陸遜の受難 |
孫権は酒が好きだ。酒は旨いし、楽しい気分にさせてくれる。酒と一緒に食べると同じ物でも旨く食べれるような気もする。 酒を一緒に呑んでくれる人も大好きだ。自分は相当酒癖が悪いが、そんな自分と一緒に酒を呑んでくれるというだけで、そいつのことが好きになる。 だが普段は大好きな奴でも、酒が飲めないというと、それだけで何だかその人の魅力が半減してしまうようで、それが孫権にはつまらない。いやもちろん人の価値はそんな物では決まらない。それは分かっているのだが、孫権の中では「酒が飲めない」ということはその人の「大切さ」が格段に落ちるということなのだ。 だから孫権は呑めない奴を捕まえては「酒の指南をしてやる!」とかなりはた迷惑なことを平気でやらかす。本人はそれがどれほど迷惑なことが分かっていないのだからタチが悪い。しかもこの男は東呉の君主である。酔っぱらいの君主。最悪である。 「ですが主公、私は今日はちょっと片づけなければいけない仕事がありまして……!」 「そんなことを言ってお前、逃げる気だな!」 今日の犠牲者は陸遜である。陸遜、字を伯言。孫権にとっては亡き兄遜策の娘婿であるから、身内の一人である。 孫権はそのことを抜きにしても、陸遜をかなり気に入っている。 まず見た目が可愛い。自分の見てくれを棚に上げて、孫権は陸遜と凌統を密かに「東呉の可愛い子ちゃん双璧」と呼んでいる。凌統は活きの良い可愛い子ちゃんで、陸遜はおとなしい可愛い子ちゃんだ。 やはり可愛い子ちゃんは良い。孫権の本命はごつくてやくざな周泰だが、それでもやはり可愛い子ちゃんは良い。いかつい男やカッコイイ男、美しい男は周りにいくらでもいるので、これにはもう食傷気味だ。第一こいつらが酒を飲めても当たり前でつまらない。 やはり時代は「可愛い子ちゃんが呑めなさそうな酒を呑む」。これである。 双璧の片方、凌統は「呑めなさそうなのに」「必死で」「負けじと」酒を呑み、案の定すぐに出来上がってしまい、甘寧辺りにクダを巻く。終いにうるさくなった甘寧が凌統を肩に担いで庭に捨ててきてしまうのだが、そんな場面を見ると孫権は血が沸き立つのを覚えるのだ。 これだこれだ! やはり酒の醍醐味はこれだ!!! クダを巻く陸遜とか陽気になって歌い出し踊り出す陸遜とか説教をしまくる陸遜とか、そういう普段の陸遜からは想像もつかないような陸遜が見たいのだ!!! 「ほら伯言、行くぞ!」 「待って下さい! 本当に私は今日中に書状を仕上げないと、子敬殿に怒られるんです!!」 「そんなの儂の方から子敬に言ってやるから、いいから来い!」 「でもでもでも」 「いいからぁ!! 儂と一緒に呑むのが嫌と言うのか!?」 「そんな事はありませんが、でもあのその」 「分かった!」 孫権がぽんと膝を打つ。 「それなら子敬も誘うから!」 「えぇえ!!?!?」 「子敬に子明も付けよう!! これで都督府は押さえたも同然! これなら伯言も怖い物なしだ!!!」 「そんな!!!」 「ん〜でもこれだと愉快度が足りないな〜。子敬も子明もそこそこ呑むけど、どっちかってーと静かな酒だしな〜」 「静かな方が良いです!!」 「馬鹿者!! 酒は愉快に呑むものだ!!!」 まだ一口も酒を入れていないのに、すでに孫権は出来上がっている。何故すぐにこの男はナチュラルハイになる!??!? 陸遜は今からもう泣きそうである。 「よしゃよしゃおい、誰か子敬と子明を連れてきてくれ。ああそうだな、あとそこらにいる奴ら2、3人見繕って引っ張って来い」 見繕ってと言われても酒のつまみじゃあるまいに、頼まれた方も良い迷惑である。とにかく主公の言うことだ、聞くしかあるまい。 陸遜だって、本当は今日家に予定があるのだ。予定というほどのことではないが、妻である孫公主が今日は出がけに綺麗な花を髪に挿していたので、これはきっと夜二人でゆっくりしたいなという合図かな?と浮かれて登城してきたのだ。 孫公主は孫権と血の繋がりがあるとは思えないくらいたおやかでおとなしく、陸遜は彼女にべた惚れだ。今夜はその彼女と二人でゆっくり呑めない酒でも舐めながらラブラブしようかな、という計画だったのだ。 