2000回のキス |
甘寧はキスが好きだ。 と言っても、初めから好きだったわけではない。キスなんかしたら子供が出来ると未だに本気で信じているから、セックスは500万回以上したことがあるけど、キスはまだ2000回くらいしかしたことがない。 2000回のキスは、全て呂蒙がしてくれた。 初めてキスをしたのも呂蒙だったし、キスをするときは口を少しずらして息をすればいいとか、キスは唇を合わせるだけのものではなくて、口の中や舌や歯を愛撫するものなんだとか、歯茎の裏側を舐められると結構感じることとか、教えてくれたのも呂蒙だった。 甘寧はキスが好きだ。初めてキスをしてから、全てのキスを呂蒙としている、というのも密かに気に入っていた。 でもこれは、きっと一生呂蒙には教えない。そんな恥ずかしいこと、口が曲がっても言えるはずがない。 呂蒙の唇が目の前にある。呂蒙はさっきから楽しそうに明日の戦の話をしている。こんなに優しい顔をしているのに、自分の子供の話をするのと同じ顔で戦の話が出来る呂蒙は、堪らなくセクシーだ。俺のことを話すときも、同じ顔で話してくれるのだろうか。 甘寧が呂蒙の顔を見上げているのに気づいて、呂蒙は口を閉じた。 「何?」 「ん? いや、もっと話せよ」 「何だよ。俺の顔、どっか変?」 「いや。もっと喋れってば」 「何でだよ」 「喋ってるの、聞きたいんだよ」 動いている呂蒙の唇を見ていると、自分の唇の上に、その感触が甦ってくる。 甘寧に唇の快楽を教えてくれた唇だ。甘寧の唇に、唇の快楽を与える唯一の唇。他人の唇には何の興味もないが、甘寧にとって呂蒙の唇は特別な唇だから、だからいつまでもその動きを見ていたかった。 「興覇、今別のこと考えてるだろう。もー、明日の戦の話だぞ」 「分かってます、都督殿。ですから末将は先を続けて下さいと申し上げているのです」 「も〜! やっぱり聞いてないじゃないかぁ!」 「聞いてるって。明日の話だろ? あの張遼が出るんだろう? 聞いてるから話せって」 「だって興覇、人の話聞いてる顔してないよ! さっきから何見てるんだよ」 「口」 「口?」 「言葉は口から出て来るんだから、口」 まじめに言ったつもりだったが、どうやら呂蒙には甘寧が何を考えていたのか分かってしまったらしい。即座に赤くなると、「今そういう話は……」と小さく口にした。 せっかく口を開いても、顔を反らしてしまっては意味がない。せっかくの唇が見えないじゃないか。 「もっと話せよ、子明」 「……いや」 「話せよ」 呂蒙の唇を見たくて、甘寧は呂蒙の目の前に立った。鼻がつきそうな程の距離で、もう顔を反らせないように、顔を反らせても覗き込めるように、胸と胸を密着させる。 「……興覇、明日は戦だよ」 「知ってる」 「……興覇」 呂蒙の唇から、甘い息が漏れる。この唇が、キスをするときどんな唇になるのか、思い出してぞくぞくする。 「興覇、……誘ってるの?」 「唇が見たいんだ」 「……視姦されてる気がする……」 「何でもいいから、もっと話せよ」 「何でもいいって、やっぱり俺の話、聞いてなかったんじゃないか」 「お前だって戦の話のくせに、ヤケに嬉しそうに話てたじゃないか」 「それは……興覇と二人きりだから……」 「もっと話せよ」 「……」 「話せってば…」 キスが欲しいんじゃなくて、キスをくれる唇が欲しい。呂蒙の唇。何よりも愛しい。 赤くなって困っていた呂蒙が、いきなり甘寧の腰に手を回すと、唇を合わせてきた。 「…ん! 子明、明日戦だぞ!」 驚いて離れようと甘寧が身もだえるが、呂蒙は甘寧の後頭部に手を回し、逃げられないようにしっかり押さえ込むと、甘寧の唇を舌でこじ開けた。