◎内職SF作家への道


秋山 完 【秋山完ホームページへゆく】←経歴その他はこちらにてご覧ください。



岡本賢一 「ペリペティアの福音」完成おめでとうございます。これは秋山完さんの代表作と言ってもいいですね。はじめ上下と続けて出る予定だったこの作品が、このように延びたのは、どのような経緯があったんですか?
秋山完  とほほ……じつは経緯なんて立派なものはなくて、すべて私の怠慢と、執筆時間の不足です。目下フルタイムのサラリーマンのかたわら、土日だけで書いていますので。気ばかりあせって、筆は遅々として進むって具合で。読者の皆様にはご迷惑おかけしました。この場をかりて懺悔します。
 そうそう、秋山さんは兼業作家だったんですね。
 自分では内職作家と称しています。「兼業作家」というのは、作家稼業がメインで、その他のお仕事がサブなんでしょうね。私はサラリーマン稼業をメインにしなきゃ食べていけないので、SF書きは趣味の「内職」なんです。家庭菜園でつくった野菜を、たまたま近所の人が買ってくれたような、そんなものですねえ。
 サラリーマン稼業とSF書きの両立は、苦労が絶えないでしょう。
 はあ、じつはちっとも、作家してる実感がなくて。平日はSFのエの字もない仕事してますし、女房もSFに興味ありませんし。人目を忍んで深夜にちまちまワープロ打ってます。やっぱり、夜業(よなべ)の内職ですね。
 隠れキリシタンというか、隠れ内職作家。
 そう。職場ではまったく別人格で、SFの話は一切しません。内職作家はあくまでプライベートな領域でして、書いているときは自分がサラリーマンであることを忘れています。きっと顔つきや歩き方も変わっているでしょう。ですから一種の二重人格ですね。
 ジキルとハイドみたいな。
 昼間のサラリーマン人格のほうが悪人ですから、昼ハイドの夜ジキルですね。それにつけても苦心のタネは、ケチケチ生活です。内職作家するためには、どうしても節約を強いられます。
 そういえば、サラリーマンにしては、ずいぶんローテクな生活されてるとか。
 私みたいな凡人が家庭を維持しながら、何年も趣味で書き続けるには、経済的な不安をできるだけ排除しなきゃなりません。夫婦で共稼ぎ、ローンなしで買えるボロ家で我慢する、バクチに手をださない、クルマやペットや衛星放送や携帯電話などランニングコストのかさむ消費財はあきらめる。スーパーの半額セールや古本市やリサイクルショップを常用する。
 そのかわり百貨店、量販店、図書館、映画館、レンタルビデオ、ホール、鉄道駅、そして湖の渚公園が徒歩圏内の立地に住んでいます。日常の交通コストを低減するためです。なんか、けちくさいなあ。まあ凡人の現実はそんなものですか。
 そういった生活の工夫があって、心おきなく書けるんですね。にしても「ペリペティアの福音」は千五百枚近くのボリューム。土日だけで書くのはたいへんでしたね。
 週休二日で、だいたい年間百日の休日があるとして、そのうち執筆に使えるのは半分の五十日。一日平均十五枚書くとして、年間七百五十枚。これが私の生産能力。「ペリペティアの福音」は上中下あわせて千五百枚近く。ちょうど二年かかってしまいました。どんなにじたばたしても、フル生産で年間七百五十枚。物理的な限界です。
 でも読者からは、執筆ペースを上げてほしいという声が……
 自分で書いてみて悟ったんですが、執筆作業の時間は全体の三割程度にすぎません。あと七割は資料を集めて読み込み、脳味噌の中で発酵させるのに必要なんです。手ぶらで考えても、一行も書けない。インプットなくしてアウトプットなしです。本人はあせってるんですが、これはどうにもならない宿命でして。
 資料というのは?
