く竹を裂いていく手先が慣れている。あの甘寧も子供の頃は美しい姉のために何度となくああして虫かごを作り、綺麗な蝶を沢山入れて贈ったのだろうか。白く細い手に頭を撫でられ、頬を紅くして嬉しそうに笑う子供が目に浮かぶ。……今の甘寧からは想像もつかないけれど。 「おっと」 言いながら、甘寧は飛んできた蝶を指先でひょいと捕まえた。まるで花に止まっている蝶をつまむような、軽い手つきだ。 「ん、ちょっと持ってて」 「俺がか?」 「良いだろ。まだ蓋ができてねぇんだ」 張昭が指先に蝶を挟むと、その指先に昔の自分が重なる。ほんの少し力を入れただけで、蝶はただの粉になった。凌統は背筋が寒くなって、思わずうなじに力が入る。 甘寧が竹籤を作る間、張昭は蝶を持ったままだった。時々蝶がびびびと震えて嫌な音を出す。 再び飛んできた蝶を捕まえ、張昭に渡す。更に1匹。 「おい興覇。俺の手は2本しかねぇぞ」 「その辺に誰かいないか?」 「誰かって……」 凌統は慌てて身を隠した。ここで見つかると、気まずいだけでは済まされない。 その拍子に竹の葉を踏みしめ、ガサガサと乾いた音が辺りに響く。 しまった、と思ったときにはもう遅かった。 「おい、誰かいるのか?」 もう見つかっても良い。後の気まずさなど今更だ。捕まって蝶を持たされるよりはましである。走り出した凌統は、しかし簡単に甘寧に腕を捕まれた。 「なんだお前か。逃げることねぇだろ、これ持ってろ」 「何で俺が!!!」 「主公にやるんだぞ。公務公務」 「お前が頼まれたんだろ!」 「サルが捕まえたって言ってやるから、ほれ」 「放せよ! 俺はサルじゃないったら!!」 凌統も必死である。何しろ、蝶を掴むか掴まないかの瀬戸際なのだ。 「なんだお前」 甘寧が口元に嫌な笑いを浮かべて、凌統を覗き込んだ。 「蝶が怖いのか?」 かっと頬が紅くなった。蝶が怖いなんて、そんな言い方をすることはないだろう!? 俺はちょっと蝶が苦手なだけで、決して怖い訳じゃない!! 「怖くなんか……」 もっと胸を張って威勢良く叫ぼうと思ったのに、凌統の意に反してずいぶん情けない声が出てしまった。 「なら持てよ、ほら」 小さな紋黄蝶だ。菜の花のような綺麗な羽が震えている。 甘寧が凌統を後ろから抱きしめるようにして腕を沿わせ、指の間に蝶を挟ませた。そのまま耳元に口をつけて囁く。 「……潰すなよ?」 籤で窓をふさがれた竹筒は、上部の節が切り取られて蓋になっているらしく、ずれないよう紐で結ばれていた。いかにも手作り然とした、簡単な細工物だ。中の蝶は6匹。白いの黒いの黄色いの、色とりどりで美しい。 孫権は子供のように喜んで、甘寧と張昭、凌統に礼を言った。 「なに? 主公、ガキ供にでもやんの?」 「興覇、公子だろう。だいたい主公に向かって何という口をきくのだ」 張昭が澄ました顔で甘寧にやかましいことを言っているが、甘寧も孫権も聞いちゃいないようだ。 「何言ってるんだ、わしが飼うに決まってるだろう。何食べるのかなv」 「蜜だよ蜜。……あー、でもあんたあんまり花とか採ってこなさそうだな……。後で誰かに頼んどけよ」 「興覇はちゃんとやってたのか?」 「俺じゃねぇよ。だから蝶は二姐が飼ってたんだって」 楽しげな孫権や甘寧の様子に反して、凌統は沈んでいた。 まだ蝶の感触が指に残っている。気をつけてつまんでいたのでさすがに羽を壊すような真似はしなかったが、それでも指先に微かについた鱗粉が、拭ってもまだ落ちずにいる。 「ん? 公績はどうした?」 「あ、いえ……」 「俺が蝶を全部主公にやっちまったからむくれてるんだろ」 いけしゃあしゃあと甘寧がうそぶく。いや、確かに蝶なんか怖くないと強がったのは自分だけれど……。 「ああそうか……。公績、分けてやろうか?」 「い、いえ、とんでもありません」 「遠慮するな」 事情を知らない孫権が、蝶を自慢する子供の無邪気さでとんでもないことを言い出す。もちろん、孫権の方が凌統よりも年は高いけれど、この君主は公子達よりもよほど幼い。 「興覇、まだ虫かごは作れるのだろう?」 「ああ、そういや竹を出しっぱなしにしてきたな……」 「いえ、本当に俺は大丈夫ですから!」 「なんだなんだ。確かにせっかく捕まえてきたのに、全部召し上げられてはお前もつまらなかろうしな。よし、手数をかけるが興覇、もう一つ作ってきてくれ」 「あいよ」 部屋を出ていく瞬間、甘寧は凌統を振り返ってニヤリと笑った。 凌統には苦手な物がいくつかある 蝶の鱗粉に食卓の菜の花。 どれも苦手と言うだけで、嫌いなわけでも怖いわけでも全然ない。 全然ないが、それでもやっぱり苦手は苦手だ。 それから嫌いな物もある。 もちろん甘寧だ。 甘寧のことは嫌いと言うだけで、苦手なわけでは決してない。甘寧は優しかった父上の仇で、やることなすことがいちいち凌統の気に障る。ニヤニヤと笑うあの細い目を見ていると、腹が立ってしかたがない。 とにかく甘寧が嫌いだ。本当に嫌いだ。 重ねて言うが、決して苦手なわけではない。 その日の夕方、甘寧がお手製の虫かごに嫌と言うほど蝶を詰め込んできたのは言うまでもない。 腰に手を当てて笑っている。こういうときの甘寧は本当に嬉しそうだ。 「大事に育てろよ、主公からの御下賜品だ」 怒りたいような泣きたいような、真っ赤になった顔を歪める凌統の耳元に、甘寧はまた口を寄せた。 「潰すなよ……?」 高笑いを残して消えていく甘寧の後ろ姿を睨みつけ、凌統は思わず地団駄を踏む。 あの野郎、やっぱり最初から全部承知してやがったんだ!!! 凌統は甘寧が嫌いだ。苦手なわけでは決してないが、それでも甘寧が大嫌いだ。嫌いで嫌いで本当に嫌いで、奴の弱点を何とか探り当てようと、凌統は甘寧が歩いていれば今日も後を尾けていく。 奴に一泡吹かせられたことは、未だかつて無いけれど……。 |
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