食べられるのではないか、という勢いだ。 「しめ…、ちょっ」 「誘ったの、興覇だからな!」 口づけは深くて荒々しく、ひどく熱っぽかった。呂蒙の唇。目眩がする。 まだ小さい頃の話だ。大哥が女の人と唇を合わせていた。よく見るとそれは嫁いできたばかりの大嫂で、甘寧は「大哥が大嫂を食べている」とびっくりして泣きそうになった。 気配を感じたのだろう。大哥が暗がりで怯えている甘寧を見つけて、照れくさそうに笑った。 『阿寧、そんなところでどうしたんだ?』 『食べちゃうの?』 『食べちゃう?』 兄は新妻と不思議そうに向かいあってから、声を立てて笑った。 2人の間に子供が出来たのは、その少し後だった。お腹が大きくなっていくのが不思議で、甘寧は大嫂の後をついて回った。 『どうしてお腹が大きくなるの?』 『赤ちゃんが入っているからよ』 『どうして赤ちゃんが入ってるの?』 『あなたのお兄ちゃんがくれたからよ』 どうやって赤ちゃんをもらったのかは、聞かなくても分かった。大哥はあの時、口から赤ちゃんをあげていたのだ。 それ以来、今でも甘寧はキスをすると子供が出来ると信じている。 あまりの気持ち良さに、甘寧はうっとりと瞳を閉じた。頭がぼうっとして、明日、魏の張遼が出陣することも綺麗に忘れてしまう。 どうしてこんなに気持ち良いんだろう。体を合わせることに何の意味も見いだせない甘寧だが、唇を合わせることはやっぱり特別なんだと思う。だって、キスをすれば子供が出来る。特別な人としかキス出来ないのは当然だ。 足から力が抜けていき、呂蒙が抱きしめてくれなければ、倒れてしまいそうになる。抱きしめてくれる呂蒙の頼もしい腕から、電流が流れているみたいだ。体中がドキドキして、震えている。今もし指の一本でも噛まれたら、きっとそのまま達ってしまうだろう。 「阿寧、良い?」 呂蒙が唇を外して、耳に唇を寄せた。手が袍の合わせに滑り込んでくる。だが甘寧はその手を邪険に払いのけた。 「阿寧?」 「キスだけでいいだろ」 呂蒙はどうでもその気になってしまったようだが、甘寧は今セックスするなんて興醒めも良いところだと思った。こんなに気持ち良いのに。誰よりも近いところにいるのに。セックスなんて、そんなどうでも良いことをしたがる呂蒙はちょっとひどいと思う。 させろさせないの押し合いで、もつれ合った2人は甘寧を下にして地面に転がってしまった。呂蒙の体重が自分に全てかかってくる。程良い重みだ。 「うわっ、興覇、大丈夫!? ごめん!!」 慌てて興覇の上からどこうとする呂蒙を抱きしめて、「許して欲しかったら、今日は100万回キスしろ」と脅迫する。 「そんなにキスしたら、唇がたらこみたいになっちゃうよ」 「たらこになったら俺が焼いて喰ってやる」 「もう、何でそんなにキスが好きかなぁ」 「子明、キス巧いじゃん」 甘寧は呂蒙の胸ぐらを掴んで引き寄せ、軽く唇を合わせた。そのキスを呼び水に、呂蒙が深いキスをくれる。あんまり深いキスで、口の端から唾液がこぼれてしまったが、呂蒙は気がついたんだか気がついていないんだか頬をこねくり回しながら、さりげなく拭き取ってしまった。 やっと呂蒙の顔が甘寧の上から離れたと思うと、呂蒙は甘寧が頬を赤くして陶酔していることに気がついて、頬に小さくキスをしてから胸元に抱き寄せた。 「なにが『子明、キス巧いじゃん』だよ。他の人がどんなキスするかなんて、知らないくせに」 ……え? 驚いて呂蒙の顔を見ると、呂蒙は子供をあやすように甘寧の頬をぐりぐりと撫でまわしながら、「この状況でお預け喰らっても耐えようとする俺って、ホント、阿寧のこと愛してるよねぇ……」と溜息を吐いた。 