 おもに新聞と本とビデオです。特別なものはありません。すごくありふれた情報をもとにして書いています。けど、情報の蓄積と処理に、やたら時間がかかるんです。録画したビデオは三倍モードで七百本くらいになりました。作品のテーマを決めたら、関連する番組を引っ張り出す。それだけで何十時間分もあります。地上波でオンエアされた番組だから、一般常識として見ておかないとまずい。黙々と見る。新聞や本も同様でして。その中から偶然、話が浮かびあがってきます。その作業に二三ヵ月かかる。能力のある人はそんなこと必要ないですが、凡人が書くためには、やるしかないです。
 そのかわり、中身の濃い作品になりましたね。特に「ペリペティアの福音」は。
 ネタの詰め込みすぎと言われます。その通りで、読み返してもしんどい。次作から改善を心がけます、はい。ただ「ペリペティアの福音」は、時代的にその前後に起きた事件を描くための■設定資料■でもあるんですね。ですから、くどいのを承知でトランクィル廃帝政体の成り立ちを書いたり、自分でもよく理解してないのに、ゲルプクロイツ社の生命樹計画のあらましに触れてますし、本来サブキャラのケルゼンやフレンに大きなスペースを割いています。ペリペティア事件以後は、脇役やチョイ役のキャラたちが大きな役割を果たし、作品世界の奥行きが深まっていく……はずです。そうなりたいなあ。

 デビューの前のことをお聞きしたいのですが。本格的に書ける、と自信がついたのは、いつごろからですか。
 1992年、SFマガジンのハヤカワSFコンテストの最終回(第18回)に滑り込みで佳作入賞したころですね。
 そうですか、ハヤカワのコンテストに応募されてたんですね。
 SFマガジンのコンテストは憧れでした。いつかあの入賞者のページに、自分の名前が載ったらいいなあ、カッコいいなあ、みんなに自慢できるよなあ、と。
 コンテスト応募はいつごろから?
 二十代後半、結婚してからです。応募三作目で一次選考に残り、その次の作品も一次選考に残り、その次の作品で佳作に入りました。そのときは入選者がおらず、佳作の私一人が大きな活字で載ったんですね。当時はペンネームじゃなくて本名だったんですが、なんか得した気分でした。喜んで、出張の帰りに菓子折り下げてハヤカワさんへ挨拶に行きましたっけ。
 で、賞品もらったんですか。作品が掲載されたとか。
 どちらもなしです(笑)。たしかコンテストの応募要項には、佳作は記念品がもらえるとあったんですが、そのうちといううちに、こちらも忘れてしまって今に至ります。でも菓子折りあげたんだから、なんかほしかったなあ。将来、ハヤカワさんと縁ができたらおねだりしてみようかな。SFコンテストの記念品というからには、社名入りボールペン型対消滅エンジンとか、タイムカード型タイムマシンとか、野田大元帥型貯金箱だったりして……と、期待してたんですが。でも結局、その回でコンテストは中断。リターンマッチの意欲もむなしく、デビューの望みは断たれました。
 それでも、あきらめなかった。
 とりあえず年間七百五十枚の生産力の範囲で長編短篇書いて、あちこちのコンテストに試してみようと思いまして……ハヤカワ・ハイ・コンテストに長編応募して最終選考で落っこちたりとか、他社のコンテストも二次選考あたりで落ちたりとか。今一歩、詰めの甘い公募人生を送ってました。やがてソノラマの季刊誌「グリフォン」で森下一仁先生が主宰されていた短篇コンテストに掲載され、一年ほどして書いた中編を加筆して、文庫にどうかということになりました。それが「ラストリーフの伝説」です。いまだに書かせていただけるのは、編集担当のOさんのご好意と、森下先生のおかげです。平伏。ふがいない弟子ではありますが、ずっと感謝しております。
 コンテスト応募を始めてからデビューまで、十年近くかかったんですね。
 いい作品を書けるようになるには、まだ十年くらいかかるでしょうね。ジャック・フィニイもO.ヘンリもハインラインも、読み継がれるいい作品を書いたのは五十代に入ってからです。私みたいな内職作家は、一生に一冊、読者に十年くらい愛される作品を出せれば成功ですから、マイナーでも気長にやっていくつもりです。

 そもそも、どうしてSFを書きはじめたんですか。
 小学生のころ、好きになって。東映動画の「ガリバーの宇宙旅行」で、夢と希望のSFの洗礼を受けました。当時は漫画の「サブマリン707」やTVの「サンダーバード」やアニメの「JQ」もありましたし。やがてレンズマンなど楽しんで読むうちに「冷たい方程式」やR.F.ヤングの「たんぽぽ娘」「わが愛はひとつ」とか中編の「アルジャーノンに花束を」に出会って、おおSFってすばらしい! 夢も希望も勇気も涙もみんなある! いつかこんな話を書けるようになりたい、と願いまして。というのは、ちょっと物足りない面もあったからです。
 物足りなかった?
