潮様に差し上げた小説 「曹丕様の衣装」 |
「子桓様!」 曹操の宴に出席するために廊下を歩いていた曹丕は、突然司馬懿に呼び止められた。ずいぶんと大きな声だ。振り返ると、司馬懿が慌てたように走り寄って来た。 「何だ、仲達」 「何だではありません! まさかその格好のまま宴に出られるおつもりですか?」 「? 何か変か?」 曹丕は自分の着ている物に目をやった。おかしな格好でもしているのだろうか。今日一日これを着ていたが、誰にも何も言われなかったが。 「宴に出る時は宴用のちゃんとした衣装を着て下さい!」 司馬懿が曹丕の元に仕えるようになってからまだ一年。だがこういったお節介をするにかけては右に出る者がいない。 「これではちゃんとしていないというのか?」 「それは普段使いのご衣装ではないですか!」 「別に礼を欠いているほど変な服でもないだろう。どうせ暗いんだから、何を着ていたって同じだ」 「同じではありません!」 司馬懿が困ったように、だが絶対に着替えさせるぞと自分を見つめているが、そんな顔をされたって曹丕も困る。 「大体何を着ろと言うんだ。今までだって別におかしいとか言われたことはないぞ」 「……今まではそういうことに気をつける者がいなかった、というだけです」 どうも曹丕は「服に気をかける時間があるなら、他にやるべき事はいくらでもあるはずだ」と思っているらしく、実際そういったことには無頓着だ。ヘタをすると、髪が撥ねているのも気にせずに出仕していることがあって、司馬懿はいつも度肝を抜かされる。その度に注意するのだが、「俺がどんな格好をしてたって、気にする奴なんかいるものか」と相手にもしてくれない。 それは確かに髪が撥ねていようが、上衣と小衫の色が合っていなかろうが、五年前に作った古くさい柄を未だに着ていようが、誰だって子桓様の美しい顔に目を奪われてそんな些細なことまで気にはしないだろう。 だが、だからといってそんな格好ばかりさせていては絶対に良くないのだ! 曹丕の言っている意味と司馬懿の考えは似ているようで正反対なのだが、お互いそれには気づかず、なんとなく意志の疎通が成り立ってしまう辺り、良い主従関係と言えないこともないだろう……。 「何と言われても子桓様、宴でくらい極上の錦を着てください!」 「……そんなもん、急に言われてもある訳ないだろう」 曹丕がこの話は終わりとばかりに踵を返すと、すかさず司馬懿は無礼を承知でその腕を掴んで引き留めた。 「何なんだ、お前は!」 「そんなことだろうと思いまして、ちゃんと用意させてあります。さぁ」 いつの間に?という疑問を口に上らせる暇も与えないまま、司馬懿は掴んだ腕をぐいぐいと引いて、自分の執務室まで曹丕を引っ張って行った。 中に入ると、司馬懿はすぐに長持ちから畳紙に包んだ綾絹の衣装を取りだした。上品な紫紺地に、黒に近い紺の織り。地味ではあるがとても上品な、趣味の良い物だ。さすがに目だけは肥えている曹丕は、その衣装に小さく目を見張った。 「これ、お前のか?」 「は?」 司馬懿は初め、その台詞を「お前が選んだ物か?」という意味に取ったが、どうやら主は本当にこの服を司馬懿の物だと思っているらしい。 「随分高価そうだが、これを借りても良いのか?」 「……子桓様……」 「ん?」 司馬懿は大きく溜息をついた。 「何で私の服なんぞを子桓様にお貸しできるというのですか……?」 「?」 「これは子桓様の為に作らせた物です。さ、私は外に出ていますので、早く着替えて下さい」 着替えをせき立てる司馬懿に、曹丕は眉をしかめて見せた。 「主人が衣を与えるというのは聞いたことがあるが、逆は聞いたことがないぞ」 「今そんなことを言っている暇なんてありませんよ。広間で皆さんがお待ちですから、ちゃっちゃと着替えて下さい」 曹丕は不思議な物でも見るように、司馬懿を見つめた。こういう人間は、自分の周りに今までいなかった。自分がいらないと言っている物を勝手に押しつけて、しかも指図までする。