潮様に差し上げた小説

「あなたがいるということ」





 その日は朝から晴れ渡り、まるで司馬懿の気持ちを表しているかのような気持ちの良い日だった。何と素晴らしい日だろう。今日という日にふさわしい。いや、きっと今日が何の日であるのか、天帝もご存じなのに違いない。
 どれほど沢山の書類が回されようと、司馬懿はまるで気にならなかった。きっと漢帝国全ての書類を回されても、今日の司馬懿なら上機嫌で片づけてしまうだろう。

「……一体どうかしたのか?」
 恐ろしいほどの上機嫌に、主である曹丕は不審げである。
「あ、これは子桓様」
 司馬懿は曹丕の姿を認めると、「恐ろしいほどの上機嫌」な顔を更に崩して体全体で微笑んだ。
「……気持ち悪いぞ、仲達……。何かあったのか?」
「何かあったというわけではありませんが」
 司馬懿は心の底から嬉しそうだ。自分の前にいるときはいつでも上機嫌な司馬懿だが、ここまで上機嫌な司馬懿を見るのは初めてかもしれない。
 ……? いや、初めてではないぞ? そういえば、毎年この時期になると仲達は頭が抜けているのではないか、というほど上機嫌になる……。
「仲達、何でこの時期になるとお前の頭はねじが緩むのだ? 底でも抜けるのか……?」
 曹丕のひどい台詞にも、言葉の内容にまで頭が回っていないのか、司馬懿は「何でもありません」と相変わらず笑顔を崩さずにいた。
「ところで子桓様、今日よろしければ夕餉を私の家で召し上がってはいただけませんか?」
「夕餉を? あぁ、駄目だ。これから元譲の叔父上達に遠乗りに行こうと誘われているから、きっと夕餉は叔父上達と……」
 言いかけて曹丕は口をつぐんだ。
 司馬懿の顔がすごいことになっている……。

「仲達、いったい何なんだ。さっきまではねじが緩んだような顔をしていたくせに、夕餉に呼ばれないと言ったくらいでこの世が終わりそうな顔をするな」
「ですが子桓様……」
「だから何なんだ。理由によっては、早めに切り上げて帰ってきても良いぞ?」
 曹丕が早く理由を言って見ろと顎で促す。司馬懿はそんな主の優雅な様子に目を奪われたように突っ立っていたが、だんだん曹丕の顔が我慢の限界になってきたのを見て取ると、慌てて叫んだ。
「言えないような理由ではないです!!!」
「大きな声を出すな……」
「いえあの、す、すいません……」
 赤くなってしまった司馬懿を、曹丕が下から見上げる。上目遣いの表情が、さらってしまいたいほど愛らしい。
「あの、」
「ん?」
「今日は子桓様がお生まれになった日だと……」
「あぁ? そうだったか?」
 そんな事をよく覚えているなと曹丕が小首を傾げる。
「……まさか仲達、そんな理由で機嫌が良くなったり夕餉を食べろと言ったりしているのか?」
 年の始めに歳が増えていく習わしになっているこの時代に、誕生日を祝う習慣などまだ出来ていない。だからといって曹丕が自分のことにここまで無頓着であることが、司馬懿には切なかった。そのことを思い知らされてしまうとやりきれなくなるので、今まで1度も口にしたことはなかったが、やはり完全に忘れていたのか……。

「『そんな理由』ではありません」
「じゃあどんな理由なんだ?」
「いえ、子桓様の生まれた日だから夕餉を一緒に食べたかったのは本当です」
「? だから、なんで俺が生まれた日だとそんなに機嫌が良くなったり夕餉を一緒に食べたりするんだ?」
「……子桓様」
「なんだ?」
 司馬懿は重い溜息をついた。

 曹丕が自分のことに無頓着なのは昔からだ。出会ったときにはもうそんな人だったから、今更司馬懿も驚くつもりはない。
 曹丕が自分に対して無頓着であるのは、自分に関心がないからだ。自分の行う行為や周囲の人間が自分を何と見るかに対しては驚くほど鋭敏であるのに、自分自身のことになると驚くほど無関心で、そんな曹丕が司馬懿には痛々しかった。
 きっと何故自分がこれほど曹丕の生まれた日が嬉しいのか、この人には決して伝わらないだろう。こんなにも素晴らしい日なのに。曹丕がこの世に生を受けた、記念すべき日なのに。

