眠れぬ夜 |
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竹簡を山積みにされた机の前で、孫堅はうんざりと唸っていた。ほんのひと月戦をしていただけで、帰ってきたらこんなに民政の書状が山になるとは、文官達は俺をいじめて楽しみたいとでも言うのだろうか。張昭の奴はこれを山積みにしながら「まだまだ決裁を待つ書類が私の机の周りに山になっておりますので、ちゃっちゃとやって下さい」とかぬかしやがった。「ならお前がやればいいだろう」と言ったらじろりと睨まれて、それで話は終わりになった。 「……こんな量の書類、目を通すだけで日が暮れるだろうが……」 試しに一本開いてみる。几帳面な字がみっちりと詰まっていて、それだけで孫堅は目を瞑った。 その時。 「失礼しやーす」 扉が開いて、甘寧が姿を現した。 「おぉ興覇、どうした?」 良い暇つぶしが来たと思って見ると、甘寧はどこか疲れたような顔をしていた。 「……? どうした興覇? なんだか元気がないようだが」 「イヤ、別に何でもねぇんだけど…」 そう言いながら、所在なさげに何となくぐずぐずとしている。そんないつもの彼らしくない様子が気にならない訳ではもちろんないが、甘寧が何でもないと言うのだ。無理に訊くのも何だと思い、孫堅は放っておく事にした。 「すげぇ量だな」 「そうだろう? 少し手伝っていくか?」 口元に笑みを浮かべて訊いてみるが、甘寧は相変わらず表情の乏しい顔のまま返事をしなかった。仕方ないと孫堅は小さく鼻息を吐いて、また机の上に目をやった。静かだった。その静けさの中で、竹簡を一本一本広げては目を通して、二、三言書き加えていく様子を、甘寧は暫く黙って見ていた。 そうしてどれだけそうしていただろうか。気がつくと、甘寧は自分の脇に立って、上から自分を見下ろしていた。 「興覇?」 甘寧の指が、自分の頬をつつく。表情のないまま、甘寧は腰だけをかがめて、孫堅の唇にそっと唇を落とした。それは子供のようなキスで、体温のない、形だけの物だった。それでも孫堅はされるままにしておいた。せいぜい腰を抱えてやるくらいで、自分からその口づけを深い物にするのは、何かが違うと思った。 ずいぶん長い間、ただ唇を合わせていたが、甘寧は自分からゆっくりと唇を離すと、小さく溜息をついた。 「どうした?」 「いや…。やっぱ違うなって」 「何だ。誰かと比べてたのか?」 「誰とだよ」 甘寧は肩だけで小さく笑うと、そのままずるずると腰を下ろし、机の脇にしゃがみ込んだ。 「朝からずっと、なんかもやもやしててさ。サカリでもついてんのかと思って来てみたんだけど、そういうのとも違うみたいだ」 「ははは」 孫堅は形だけ笑って見せた。そんな顔をしてサカリがついているもないだろう。 そのまま自分の足許に小さくなった甘寧の頭を、孫堅はそっと撫でてやった。 「誰かに何か言われたか」 「イヤ、別に」 「何か変なもんでも喰ったんだろう」 「んなこたねぇよ」 「そうか。まぁ、そういう日もあるな」 「ん…」 甘寧はそのままずっと一日、孫堅の足許にうずくまっていた。途中書状を取りに来た張昭が一瞬目を見開いたが、すぐに顔色を元に戻し、仕事の話だけをして帰っていった。 その日の夜は、孫堅が甘寧の家に行った。いつもなら城内の自分の部屋に連れて行くのだが、それでは色々と煩わしい時もある。途中の酒家で飯を食い、甘寧の屋敷に入ると、甘寧はそこでも黙りこくって座っていた。ただ、膝頭だけを孫堅の足や背や、とにかく体のどこかにくっつけて。気まぐれな猫のような奴だと思っていたが、そうしていると本当に黒くてしなやかな猫のようだった。こういう猫は、手を出せばすぐにどこかに行ってしまうだろう。 その夜、二人は裸になって抱き合ったまま、ただ重なって眠った。甘寧は少しだけ意外そうな顔をしたが、孫堅は構わず眠ったふりをした。それでも甘寧は自分を子供のように抱きしめる孫堅の手を振り払わなかった。お互いに相手が眠っていない事は分かっていたが、それでも黙って抱き合っていた。甘寧の、日向のような匂いが心地良かった。 こんな夜も悪くない。 愛しさだけを募らせて、二人はそうして眠れぬ夜を過ごした。 朝日がまぶしくて、呻きながら目を開けた。いつの間にか眠っていたらしい。甘寧の部屋は寝台に帳も張っておらず、開け放たれた窓からは初夏の容赦ない太陽が照りつけていた。 「……興覇。おい、眩しいから、そこ閉めてくれ……」 「あ? 殿、起きたのか? もう日が昇っちまったぜ?」 ひょいと顔を覗き込んでくる甘寧は、もう昨夜の彼ではなかった。 「何だ、朝っぱらからずいぶん元気だな」 「おう。なんか目が醒めたらすっきりしてた。ありがとな、殿」 「何もしてないのに礼を言われるのもおかしいな話だがな」 ずいぶん寝過ごしたようだ。政務は日の出と共に始まるものだと張昭辺りにまた文句を言われそうだが、皇帝ではあるまい、そんなに厳格に働く必要などどこにある。 ふと自分の執務室にまだ残っている竹簡の山を思い出し、それから口やかましい面々の顔を思い出すと、孫堅は溜息をついて甘寧を手招きした。 「どした、殿?」 