中弦の月

「ああ悪い、肩貸してくれるか?」
 飛虎の腕を肩に担ぎ上げると、まるで最初からそう作られていたかのように、聞仲の肩は調度飛虎の脇の下にすっぽりと収まった。さして体を傾けてはいないのに、飛虎はゆったりと聞仲に体重を預けている。
「重いか?」
「誰に物を言っている」
 聞仲に肩を借りながら、飛虎は気分良さげに鼻歌を歌っていた。
 聞仲は迷わず飛虎を自分の寝室へと運んだ。武成王府に運ぶよりも、太師府に運んだ方が早い。その為か飛虎もここが太師府であることを、さして気にしてはいないようだった。

 寝台の上に飛虎の体を投げるように横たえると、軽く布団に沈みながら、飛虎はフフと笑ってみせた。

「なんだ、飛虎?」
「いや、気持ち良いなと思ってさ」
 上気した頬。唇は微笑みを作りながらも、うっすらと開いている。
 ……この唇を舐めてみたら、どんな気持ちになるだろう……。
「聞仲、俺がこの寝台、使っちまっていいのか?」

「ああ、構わんぞ」
「ふーん……」
 寝返りを打ちながら、飛虎は何がおかしいのか、くすくすと愛らしく笑っていた。
「なんだ飛虎、子供のような顔をして」
「だって気持ち良いんだもん」
 聞仲の寝台の上で泳ぐように手足を動かしながら、飛虎は何かとても良いことを思いついたような顔をして、聞仲を下からこっそりと見上げた。
「な、聞仲、一緒に寝ようぜ」
 その拍子に聞仲の心臓がトクン、と、よく響く音で鳴った。
「な、良いだろう? お前もこっち来いよ」
 掛け布団を持ち上げて自分のすぐ脇を叩き、飛虎が聞仲を誘う。
 聞仲は飛虎の唇を見つめた。自分の心臓の音が周り中に響いて、飛虎が何を言っているのか聞き取れない。

「……だが……」
「良いじゃん。な、一緒に寝ようぜ?」
 自分を見つめる飛虎を見ながら、聞仲はどうやったらこの手足が動いて飛虎の脇まで歩いていけるのかを、必死に思い出そうとした。
 そうして立ち惚けている聞仲の手を、飛虎が力強く掴む。
「ほら、聞仲」
 ……夢を見ているのか? いや、これは夢に違いない。飛虎が自分を寝台にいざなうわけがない……。
 引かれるままに、聞仲は一歩を踏み出した。
 ゆっくりと手を寝台の端に掛け、倒れるように飛虎の上に体を寄せる。
「飛虎……」
「おいおい、おめぇも相当酔ってるな。俺の上に乗ってどうするよ」
 そう言いながらも飛虎の目は笑っていた。
 聞仲は自分の心に幾重にも戒めを架けた。今すぐこの寝台から降りろ。飛虎に何をするつもりだ? 飛虎はこのままでいなければ……。飛虎の時間を自分から廻してしまうつもりなのか?
 だが、重ねた飛虎の肌は聞仲の中の戒めを破り、よほどの力でもって彼を引きつけた。
「飛虎よ……」
 こんな時、聞仲は己の無力を思い知らされる。三百年の修行がなんだというのだ。自分を律することすら出来ない、この己のふがいなさは。
 だが聞仲は自分自身に問いかけていた。何故武成王府ではなく、太師府に飛虎を運び込んだのだ? 私は初めから飛虎にこうしたかったのではないのか?
 変わらずにいて欲しいなど、きれい事に過ぎないのだ。
「飛虎……」
 声に出して名を呼ぶと、聞仲は自分がずっとこの肌に焦がれていたことを思い知らされた。