 「サブマリン707」には美少女が出てこないし、「たんぽぽ娘」にはバトルシーンがありませんよね。
 それを要求するのはご無体というものでしょう。
 でもなんとか、バトルと美少女の両方を充足させたい。そのへんが、SFを書き始めた不純な動機だったようでして……。大学に入ったころ、萩尾望都先生の「アメリカン・パイ」で泣けまして、漫画でこれだけ感動できる、この感動がSFにできないはずがない……と考えました。それ以前に、アリステア・マクリーンの「女王陛下のユリシーズ号」を読むと同時に、映画「シベールの日曜日」に感涙してました。平田晋策の「われ等の海戦史」(吉岡平ファンなら知ってるよね)やルックナー伯爵伝の「海の鷲」(田中芳樹ファンなら知ってるよね)や「エムデン号最後の航海」を読むと同時に、アンネの日記やナイチンゲールやマリー・キュリーの伝記を読んで涙うるうるでした。騎士道的で痛快な戦いもあれば、女性の視点からみた献身的で悲壮な戦いもあることを知ったわけです。作品で戦争を扱うなら、両方の視点を落とさないようにしたい。いや、両方をひとつの作品で描くことはできるはずだ、と思いますね。
 マリー・キュリーはラジウムの発見者ですね。どうして戦争と関係が?
 第一次大戦中に、現代のレントゲン撮影車にあたるものをつくって、戦線を駆けめぐっています。傷病兵の治療のために。すごい人物ですよ。同時期にウォルト・ディズニー少年もトラックで戦線を駆けめぐっていました。あの夢と魔法の王国の創造者も、心の奥に戦争の記憶を引きずっていたはずです。
 詳しいですね。戦記もののファンでもあったわけですか。
 映画だけでも、よく見ました。やや畑違いの作品も含めて並べますと、
 第一次大戦ものでは「アラビアのロレンス」「暁の出撃」「哀愁」
 第二次大戦ものでは「トラ!トラ!トラ!」「史上最大の作戦」「ネレトバの戦い」がスケールでかいけど、テーマがどうもよくわからんという三大謎の超大作です。
 第三次大戦ものでは「博士の異常な愛情」「フェイル・セイフ」「渚にて」
 実艦マニアなら「戦艦シュペー号の最期」「ケイン号の反乱」「頭上の脅威」
 国産では「太平洋奇跡の作戦キスカ」「青島要塞爆撃命令」「日本海大海戦」
 空中戦ものは「空軍大戦略」「メンフィス・ベル」「零戦燃ゆ」
 潜水艦ものなら「U・ボート」「眼下の敵」「深く静かに潜航せよ」
 戦争大好き派は「パットン」「バルジ大作戦」「マッカーサー」
 要塞ものなら「ナバロンの要塞」「荒鷲の要塞」「テレマークの要塞」
 橋ものなら「遠すぎた橋」「レマゲン鉄橋」「戦場にかける橋」