「良いからこっちに来い」 のこのこと歩いてくる甘寧が射程距離に入るなり、孫堅は甘寧の肘を思い切り掴んで、臥牀の上に引きずり倒した。 「うわ!?」 全く予想していなかったのだろう甘寧の間抜け面を楽しみながら、孫堅は寝起きとは思えぬ素速さで甘寧の服を脱がしにかかる。 「殿、何やってんだよ! ただでさえ寝坊してんのに、そんな事してる時間ねぇだろ!」 「今から二人揃って登城した後の事を考えろ。政務に支障をきたす程の情交は慎めとか絶対言われるぞ。あいつらは俺が君主だって事を忘れて平気でそういうあけすけな事を言いやがるんだ。策なんか、鬼の首でも取ったみたいな顔をしてオヤジも若いなぁとか絶対言うぞ」 「そのくらいいつもの事だろ」 「いつもは本当にしてるから構わんが、何もしてないのにそんな事を言われるのは癪だと思わんか」 「思わねえよ! それよりこうして出仕の時間が遅れる方が絶対やべえだろ!」 「水賊出身のくせしてずいぶん優等生的な発言をしてくれるな」 「殿が殿のくせして無責任なんだろ!」 「お前、昨日の竹簡の量を忘れたのか」 「遅れたら遅れた分だけ書状は溜まってくんだぞ!」 「どこかの誰かみたいな事を言うな。そういう口は、もう喋らんでいい」 そう言うなり、孫堅は甘寧の口を唇で塞いだ。その後の抗議は、当然全て無視した。もっとも、抗議は途中から抗議ではなくなっていったのだけれども……。 昼を過ぎてから登城した二人は、当然のように張昭の執務室に引き立てられていった。一応別々に登城しようかという意見も出るには出たのだが、そんな小細工をするのは男らしくないぜ!という意見が通ってしまったのだ。もっとも、そんな小細工をした所で孫堅がどこにしけ込んでいたのかはバレバレだったし、第一問題はそこではなかった。夕べ外泊する事を誰にも告げずに城を出たのが事に対して、もう烈火の如くやられたのだ。張昭の執務室には彼だけでなく、張紘だとか周瑜だとか、いつもは庇ってくれる黄蓋だとか程普まで揃っていて、一斉に鳴り響く雷に、二人は亀の子よろしく首を縮めているしかなかった。 やっと二人が解放されたのは説教開始から一刻も過ぎた頃で、その後当然孫堅は民政の仕事に缶詰にされたが、親心なのか、甘寧にはその手伝いを申しつけられた。 「……手伝いって言っても、俺は何すりゃ良いんです?」 「殿が素早く書状を読めるように、竹簡の紐を解いて、開いて、殿が署名をしたら素早く丸め直してきちんと結べ」 「……それを一日するのか?」 「一日? 何を言う。書状の山は三日は缶詰になっても終わりきる物ではない。だが安心しろ。さぼりたくなっても私が監視している」 美しい顔で冷たく告げる周瑜に、甘寧は泣きたくなって孫堅を見た。孫堅は馴れているのだろう。真面目な顔をして諦めたように書状に目を通し始めた。 周瑜が睨んでいるせいもあり、甘寧は案外真面目に竹簡を広げたり丸めたりしていた。そのうちに元からのせっかちが頭をもたげたのだろう、孫堅が書状に目を通している間に次の竹簡を広げ、ゆっくりと読んでいるとせっつかれもした。その様子を見て周瑜も「意外と効率が良いな」と上機嫌で、そう言われると甘寧もへへっと笑って見せた。 ずいぶんと元気になったようだな。 孫堅は小さく笑った。昨日のような甘寧も、たまにならしおらしくて良いのかもしれないが、やはり元気な甘寧の方が良い。甘寧が元気になるのなら、このくらいの道化は何という事もなかった。 「殿、また何かよその事を考えていますね?」 「ホントだ、スケベそうな顔してるぜ、殿」 「こんな真面目に仕事をしている人間を捕まえて何を言うか」 孫堅はわざと不満そうな顔を作って見せてから、また書状に目を落とした。 三日間は興覇と二人で缶詰か。それならそれで悪くない。……またやろうかな……。 「……殿。今度という今度は本気でスケベそうでしたよ……」 「ん? あぁ、今のは本当にスケベな思い出し笑いだ。なぁ、興覇?」 「何で俺に振るんだよ!」 「俺がスケベな思い出し笑いをしているのだ。お前の身に覚えがある事に決まっているだろう」 「ふざけんなよ! 周瑜殿、こんなスケベジジイの面倒見んのご免だから、もう行くぜ!」 「こら興覇、お前だって罰当番中だろうが」 「知るか!」 制止も聞かずに部屋を出て行く甘寧を、二人はそのまま見送った。 「何かあったのですか? 解決したようにも見えますが」 「お前は千里眼か? いや、大したことではない」 「そうですか? では聞かずにおきますので、書状だけは早めにお願いしますね」 「おう」 役目は終わったと出て行く周瑜の後ろ姿を、孫堅は苦笑しながら見送った。結局、あいつも甘寧の様子が気になってここにいたという事か。本当にまぁ面倒見が良い…… それから孫堅は大きく伸びをすると、いまだに山積みになっている竹簡をうんざりと見下ろした。 「結局この山だけが残ったか…。しょうがない、さっさと片づけるとするか」 筆を取る手に昨夜の甘寧を思い出し、孫堅はもう一度だけ小さく笑うと、今度こそ真面目に書類に取りかかった。
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