美しい足 |
午後の仕事も一段落ついて少しだけ暇になった頃、呉質は部屋の中を見回して溜息をついた。 この部屋には潤いがない。 四角四面な執務室である。仏頂面の同僚と、ただ整然と並べられている木簡の山。呉質はもう一度溜息をついた。 この部屋には潤いがない……。 呉質は卓に手をついて勢いよく立ち上がると、驚き顔の同僚を残して部屋を出た。 潤いを求めて。 潤いのある場所ならばよく知っている。呉質はその場所の前に立つと、頬に笑みを浮かべて扉をノックした。 「開いてるぞ」 中からは素っ気ない、どこか心在らずな返事が返ってきた。呉質は恭しく扉を開け、室の中に入った。 曹丕は執務室の机の前で椅子に片足を乗せ、足の爪を削っていた。立てられた片膝が何と扇情的であることか。 「子桓様」 「今爪を削っているから、少し待っていろ」 こちらを見ようともしないいつも通りに冷たい主が、呉質にとってはこの世で一番麗しい花である。そう、例えるならば月夜に泉の中に咲く、凍った花のような。 言われた通りおとなしく部屋の隅で主の様子を見つめていると、主は眉をしかめて小さく呻いた。 「どうしました?」 「何でもない」 何でもない顔ではない。片目を瞑りながら、曹丕は左手の親指を口に含んで、その指をそっと足の爪先に運んだ。 「切られたのですか?」 「構うな」 にべもない返事だが、それにひるんでいる場合ではない。机の脇に駆け寄ると、呉質は片膝をついて曹丕の足をおしいだいた。 「触るな! 少し深く削っただけだ!」 曹丕が嫌そうに身を捩ろうとするのをかまわず、呉質は傷ついた足を両手でしっかりと包んだ。 ほっそりとした形の良い足の甲には、薄く血管が透けて見えた。長い足の指。桜貝の爪。その爪の一枚が、無惨にも縦に裂け、血が滲んでいる。 呉質はその足に魅せられた、赤い指先はきっとずきずきと疼いているに違いない。 美しい足。 呉質はなんの躊躇いもなく、その指を口に含んだ。 「な…!」 曹丕はこの無礼な臣下の行動に、即座に身を強張らせた。 「何をする! やめないか!!」 「痛まれるのでしょう? お可哀相に……」 傷ついた指先を舐め、丹念に口に含む。つるりとそれは呉質の舌に包まれた。微かに、鉄の味がする。 子桓様の血だ。 子桓様の中を流れる赤い血液。 呉質は無我夢中だった。焦がれるほど愛しい主の足を口に含み、その血を吸っていると思うと、忘我の極みを覚えた。 「やめろ!」 肩に痛みを覚えた。曹丕のもう片方の足が、肩を蹴りつけたようだ。 曹丕の顔が、心なしか青醒めていた。 何故? 何故この人はこんなに震え、怯えた目で自分を見るのだ? それがどれほど男の心に嗜虐の情を煽るのか、分かっていないのか? あぁ、きっと子桓様は誰かにこうされたことがあるに違いない。誰かに足の指を含ませ、その快楽を味わったことが。 呉質は曹丕の体を蹂躙する影を思った。その影は想像以上に呉質を昴ぶらせる。 「子桓様」 自分の声が上擦っている。主がその声に、椅子の上で後じさるのを感じた。 だが呉質は、寸での所で重要なことを思い出した。そう、この潔癖な主を怯えさせてはいけない。例えその潔癖さが誰かに植えつけられた恐怖から来るものだとしても、今これ以上主を怯えさせれば、自分が得るものが何であるのか目に見えているではないか。 だが、今目の前には何物にも代え難い愛しい主の足がある。どうしたら良い? この足だけでも手に入れるためには? 「子桓様、私が幼少の頃、怪我をするとこうして父が傷を舐めてくれました」 「……父親が?」 曹丕が軽く目を見開いた。 「はい。そうされると、不思議と痛みが退いたものです。