それが何故こんな所で無理矢理な酒を呑まないといけないのだ!!! 事態は陸遜の意志とは全く無関係にどんどん進んでいき、あれよあれよという間に小さな宴の席が整えられていった。 本当に荊州問題で目も回るほど忙しい筈の大都督・魯粛と、その手伝いに走り回っている呂蒙が引っ張ってこられていた。二人ともやはり泣きそうな目をしている。 「他にその辺の人」ということで、多分気を利かせたのだろう、孫権の大本命・周泰とその賊仲間の蒋欽も見繕われている。 「どうしたんですか、今日は、あの……」 魯粛が涙目で陸遜に訊く。陸遜の方が泣きたかった。 というより、この場で上機嫌なのは孫権ただ一人である。 「さ、無礼講だぞ! 呑め呑め!!」 しかもその場には陸遜の他に4人も餌食がいるのに、当然孫権の狙いは陸遜だ。 「いいか、伯言! 酒というのは鍛錬だ! 酒は呑むほど強くなるのだ! 毎日少しずつでいいから呑んでいれば、いつか儂のようにごんごん呑めるようになるのだ!!!」 ……そんな思いまでして呑みたくない……というのが正直なところである。だが酒はとくとくと杯にたっぷりとつがれている……。 「さぁ、何か面白い話でもしながら陽気にやるぞ!!」 「陽気にと言われましても……」 「あの主公、今度の荊州のことで……」 「馬鹿者!! 仕事の話をする奴があるかぁ!!!」 仕方がないからとりあえず杯を手に取り、ぺろりと舐めてみる。苦い。嫌そうに顔を離すと、孫権に睨まれた。 「鼻抓んで一気に呑んじゃったらいいよ」 こっそり呂蒙が教えてくれるがそれも乱暴な話である。呂蒙は呑めるからそんな事が言えるのだ。この発言は胃の中に入った酒が吸収された後のことを考えていない。 とりあえず周泰と蒋欽が必死に盛り上げようと頑張っている。 ええいままよと杯を取り上げると、陸遜は一気に酒をあおった。 「おお! 伯言!!」 嬉しそうに孫権が声を上げ、残りの四人はハラハラと陸遜を見守った。 喉が熱い。酒が今どこを通っているのかはっきりと分かる。息が詰まる。こんな物が旨いなんて言う主公が信じられない。 一気に飲み干すと、陸遜は大きく肩で息をした。 「よしよし陸遜、やれば出来るじゃないか!!」 孫権は満足そうに酒をつぎ足し、魯粛が気を回して酒と同じ色をしたお茶を(この当時の酒は茶色い)他の杯についでくれた。 「伯言殿、油物を胃に入れた方が良いですよ」 「さ、伯言、これを呑むと良い」 耳がガンガンして、あれこれ気遣ってくれる声が遠くに聞こえる。 「伯言? おい、伯言?」 「ちょ…おい!??!? あれだけの酒で、嘘だろう!??!?」 頭と言わず目と言わず、足と言わず床と言わず、世の中全てが回っている。周りで囁く人の声も。 そして、陸遜は気を失った。 目を開けると、ずいぶんと天井が高い。寝台は贅沢に絹と綿を使っているらしく、ふかふかとしてすべすべとしてとても良い気持ちだ。 ……良い気持ち? まさか! 頭が金槌で割られるように痛いのに!!! 「お、気がついたか、伯言?」 すぐ耳元で声がする。慌てて声の方角に目をやると、呉主孫権が白い寝間着姿で自分の隣に横たわっていた。 どうやら自分は情けなく伸びてしまっただけでなく、主公の寝台を占拠しているらしい……。 「しゅしゅ主公!!」 「大丈夫! 何もしてないから!」 「何もって何がですか!??!?」 自分で出した声で頭が痛くなり、涙が出てきた。 「あ、すまんすまん。小さい声で話そうな」 孫権は自分が無理に酒を呑ませたせいで具合が悪くなったことを気にしているのだろう。布団をかけ直したり、額に濡れた手ぬぐいをかけたりとサービスに余念がない。 ……その嬉しそうな顔が、看病を楽しんでいるように見えなくもないのだが……。 「主公にこの様なご迷惑をおかけするわけには……」 「いいから寝てろって。家にはここに泊まるって連絡を入れさせておいたから」 「ありがとうございます」 だが陸遜は孫公主が伯父の手癖の悪さについて、陸遜の知らないことまでよく知っているという事実を知らない。