 初めて触れた飛虎の唇は、荒れて少しガサガサとしていた。その自分の唇に少なからぬ痛みを与える感触が、よけいに聞仲を興奮させた。そっと舌で唇を辿ると、笑い声と共にそこは微かに開き、聞仲の舌を受け入れる。
 今唇を合わせているのが飛虎だと思うと、聞仲は執拗なまでにその舌を追い求め、己に絡めて吸い上げた。
 飛虎は拒まなかった。拒む代わりに、囁くような笑い声を合わせた唇から忍ばせていた。
「……なんだ?」
「お前ってキスするとき、目、開けてるのな」
 言うなり飛虎は聞仲の頭に両手をかけ、そっと自分の耳の辺りまで抱き寄せた。
「髪、サラサラだな」
「……そうか?」
 冷静さを保っているつもりだったが、自分の頬に当たる飛虎の耳が、やけに唇を乾かせる。
「飛虎……飛虎よ、良いのか?」
 飛虎は笑うばかりでその答えを寄越さない。自分の頭から腕をはがし、体の下に組み敷いても、飛虎はいたずらを続ける子供のように笑うばかりだった。
「良いのだな?」
「ふ…くくっ」
 喉の奥で笑う飛虎の、その憎らしい喉に唇を寄せる。喉仏に歯をはませ、首筋に舌を這わせても、飛虎の笑いは収まらなかった。
「くく…ふ、くすぐってぇって、聞仲……」

 そっと上着を脱がせ、タンクトップをたくし上げる。唇は首筋だけでは物足りなく、もっと下を求めていく。胸の突起を爪の先で押しつぶすようにさすり、もう片方を舌の先で転がすと、笑い声には時々色合いの違う声が含まれるようになった。
「飛虎よ、何を笑う?」
「だって聞仲、すげぇ怖い顔してんだもん。せっかく酒も旨くて良い気分なのにさ、お前ば…ん、お前ばっか怖い顔…してて、…ふ……」
「面白いのか?」
「ああ……」
 飛虎はそのまま笑い続けた。下腹部を割り開く時はさすがに抵抗するかと思ったが、彼は何の躊躇もなく、聞仲のさせるに任せていた。
「……飛虎よ、本当に良いのか?」
「何で?」
 飛虎は軽く上半身を起こし、聞仲と、聞仲の唇に濡らされた己を見下ろした。目は相変わらず笑っている。
 飛虎がこの程度の酒でここまで自分を見失うとは思いがたい。ならば飛虎にはこのことに対する認識がないのだろうか? 男と女の行為には意味があっても、男同士の、この何も生み出さない行為には何も意味がない、と? もしそうなのだとしたら、どれほど心を込めても自分の気持ちは飛虎に届かないということだろうか……。

 そんな聞仲の苦悶すら笑っているのか、飛虎は聞仲の顎の先に指をかけ、沈んでいた瞳を自分の目線まで引き上げた。
「だって聞仲、俺のこと、好きだろう?」
「え?」
 飛虎の目は笑っていたが、頬の赤みはもう消えかかっていた。その笑顔は慈母のようで、聞仲はなんだか急に泣きたくなった。
「聞仲は俺のこと壊れもんみたいに扱ってるから、俺も何にも言えなかったけどさ。こんなでかい図体で何で俺がそんな簡単に壊れるとか思うわけ?」
「飛虎?」
「何そんなに気にしてんだよ、バカだな」
 飛虎は完全に体を起こして、聞仲の前にどっかりと座ってみせた。
「気づかれてないつもりだったんだろ?」
 くくくとまた喉の奥で笑う。だが聞仲はその笑いが、愚かな自分に向けられたものか、この状況を楽しむためのものかも分からなかった。
「バカだなぁ、聞仲。見え見えだぜ? 殷の太師ともあろう者がさ」
 二回目の口づけは飛虎から降ってきた。唇が合わさった途端、聞仲はバネ仕掛けの人形よりも早く、飛虎の体を寝台にうずめてその唇をむさぼった。
「本当なのか? その…本当に良いのか?」
「何言ってやがる、聞仲……」
 ゆっくりと目を閉じる飛虎のはだけられた胸が中弦の月に照らされている。日に焼けた素肌。幾度の夜求め続けてきた……。
 聞仲は今度こそためらわなかった。三度目の口づけの荒々しさに、とうとう飛虎の笑いは途絶えた。後に残るのはただ衣擦れの音と飛虎の肌をむさぼる湿った音、それと
それと、飛虎の喘ぐ声だけだった 。