ですから子桓様の足の痛みが少しでも和らげば、と。……私は何かおかしな事を致しましたか?」 呉質は曹丕の弱みをよく心得ていた。泣き所、といっても良い。 曹丕は父親との繋がりが薄いという、この城下の者ならば誰でも知っているような事実を、人に指摘されることを畏れていた。いいや、指摘されることを、ではない。人の口からそれを聞き、思い知らされることを畏れているのだ。自分は父親から愛されていると。そんな小さな幻想を抱いていたいのだろう。 なんて哀れで愛らしい子桓様。 曹丕は困惑したように眉を寄せた。本当に父親というものが子供の傷口を口にするものなのか、曹丕は知らない。 そういえば、犬や馬の仔の傷を、その親が舐めているところなら見たことがある。畜生ですら子の傷を舐めるのだ。人の親が舐めてもおかしくはないだろう。 「……だが、お前は俺の父上ではない」 「勿論私が閣下の変わりになるものではありませんが、ですが子桓様の痛みを和らげたいのです」 「そんなに痛むわけではない」 「指先の傷は痛むものですよ」 「俺が平気だと言っているのだ!」 「いいえ、子桓様」 呉質は再び曹丕の足を抱いた。曹丕のふくらはぎが緊張の為か固く張っている。 「遠慮しておられるのですね? それとも、……恐ろしいのですか?」 「何故俺が恐ろしいなどと思わねばならん」 「足を、ほら、この様に……」 呉質の指が裳の裾に忍び込み、ゆっくりと曹丕の脚線をなぞった。信じられない、という目で曹丕が自分を見つめている。呉質は曹丕が正気に戻る前に、形の良い耳に唇を触れんばかりにして囁いた。 「強張らせております故」 曹丕の頬が白い。あまりのことの成り行きに、きっと頭の中もこれと同じほど白くなっているのだろう。 「お父上が傷を癒していると思えば宜しいではありませんか」 父上という言葉に、ほんの僅かだけ曹丕の頬が動いた。本当にこの方は分かり易い。 もっとも、他の者にとってもこの方が分かり易いとは、とても思えないけれど……。 夢の中にでもいるように、曹丕は微かに目を細めた。その瞼の裏で、きっと自分は今曹操にすり替わっている。 父親の代わりであっても構わない。この人の全てが手に入るなどと、大それた事を考えたことはないのだから。 だからこそ、呉質は曹丕の美しい足が欲しかった。この片足だけで良い。それすら贅沢だというのなら、この傷ついた指だけでも。 呉質もゆっくりと目を閉じ、再び跪いて傷口を唇に含んだ。 頼りないほど細く小さな指。主の体はこれほど小さな指先すらも敏感に出来ているようだった。呉質の舌にあわせて、小さく裳が揺れている。 もっと揺れさせてみたい。例え誰かが既にこの快楽を教え込んだのだとしても、それでも自分の舌で主が震える様を見てみたい。 指先の付け根を舌でくすぐると、椅子の端を主の手がきつく掴んだ。堪らず、呉質はその付け根に歯を立てた。 「ふっ」 珠を転がすように、小さく漏らされた声。 その瞬間、呉質の背筋に貫かれたような閃光が走った。何という声! 見上げれば、主の目には微かに涙が滲んでいる。 「子…」 腕を伸ばしかけた、その瞬間だった。 「何をやっている!!」 扉が荒々しく開かれ、怒髪天をついた形相の司馬懿がそこに立っていた。 「…仲達…」 まだ夢から醒めきれずに、曹丕がぼんやりと司馬懿を見つめた。それからゆっくりと、自分の足下に額ずいている呉質と、その手に包まれた自分の足を。 ふてくされたように、それでもまだ物惜しそうに、呉質は曹丕の足を手放した。 