無沙汰っす!!!
フリーター生活を初めて早4ヶ月目。
責任感の無い立場を振る舞うのも板が付いてきて、
ついでに体に肉もたっぷり付いてきた今日この頃です・・・T_T
暖かくなってきたので、スーツも冬物から春夏秋物へと衣替えをしようと 今朝挑戦してみたのですが、見事に入りませんでした・・・
夏場に向けてダイエットなども真剣に取り組もうかと シュークリームを食べながら、方法を悩んでます。。
そんな中で私の姉が発行しているメルマガをみると、 どうやら、向こうの夫婦も太りだしてるようで、 ダイエット料理などの提案もはじめだしたようです。。
興味がある方は是非ご購読ください。。。
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さて、最近日本語というものがいかにいい加減で中途半端な表現ができるかと 言うことがなぜか気になっている私ですが、「自分」という第一人称を表す言葉
も日本語にはたくさんありますね。。
「私」、「僕」、「オレ」、「わし」、「あたい」、「それがし」、「麿」、 「わらわ」、「拙者」、etc・・・
自分というものを表す言葉なのにこれだけの表現があるのは、ほかの言語にもあ るのだろうか考えてしまいます。
これが英語であるならば、どうであれ「I」しか存在しないわけです(あるかもしれませんが私はしりません)たぶん英語であるならば自分を表すのであれば「I」だけを知っていれば問題ないでしょう。。日本語で「私」しか知らないとなると会話は成り立たなくなると思います。
英語圏の人がどうかは知りませんが、米国人はきわめて自己主張が強く、時には 押しつけがましく、度が超えた押しつけで今回のあのような戦争もおきるくらいなわけで、自分という主張はとことん「I」でいいのでしょう。。。
ところが儒教的要素の強い日本文化では時と場合に応じて、自分という主張も
変わるために自分を表す第一人称もたくさん生まれたのでは無いでしょうか。。
なんて適当なことを書いてるだけですので、どうでもいいです。。。
日本語で自分を表すこと第一人称の言葉が色々あるのは文化の一つとしてよしとして、自我が形成されていれば何らかの第一人称を使って自分のことを表現するでしょう。。
「自分」は「自分」であり、「私」なのである。という自覚があれば。。
ところが最近の人で多く見かけるのは第三人称で自分の事を呼ぶ人です。
私の「kazyu」というH.N.はいわば皆様から見た私の識別子です。。
皆様から見れば「kazyu」という名を持った人(?)であり、私にとっては私です。
極論すれば、自我をもった私にとって、もし世界に私一人しか人がいないとすれ
ば名前などという識別子は必要がないわけです。。
で、上記に述べた第三人称で自分の事を呼ぶ人たち。。
自分の事を「自分の名前」で呼ぶのですね。
「〜ちゃんはこう思うの」「〜ちゃんおなか空いたー!」などと自分の事を言いやがるんですね。
かくいう私も一時は発言するときに「kazyuはこう考えます」などと自分の事を自分の名前ではなしていたときもありました。
これは「自分の意見」であることには変わりないのですが、自分の意見を第三
者の発言としてとらえて考察してみようと考えたりもしたからです。
「○○」とkazyu(という人=他人)が言った場合、自分ならどう思うか、と自分の意見を第三者的にも同時にみれるかと思い、故意にしていたことがありました。
が、別にそんなことしなくても自分の考えに対して別の角度から考察をつける方
法などいくらでもあるわけで、特に意味は無いとも思い、また周りからも指摘さ れたので辞めました。
さて一応私は、そんな感じで意識的に、わざと自分の事を自分の名前で、一応
の意味を持って呼んでいたこともあったのですが、多くの人はそこまで考えて自分の事を自分の名前で呼んだりしているのでしょうか?
赤ちゃんははじめ自我も他者も分けることができません。。
次第にみんなが自分の事を「〜ちゃん」と呼ぶと気づき始めます。
で、自分のことを「〜ちゃんは〜」などと言い出します。はじめから「僕は」などと言い出す赤ちゃんがいればたぶん気持ち悪いんじゃないでしょうか・・?
はじめは「みんなにとって」の「〜ちゃん」が自分になるわけです。「みんな」がいて、はじめて「自分の存在」に意義があるわけです。これは他者と自我の混同ともいえるでしょう。
やがて、「自分」は「自分」であると言うことに無意識下に気づき始めた子供から、順に自分のことを「私」・「僕」という風に言い出すのだと思います。
では最近の人が自分の事を名前で呼び続ける人が多く感じるのはなぜか?
つまり自我に目覚めることができない幼稚な人が増えているのだと思います。
いつまでたっても「みんなの中の〜ちゃん」でいたいと無意識下でも思っている 人が多くなっているのでは無いでしょうか?
寂しい時代でもあり、愛情に恵まれない子供も多くなっていると思われる今、 愛情にはぐくまれないまま愛情を求め続ける子供は、いつまでも自立できず、自
我を確立できず、元々「みんなの中の〜ちゃん」すらいないのに、それが欲しく て、自分のことをわざわざ「〜ちゃん」などと呼んでしまうのかも知れません。
自我を強く持った人は自分のことを「〜ちゃんは」などと発言しないでしょう。
自我の強うそうな芸能人で考えてみましょう。。
キムタク。。
もし木村拓哉がしゃべるときに「いや、キムタクはね〜」などと話していたら。。
さんま師匠。。。
もし明石家さんまが「ちゃうがなっ!!さんまちゃんはやな〜〜」などと話していたら。。
両者ともに気持ち悪くありませんか?
自我をしっかり持った人間はしっかり「私」が存在しているものであり、逆にその「第三人称」で自分のことを呼ぶようなことがあれば気持ち悪く感じるものです。
得てして、自分の事を「自分の名前」で呼ぶ人間はどこか甘たれった印象を与
えてしまうものだと思います。
はてはて、そんなおり例によって友達と遊んでいる時に、そういう場面に出く わしたのです。
S52年生まれの図体のでかいおっさんが、
「○○ちゃんおなかすいた〜」
などといってやがるんです。。
はっきり申しまして、
「気持ち悪いんじゃ〜〜〜!!!ぼけっ〜〜〜〜!!!」
「おぇ===〜〜〜・・・・・」
って感じで、寒気がはしりました。
何を勘違いしてるのやら・・・とkazyuは感じました。。 |