「……子桓様。私は子桓様がここにいて下さって、本当に嬉しいのです」
「?」
「子桓様と同じ時代に生まれたことを感謝しています」
 不思議そうに自分を見上げる曹丕の腕を、司馬懿は「失礼します」と断って、そっと握った。
「あなたが生まれてきて下さったこの日に私は感謝しています。あなたを産みまいらせたお母上にも、あなたに生を与えて下さった主公にも、あなたの体の中にあなたという魂をお与え下さった天帝にも、私は感謝してやまないのです」
「……仲達」
 司馬懿の顔は真剣だった。曹丕が茶化して雰囲気を変えようとするのを決して許さぬ真摯さで、司馬懿は曹丕の手を握っていた。
 司馬懿の顔を見ていられなくなって、曹丕は視線を泳がせた。
 この男は、何故自分のことをこんな風に見るのだろう。どうしてこんなに大きくて温かい手で自分を包むのだろう。
「……お前の言うことは、よく分からない……」

 どうしてこんな風に、自分を大切にするのだろう。

「分からなくても良いです。ただ覚えていて下さい。私は、今日のこの日に感謝しています」
 司馬懿の目はあまりにもまっすぐで、曹丕はこの目に見られていると、いつでも不思議な胸騒ぎを覚えた。それは決して不快な物ではないが、しかし曹丕を根元から変えてしまうような、いっそ自分を司馬懿にゆだねてしまいたくなるような、そんな胸騒ぎだった。
ひょっとしたら、自分は勘違いしているのかもしれない。司馬懿はいつもこんな調子だから、自分が受け取るよりももっと簡単な意味で言っているのかもしれない。

 だってこんな風に言ってくれた人は、今まで誰もいなかったから……。

「お前はそうやってすぐに恥ずかしいことを言うが、俺が生まれなくたって、きっとお前が仕えるべき相手は他にもいただろうし、いや、ひょっとしたらお前自身が……」
「あなたでなければ嫌です」
「でもお前は父上の元に来なかったかもしれないわけだし」
「他の方に仕えるつもりはありません」
「俺が生まれてこなければ父上はお前に他の者につくように言ったろうし」
「例え主公のご命令でも、子桓様以外の方に仕えるつもりなどありません」
「でも俺が生まれてこなかったら俺はいなかったわけだから……」
「ですから、子桓様が生まれてきて下さったことに感謝しているのです」
 曹丕は赤くなって下を向いた。
「子桓様?」
「お前、言ってることが俺の質問に噛み合ってない……」
「子桓様がどうしようもないことを訊くからです」
 握られている手が温かい。
曹丕はその手を振りきって後ろを向いた。

 本当は、自分があんな事を言えば、司馬懿が何と答えるか分かっているのだ。自分は司馬懿に必要だと、大切だと、かけがえのない人間だと、そう言って欲しくてあんな事を言ったのかもしれない。
 あまたいる曹操の息子として、自分は取り替えの効く存在だ。曹操の後継者が自分である必要はない。「曹丕」という席に他の誰かが座っていても、きっと誰も気にしないだろう。
 でも、この男だけは違う。司馬懿は「曹丕」という席に自分が座っていなくても、きっと雑草の中からだろうと自分を見つけだし、自分を必要だと言ってくれる。

 自分はそんな言葉を求めているのだ。まるで小さな子供のように。

「子桓様?」
「約束があるから、もう行く」
 背後で司馬懿の溜息が聞こえる。どんな顔をしているのか、見なくても分かる。
 だが今その顔を確かめるわけにはいかない。そんな事をすれば、自分がどんな顔をしているのかまで、司馬懿に曝なければならないのだから。

「……分かりました。お気をつけてお出かけ下さい。……あの、失礼なことを申し上げた無礼をお許しくだ……」
「帰ってきたら」
「は?」
 曹丕は足早に廊下に向かいながら、小さな声で呟いた。


「帰ってきたら、お前が生まれた日を教えてくれ」


「え……、あの?」
 聞き返そうとしたときには、曹丕は廊下を滑るように遠のいていった。
 その場には香しい残り香と、しなやかな手のひらの感触だけが残った。
 曹丕がこの世に生を受けた、この素晴らしい日。
 司馬懿はいつまでも曹丕の消えていった廊下の先を見つめていた。

 自分が曹丕と同じ時代を生き、同じ物を見つめていられる幸せに感謝しながら。


 
――――――司馬懿が曹丕の言葉の意味を理解するのには、更に一刻の時間を要した。もちろん、曹丕が帰ってきたときには感激のあまり熱を出し、ぶっ倒れていたことは言うまでもない。 


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