「何って、足の指を怪我なさっていらしたので舐め清めていただけですよ、仲達殿」 「貴様の舌などに舐められては、余計穢れるではないか」 「おや仲達殿、子供の頃御尊父が舐めてはくれませんでしたか?」 司馬懿が火を噴きそうな目で呉質を睨み付けた。何と卑劣な手を使う男か!! 「仲達…?」 曹丕の司馬懿を見上げる目が、雨に濡れた子犬のように頼りない。胸に入れて抱きしめ、その雨から護りたいという衝動を覚えるほどに。 だが司馬懿は抱きしめる代わりに、先ほどまで呉質が座っていた場所に跪いて、曹丕の足を調べるにとどめた。 「唾液が傷に良いなど、気休めに過ぎませんよ。親心がなせることでしょうが、重季などが相手では、気休めにすらなりません」 「……おまえの父親も、傷口を舐めたりしたのか?」 「私の父は女子供のまじないだと嗤っておりました」 「あぁ…そうなのか…」 どこかほっとしたように曹丕がつぶやいた。 ……いつも旨いところはこいつがさらっていく……。 忌々しさに口元を歪め、呉質は乱暴に礼をした。 「悪者は退散いたしますよ。失礼致します」 退室の挨拶が聞こえているのかいないのか。部屋を後にする呉質の背に、司馬懿と主の声が追いかけてきた。 「爪なら私がお切り致しますのに」 「沓が当たって気持ち悪かったのだ」 「気がつかなくて申し訳ありませんでした」 「自分の爪くらい自分で切れるぞ。……莫迦にして」 あぁ本当に腹の立つ。 ……だがあの様子から見て、主にあのような歓びを教え込んだのは司馬懿ではなさそうだ。当たり前だ。あの男にそんな度胸があるものか。 そんな度胸。 勿論自分だって持ち合わせている筈がない。呉質は曹植派から鞍替えしてきた新参者として危うい立場にある。一度裏切った男は何度でも裏切ると、まるで自分を呂奉先のように罵る者までいる。この自分が主に無体を働くなど……。 いいや、それ以前に呉質は恐ろしいのだ。あの主はどのように人を憎むのか。父親である曹操のように激しく憎んでくれるのならば良い。あの人がこの私を八つ裂きにしてくれるのならば、それはそれで素晴らしい死に方といえるだろう。 だが冷たく憎まれたとしたら。 存在も認めないかのように、目の前に立つ自分を忘れ去るとしたら。あの主ならば、その冷たさを完璧に着こなすだろう。 呉質はそれが恐ろしかった。 「まぁわたしはあの素晴らしい足だけで我慢するとするけど……あの堅物の仲達殿なんかどうするんだろうね……」 あそこまで潔癖な顔をされると腹が立つ。あの男だって一皮むけばどんな欲望を隠しているのか分かったものではないというのに。 まぁ良い、所詮人ごとだ。仲達殿には自虐癖があるのだと罵って、自分を慰めておこう。 「あぁ…いやしかし…」 主が小さく漏らしたあの声が耳を離れない。細められた瞳。ふるえていた美しい脚。 いつまでこの心の映像だけで我慢できるだろうか。いっそ何一つ知らずにいた方が……。いや、それではあの堅物と同じことか……。 「参ったね……全く」 当分の間は心の隙間を見つけてあの子桓様が流れ込んでくるのだろう。本当に、いつまでそれだけで我慢できるのだろう。 「ま、あの方のことだから、またほとぼりが冷めた頃に怪我の一つもするだろうさ。あの方は意外と可愛らしいところがあるからな」 その時が狙い目だ。今度はあの野郎に見つかる前に、たっぷりと味わってやろう。呉質は喉の奥でくくっと小さく笑った。 当分は退屈すまい。自分にはあの脚がある。 「いつか思う存分に、楽しませてもらいますよ」 呉質はもう一度小さく笑った。 口の中に、微かに鉄の味がしたような気がした。 |
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