「……何で俺が他の奴のキス……」 知らないなんて知ってるんだ、という続きは飲み込んだ。やっぱり呂蒙としかキスしたことがないなんて、まるで自分がすごく純情な人間のようで恥ずかしいから、どうしても口には出せない。 「ん?」 「いや、だから俺がキス……」 「ん? 何?」 「だから……」 赤くなるのは今度は甘寧の番だ。さっきの呂蒙よりももっと必死に目を反らしながら、それでも何で今まで秘密にしていた事を呂蒙が知っているのか聞きだしたがった。 「ん? それとも阿寧は、俺以外の奴の子供を作るつもりだったのかな?」 「そんな事……」 「ならやっぱり他の人がどんなキスするのか、知らないんでしょ?」 「……」 完全に目を伏せてしまった甘寧は、今呂蒙がどれだけ嬉しそうに、そのくせ意地悪く、ニヤニヤと笑っているのか知らない。 呂蒙は笑いながら、甘寧の頭を軽くはたいた。 「全く、こんなに沢山キスしてるのに、何で阿寧には子供が出来ないのかなぁ」 「だから、きっとそれは俺が男だから、100万回くらいキスしないと子供出来ないんだよ」 「そっか。じゃあ、やっぱり今日は頑張って、100万回キスしようか」 甘寧の顎を掴んで顔を上げさせると、赤い顔をした甘寧は、それでも小さく頷いた。 目が醒めると、外は突き抜けるような晴天で、目が痛む程だった。 「うわぁ、眩しい……」 呂蒙の声に、甘寧は身じろぎして寝返りを打った。 「ほら、興覇、起きて。戦日和だよ」 昨夜はさすがに戦の前日である。唇以上のことは、必死に理性をたぐり寄せてなんとか諦めた。甘寧はそれが嬉しかったのか、ずいぶん満足そうだった。 ひょっとしたら興覇は、俺とセックスすんの嫌いなのだろうか……。 ちょっと怖い考えになってしまった……。他の男といくらでも寝れる甘寧が、自分にはセックスよりキスをせがむというのは、男としてかなり問題だ。 「ほら、興覇」 「ん、分かった、今起きる……」 「ほら、興覇の大好きな戦だよ」 「違う……」 「何?」 寝惚けているらしい。布団の上でごろごろしながら、甘寧は手だけで袍を探している。手元に渡してやると、やっと上掛けから顔を出した。 「違う」 「だから、何が?」 「俺が好きなのは……」 そこまで言って、呂蒙を下から見上げる。甘寧が何を言おうとしているのか分からなくて、呂蒙は少し首を傾げた。 「何?」 「……何でもない」 袍を手早く着込んで、甘寧はさっさと外に出ようとしていた。髪を結わえようにも、甘寧の人の倍以上細くて柔らかい髪は自分たちでは結えないので、これは適当に括っている。 「ちょっと待ってよ、何が好きなの?」 「寝惚けてたんだよ。意味なんかあるか」 「も〜、またすぐそうやって……」 甘寧のいつもの気まぐれに振り回されないように、呂蒙がぶつぶつ言いながら自分を宥めているのを無視して、甘寧は外に出た。本当に眩しい。しかし戦日和とは言ったものだ。子明は俺に負けず劣らず、良い性格をしてやがる……。 呂蒙がとりあえず甘寧の腕を掴んだ。掴んでおかないと、甘寧はすぐにどこかに行ってしまうのだ。 「お、子明」 「なに?」 甘寧が、にやりと笑って呂蒙の耳元に顔を埋めた。 「唇、焼いて喰おうと思ってたのに、昨日のまんまじゃん」 「……も〜〜〜」 大体甘寧はさぁとぶつぶつ文句を言っている呂蒙を背に、甘寧は少しだけ幸せそうに笑った。 俺の大事な唇を、焼いて喰わずにすんで良かった。 この考えが気に入ったのか、甘寧は陣屋でも嬉しそうに笑っていた。 端から見たら悪巧みしているようにしか見えなかったけれど……。 |
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