「あ――――― 」
 飛虎がゆっくりと両腕を高く挙げ、己の腕をしげしげと見ていた。その声で、聞仲はやっと飛虎が目覚めたことを知った。
「すまん、飛虎。辛くないか?」
「ん、大丈夫じゃねーけど、大丈夫」
「大丈夫じゃない? すまん、加減が分からなくて…その、私も我を忘れてしまって……」
「謝るなよ」
 聞仲に見せた飛虎の笑顔は、昨日のままの笑顔だった。
「俺、聞仲が俺のこと好きなのはずっと前から知ってたし、聞仲となら、その、こういうのもまぁありかなって思ってたわけだしさ」
「本当か?」
 聞仲は慌てたように飛虎の肩を掴んだ。さすがに少し照れているのか、飛虎は視線を天井に泳がせる。
 ……もちろん、飛虎も聞仲も、まだ先ほどの獣の姿のままだった。
「でも聞仲、俺のこと見てる時いつも辛そうだったしさ。きっとこいつ色んなこととか考えてんだろうなって思うと、何か悪いじゃん、知ってるって言うのもさ。だけどほら、今日はさ、お前も俺のこと太師府に連れてくるし、俺の上に乗っかるし、もう俺のこと好きじゃない振りは終わりかなと思ってさ」
「好きでない振り?」
「してただろ?」
 聞仲は一気に脱力していく自分に気づいた。
 全てを知っていた上で、飛虎は私に合わせていたというのか? 私の出方を伺って、私の思うとおりに振る舞っていた、と?

「いつから知っていたのだ……?」

「多分最初からだと思うけど……?」
 大きく伸びをしてから、飛虎は自分の頭をぼりぼりと掻いた。
 まるでいつも通りの仕草。あまりと言えばあまりな程に。
「これでも俺、知ってるの隠すの大変だったんだぜ? あんまり見え見えで笑うかと思った」
「そ…そんなに見え見えだったか……?」
 大きな溜息と共に、飛虎は聞仲の鼻の先を指で弾いた。
「俺には、な」
 聞仲の肩に腕を絡め、飛虎は聞仲を布団の中に引きずり込んだ。
 聞仲の心臓は信じられないほどの轟音を立てている。飛虎の肌。あまりにも長い間焦がれていた肌。眩暈がするほどに。
「ほら、聞仲」
 大きく手を伸ばし、飛虎は聞仲の顔の上に手をかざしてみせた。
「どこも壊れてないぜ? な?」
 笑う飛虎の笑顔は、昨日のものとも明日のものとも変わらぬいつもの笑顔で、聞仲は苦笑いをした。
「お前を手に入れたら、お前は変わってしまうと思っていたのだ。お前は初めから、そのままのお前だったというのにな」
 その苦笑を紛らすために、聞仲は飛虎の体を思う様抱きしめた。
「なんだよ聞仲、くすぐったいぞ」
「私を騙していた罰だ。潰されていろ」
 聞仲は飛虎の上にのしかかり、ゆっくりと飛虎の頬から喉から広い胸から、その感触を楽しんだ。

「聞仲」
「ん?」
 目の前には飛虎の笑顔がある。何とも愛らしい笑顔。
「お前、思ったより可愛いな」
「ぬかせ」
 もう一度深く唇を交えると、飛虎は再び笑い始めた。
 何を笑っているのかと憤慨しかけたが、自分の滑稽さを思い返し、聞仲も飛虎に合わせて笑い出した。
「くくく」
「ふっくくく」
「ははっははははっ」
 窓の外には中弦の月がぼんやりとにじんでいる。その薄い明かりに照らされて、二人はいつまでもお互いの体を弄びながら笑い続けた。

 この、特別な夜のために。    
幸せなまま
終わる
ふと現実に
帰ってみる



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