男だろうと女だろうと手当たり次第だということを……。 「儂もお前がここまで呑めないとは知らなかったから、つい無理をさせてしまった。本当にすまないと思っている」 「主公……」 「さ、後のことは心配しないで寝なさい」 「はい」 ほっとして陸孫も弱々しく笑い返す。 ああ、とにかくもう一度寝て、起きたら気をしっかりとさせなくては。それから宿題になっている書状を作って、自分のせいで子敬殿達の仕事も遅れてしまったのだから、そのお詫びとお手伝いもして……。 頭の中で忙しく段取りを作っていると、だんだん瞼が重たくなっていく。 主が取り替えてくれる手ぬぐいの冷たさが気持ちよくて、陸遜は再び眠りに落ちていった。 翌朝、重い頭を無理になだめて朝議に参列していると、後ろから呂蒙が声をかけてきた。 「伯言、大丈夫だった?」 「あ、子明殿。昨日はとんだ醜態をお見せして……」 「……伯言、昨日じゃないよ……」 「は?」 呂蒙が少し言いづらそうに笑い、そっと訂正する。 「おとといなんだ。君は昨日、丸1日目が醒めなかったらしくて、主公も大分心配してらしたんだよ」 「え?」 瞬時に顔が朱くなる。丸1日? 丸1日も寝ていたのか? 自分は主公の寝室で、丸1日ずっと昏々と? 別の意味で頭が痛くなってきた。 辺りを窺うと、皆一様にニヤニヤと笑っているような気がする。何故自分が昨日登城しなかったのか、知っているに違いない。 「休んでいて良いよ。朝議の内容は、後で教えてあげるから」 「いえ、大丈夫です」 「本当? じゃあ辛かったらすぐ言ってよ」 「いえ本当に」 恐縮する陸遜に、呂蒙は小さくウィンクして見せた。 「俺も昔はよくああやって呑まされてね。二日酔いのつらさは身にしみてるんだ」 「子明殿も?」 「うん、そう」 年季が違うから、今じゃ大分呑めるようになったけどねと人の良い顔で呂蒙が笑う。その笑顔に、何だかすごくほっとする。 ならば自分もそのうち本当に呑めるようになるのだろうか。呂蒙の優しい顔を見ていると、本当に呑める気になるから不思議だ。 実は呂蒙が「ああやって呑まされていた」のは十代も半ばの頃で、しかも強要されていたのは「大杯による白杯」なのだが、こういうことは言わぬが花である。 何とか朝議を終えて戻ろうとすると、孫権が陸遜を呼び止めた。 「伯言、本当に大丈夫だったのか? 休んでいて良かったのに」 「いえ……」 孫権はさもすまなさそうな顔をしている。 「儂も本当に反省しているんだ。お前があんなに呑めないとは思わなかったから」 「主公……」 朝からずっと、孫権は同じ事を謝りっぱなしである。酒さえ抜ければ、孫権は臣下思いの良い君主なのだ。 「それで儂も色々考えたんだけど、やっぱりお前の場合、酒を少し薄めるところから始めたらいいと思うんだ」 「は?」 「それでちょっとずつ濃くしていけば、自然に呑めるようになるんじゃないかな」 「え?」 「それと少し調べたんだけど、酒を入れる前に、先に油物を食べておくと言いらしいんだ」 「……はぁ」 「だから伯言」 孫権はとても真剣な目で陸遜を見つめ、その肩に手を置いた。 「明日くらいからゆっくり始めよう」 「は!!?!?!?」 「儂もせっかちでいけなかった。本当にすまなかったと思っている。……な?」 ……酒が抜けていれば、というのは気のせいだったのか……。いや、彼なりに臣下思いなのかもしれない……。だが、もう少し他人の物差しで物を測ってくれても……。 「あ、それと伯言!」 孫権がニコニコと、微妙に頬を染めて陸遜の顔をのぞき込む。陸遜の背に嫌な予感が走った。 「お前って、可愛い顔して結構良い体をしているな」 「は?」 「……今度、そっちの方もどうだ?」 「そそそっちって!??!?」 「言っとくが、儂は巧いぞ?」 にやりと笑うなり、孫権は陸遜の耳の下に素早く唇で触れ、呆然と見送る陸遜を一人残してその場を離れた。 広い朝見の間に、陸遜は一人立ちつくす。 ……陸遜の受難は今始まったばかりである……。 |
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