自分の一挙手一投足に赤くなったり青くなったりもするくせに、こういうところはまるで譲らないのだから変な奴だ。ほら見ろ。早く着ろと、この俺を睨みつけてやがる。 しかも、この布の選び方がちょっと憎い。目に鮮やかな衣装なら、こんな派手な物が着れるかと投げ出すことも出来るが、これならちょっと着てみたいような気がして無視しづらいではないか。 「ほら子桓様!」 「分かったから大きな声を出すな。……今着るから……」 「あぁ、小衫はこっちですよ。帯は……それで大丈夫ですね。それから下裳はここにあるので……」 「……お前、一揃え用意したのか……」 「はい」 次々と長持ちから衣装を取り出す司馬懿に、曹丕はさすがに呆れてしまった。しかもさも当然といった顔をしている。これだけ揃えるのに、一体いくらかかってるんだ。そんな事を問い質せるほど曹丕は無粋ではなかったが、それでもやっぱり気になった。 「……仲達、お前、楽しいのか……?」 「はい。毎日幸せです」 どんな面でそんな阿呆な事を言っているのか拝んでやろうと振り向くと、司馬懿の目は思いっきりマジだった。 ……何なんだ、この男は……。 自分の理解の範疇からあまりにも飛び出していて、こいつはなんだか侮れない……。 しかも諦めた曹丕がさっさと帯に手をかけて服を脱ぎ始めると、先ほどまでの威勢はどこへやら、慌てて部屋から出ていってしまう当たり、やはり理解しがたい男だ。 そんなに時間がない時間が無いというのなら、着替えの手伝い位すれば良さそうなものなのに。 そんな事させたらどんな事になっちゃうかまるで分かっていない曹丕は、一人司馬懿の執務室の中、手だけを忙しく動かしながら、頭を捻っていた。 宴には結局少し遅れて参加した。こっそり入ったつもりだったが目敏く曹操に見つけられ、しかも珍しくつかまってしまった。 「お、子桓」 曹丕は即座に拝手の礼をしようとしたが、曹操は「たった今、無礼講と言ったばかりだ」と挙げかけた手を軽く制し、遅れてきた息子を上から下までじっくりと眺めた。 「どうした子桓。とうとう色気づいたか」 「……は?」 曹丕がどう答えたものかと戸惑っていると、どこから現れたのか、弟の曹植が意味ありげに曹丕を見てから、笑顔で父に応えた。 「本当に。兄上、今日の衣装はどなたの趣味ですか? 兄上の冴えたお顔にとても映えていらっしゃいますよ」 曹植の言葉は父の思惑に的中したらしく、曹操は満足そうに頷いた。 「お前もそろそろその位の格好をしても良い頃だな。うむ」 それだけ言うと、曹操は「主公」と呼ぶ声に誘われるように、その場を離れた。 どうやらこの衣装、曹操の意には叶っているらしい。これは司馬懿に礼を言うべきなのだろうか……? 曹丕は何か言いたげな曹植をその場に残し、司馬懿の控えている部屋の片隅に寄った。 司馬懿はそこから事の成り行きを眺めていたのだろう。曹丕と目が合うと、微笑みを浮かべて頷いて見せた。 「仲達、お前、服をの整えるのが楽しいって言っていたな?」 「幸せだと言ったのですよ」 「似たようなものだ」 「子桓様がずぼらにしていらっしゃるご様子を拝見するよりは、そうした姿を拝見している方が幸せなんです」 曹丕はふぅん、と頼りないような声で返事をすると、少し考えるようにしてから、「今父上からお褒めの言葉を頂いた」と、遠回しに礼を言った。 「はい。ありがとうございます」 「仲達」 「はい」 満足そうな司馬懿に、曹丕は小さく顎をしゃくった。 「次から、費用は俺につけておけ」 「は…?」 ぽかんと曹丕を見つめた司馬懿は、だがすぐに顔の全てを笑顔にした。 「はい。次からは私が全て、ご用意いたしますから」 それ以来、曹丕の服は全て司馬懿が用意しているとかいないとか。とりあえず、曹丕の衣装が見違えるほど洗練された事だけは間違いない……。 潮様のHP「裏我楽多」(現在は「花天月地」に模様替えしました)の小説投稿フォームになんとしても一番乗りに小説を投稿したい!と、自分のとこのHP用に書いていた小説を投稿させて頂いたものです。 |