 脱走ものなら「大脱走」「脱走山脈」「メル・ブルックスの大脱走」
 不条理ものなら「キャッチ22」「MASH」「地獄の黙示録」
 不時着ものなら「飛べ!フェニックス」「赤いテント」「魚が出てきた日」
 複葉機ファンなら「華麗なるヒコーキ野郎」「ハイ・ロード」「ガンバス」
 孤独な戦いは「マーフィの戦い」「アフリカの女王」「カサブランカ」
 レジスタンスものは「大列車作戦」「嵐の中で輝いて」「暗号名はマリー」
 地道な文芸路線は「誰がために鐘は鳴る」「武器よさらば」「イングリッシュ・ペイシェント」、そして「コーカサスの虜」
 戦争に引き込まれる子供たちは「誓いの休暇」「橋」「タップス」
 そして自分の良心を問うために「チャップリンの独裁者」「アンネの日記」「コルチャック先生」「抵抗の詩」「シンドラーのリスト」「ニュールンベルク裁判」「日本の一番長い日」「対馬丸」「太陽の帝国」「太陽にかける橋」もしくはTVの「マリコ」
 ずいぶん出てきますねー。
 往年の傑作でおすすめは「太平洋奇跡の作戦キスカ」と「大列車作戦」と「渚にて」です。
 近年の傑作は「U・ボート」「メンフィス・ベル」「コーカサスの虜」でしょうか……「プライベート・ライアン」はラスト三分の説教くさいシーンがなければよかったんですが。とりあえずこれだけ見てくると、戦争ってものは、勝った敗けたですむものじゃなくて、その前に愚かで理不尽な原因があり、その後に巨大な償いをともなうものだということが具体的にイメージできます。戦争を始めたが最後、軍人だけの戦いで済まず、かならず民間人や子供たちが犠牲になる。たとえスペオペの宇宙戦争であったとしても、よほど特殊な世界設定をしないかぎり、きれいごとで済む戦争はありえない。始めるのは簡単でも、終わらせるのは大変で、その後始末はもっと大変です。戦争ってのは首尾一貫して暗く醜い出来事であって、明るくカッコよく見える部分は幻想にすぎない。その事実をふまえた上で、スペオペの戦争を描いてみたい。人々を戦いに駆り立てる悪魔とは何なのか。戦いを終わらせ、償わせる天使とは何なのか。どーんと重たいテーマなんですが、SFはそれを象徴的に描ける、最適のジャンルだと思うんですよ。……でも、まともに取り組んだら絶対に売れませんね。
 ……むずかしいと思います。
 だからとりあえずは、バトルといっても戦術だけでなく戦略のある話を、美少女といっても可愛いだけでなく残酷さもある話……というあたりからアプローチしていきます。でも、そのはるか先に遠大な目標ってのがありまして、それが、私がSFにとりつかれたそもそもの原因なんです。
 遠大な目標ってのは?
 「太陽の王子ホルスの大冒険」。
 1968年公開の、長編動画ですね。もう三十年の前の傑作アニメ。
 はい、「ホルス」の映像作品としての完璧さ、ヒロインのキャラクターの究極さは、ファンの間でずいぶん論じられてきましたが、私が注目するのは、あの作品が残したテーマの奥深さです。あの作品は、世紀を越える複雑な問題を私たちに突き付けています。つまり「ホルス」が人間と自然の関係を扱ったエコロジー・テーマのSF(すごく広い意味でのSFですよ)ととらえれば、現代の環境保護の視点からみると、作品に描かれた善悪が逆転してしまう、ということなんです。
 あの作品は主人公の少年ホルスが、自然界の悪魔を退治する物語ですね。
 そのストーリーをみれば、ホルスは正義の味方でありヒーローです。しかし現代の私たちの価値観からみれば、ホルスは希少生物を絶滅させ、自然環境を破壊する悪の権化とみることもできる。ホルスたちの究極兵器「太陽の剣」は、人類がめざしている核融合技術を象徴しているようにも見えます。「太陽の剣」はまさに両刃の剣であって、人類のエネルギー文明の救世主でもあれば、自然をことごとく破壊し汚染する悪魔の剣でもあるのでは、と。すると三十年前ならハッピーエンドに終わった話が、じつはそうではないかもしれない……という疑問が湧いてくる。そこがまた「ホルス」のすごさなんですが。そして「ホルス」が残したこの問題に対する解決への模索を、後年の「未来少年コナン」や「風の谷のナウシカ」「もののけ姫」にみることができます。
 解決への模索……というのは、まだ解決できていないってことですか。
 そう思います。「未来少年コナン」以下の三作とも、人類の科学力がもたらした破壊的な力をいちど無に帰してしまう形で話の決着をつけていますが、ギガントや巨神兵やタタラ場が滅びることは、根本的な解決になっていません。というのは、人類が破壊した自然に対して、人類自身がどうやって「償う」のか、その方向性が明示されているとは言い難いからです。自然を破壊する「悪」を滅ぼす……つまり悪を「罰する」だけでは物事が解決しないことは、だれにでもわかりますよね。人類の悪が犯した「罪」をどうやって償い、その結果、人類はどのように「救済」されるのか。そこまで踏み込む必要があるんじゃないかと……わかりやすく言えば「加害者を罰すれば事件が解決するのではない、被害者を救済できなくては罪が償われたとはいえない」という考え方です。過去の多くのアニメ作品は、たとえば美少女戦士が悪を滅ぼせば万事オッケーの世界でしたが、本当に大変なのはその後ですよね。
 ウルトラマンも水戸黄門も同様で、怪獣を退治し、悪を成敗してから、被害者をどうやって救うのか、という最も困難な問題が控えているわけです。そこをすっとばして「誰かがなんとかするだろう」ではすまない時代になってしまいました。破壊した自然は、放っておけばもとにもどるわけではない。誰かが汗水たらさなきゃ修復できない。いまは子供でもそのことを理解できるでしょう。「ホルス」が世紀末の私たちに残した問題は、そういうことだと思うんですね。そういった「罪の償いと救済」にまで言及する話を、人類の最も愚かな消費行為である戦争との関わりの中で描いていきたい。これが遠大な願望です。実際に書く作品はスペースオペラみたいになるでしょうが、本当に描きたいのはスペースオペラじゃなくて「スペースオペラの後始末」なんです。
 ……と、偉そうに豪語してみましたが、どうなるのかなあ。まあ売れ筋の話でもなし、斬新な切り口のテーマでもないので、ぼちぼちと書いていきます。ヒットしなくてもいいから、ソノラマさんが損しない程度に売れて、書き続けられますように。読者のみなさんも、どうか末長くおつきあいください。
 で、今後の作品世界はどのように展開に?
 「ペリペティアの福音」は、今後の物語の前章になります。これまでの作品に登場した主人公やチョイ役が、主役脇役を交替しながらエピソードを積み重ねて、歴史の流れをつくっていく、という構成をとりたいと思っています。
 壮大な歴史が徐々にできあがってゆくと言うわけですね。たのしみです。ありがとうございました。今後のご健闘とご活躍をお祈りもうあげます。


 ヒットしなくてもいいから末永く……、という秋山さんのお言葉は、やはり兼業(内職)作家の強みでもあります。じっくりと納得のいく物を書いてゆく。あるいみ理想的な作家生活を確立していると言えるのではないでしょうか?
 僕のような売れない専業作家は、一年先の米代の算段がつかず、ひもじさのあまり、よからぬことを考えていけません。
 今回のインタビューではたいへん勇気ずけられました。僕も腰をすえて、コツコツと、米汁すすりながら、作品を書いてゆきたいと思います。

(1999.9)


※ 今回のインタビューに関し益田様に、なにかとご協力していただきました。この場にてお礼もうしあげます。