読書メモ
・「信長は本当に天才だったのか」
(工藤健策 :著、草思社 \1,600) : 2010.04.21
内容と感想:
著者は織田信長に関する現代の評伝や歴史書、研究書の多くは、「失敗や欠点には触れずに、ただひたすら、「信長は天才」と賞賛している」と批判する。
一級史料として知られる太田牛一の「信長公記」でさえ、信長の失敗、欠点を指摘しており、そこには「信長の真実の顔が見え隠れする」と著者は捉えている。
本書はタイトルにもあるように、ことさら信長を賞賛する風潮に疑問を持った著者が、改めて史料等を検証し、真実の信長像に迫った書である。
「あとがき」でも書いているが、信長のような「歴史上の人物の欠点や非道を隠し、史実をゆがめて、一方的にほめたたえて天才にしてはならない」と厳しい。
また、現代であっても政治リーダーに権力が集中すれば、数多くの虐殺をした信長のような「政策が実行される危険性はある」とし、
「拡大主義や独裁主義の肯定につながる危険」を指摘している。ヒトラーを生んだドイツも然り。
民主的に選ばれた政権であっても、独裁政権化する危険性があることを肝に銘じておく必要があることを歴史は物語る。
目次を見ると気付くのはほとんどが合戦に関する分析だ。
信長の生涯が合戦の生涯であったから当然ではある。
それらの合戦で信長は何度も失敗と挫折を繰り返していたことが分かる。
第四章では彼は「新たな状況に遭遇すると適切な対応ができずに失敗を重ねるが、それでも挑戦し続ける姿勢だけは変わらなかった」という。
それを支えたのは志だったのか、あるいは野望だったのだろうか。
また、第六章では信長は「気のはやる性格、冷静な情勢分析ができない欠点」があったと見ている。
第八章では一向宗徒の大虐殺について、信長は「加虐性のある精神疾患の状態にあったと見ないと、説明がつかない」、「相次ぐ戦いのストレスによるものか、
死への恐怖によるものか、失敗の多さから天下人の器量がないと知ったコンプレックスのためか、心は蝕まれていた」と分析。
つまり彼の「改革が狂気によってなされた」らしいことを認めざるを得ない。
信長の徹底した宗教弾圧で政教分離が実現したことを肯定する声があることには著者は疑問を感じている
信長の論理を認めると「平和にするためなら、いま虐殺してもかまわない」となる危険性を指摘する。
結局、暴君・信長は家臣の光秀に討たれる。光秀もこのまま信長に任せておいては日本は危ないと考えたのであろう。
独裁を認めない、正常な感覚が当時の日本人にもあったということだ。
最後に、「時代は偉大な改革者がいなくとも、改革を望む人々の熱意と合意で変えることができる」とある。
これは改めて現代の日本人にも希望を与える言葉ではないだろうか。
これを実感しやすいのは明治維新だろう。
当然、私もリアルタイムで明治維新を経験したわけではないが、維新は特定の人物が一人で為しえたものではなく、
志ある多くの人たちの熱い思いが結集し、あるときは衝突し、血も流しながら、一定の方向性を出していったのだ。
しかし、今の日本人は本当に改革を望んでいるのだろうか。私も含めどうも危機感が足りないと感じる。
これではなかなか熱意も、合意も生まれない。
○印象的な言葉
・進むべき道に迷って右往左往し、天下統一後の国家像も示すことができない
・情勢分析を誤り、戦闘の指揮に失敗し、窮地に陥った
・失敗と挫折を重ねた武将の苦悩
・桶狭間の戦いでは、篭城すれば家臣が裏切る可能性が高く、出撃するしかなかった。既に家臣に調略の手が伸びていると考えた。
奇襲でもなんでもない。雨が強くなり、今川軍の視界から信長軍を隠した。偶然であり、信長はわずかな勝機を掴んだ
・美濃攻略に7年もかかった。初めは力攻めをしていたが、調略主体に変化した。情報収集力も分析力もなかった。信長に求心力もなかった
・尾張勢が弱かったのは傭兵中心だったため。忠誠心もなかった。兵を失いながらも戦い続けられたのは銭で傭兵を補充できたから。人命の軽視につながった。
・身近に参謀を置かず信長は何でも一人で決めた
・信長は尾張守護斯波氏の家老のそのまた家臣の血筋に過ぎない(→コンプレックス)。家柄も格式もない。
・光秀はもともと野心家。義昭すら利用しようとしていた。信長の前ではひたすら従順な家臣を装った。信長は光秀の野望を見抜けなかった
・三好長慶が死ぬまで畿内は長くその支配下にあった。最大で8カ国、140万石。長慶の死による混乱が信長のチャンスとなった。
数万人の軍勢を動員できれば誰でも義昭を擁して京に旗を立てられた
・武田、上杉、朝倉には幕府を再興し、幕府を取り仕切ってもメリットはあまりなかった。古い幕府体制など無用だった
・朝倉攻めの際に浅井長政の離反で窮地に陥ったのも、情勢を見誤った結果。長政の裏切りは注進されてきたが信じなかった。浅井家には事前に根回しすべきだった。
敦賀の手筒山城には信長自ら攻め入った。上洛を果たした大名がすることではない。
・姉川合戦では陣立てに失敗し、徳川軍の奮戦で救われた。これ以降、平地で正面衝突する野戦はしなくなり、鉄砲を多く装備するようになる。
必ず勝てる状況を作ってから攻撃するようになった。多くを学んだ。その学び方は失敗を繰り返してやっと分かるというもの。
・信長は急成長したため譜代の家臣が少なかった。人材を登用した。新規の家臣にとっては信長は報酬を得るための存在に過ぎなかった。信長も彼らに重い役割を課した。
能力が無いと見れば切り捨てた、忠誠心が育つはずがない。家臣の心は離れ、信長は孤立していった。
・秀吉が長浜に築城した後、信長はそこから30キロはなれた安土に城を築く。秀吉の構想を横取りした?安土城は本願寺を攻め落とせば役目は終わる。戦のための城ではなく、
自己の威勢を諸国に示すためのもの。堅城であれば、篭城して天下に名を上げようとした家臣もいたはず。
・長篠合戦時には武田家も鉄砲の充実に努めていた。
・当時の野戦は石打ち(投石)、弓、鉄砲の撃ち合いから、槍合わせとなった。
・騎馬が有効なのは敗走する敵の追撃と、逃げるとき。楯に隠れることができない騎馬は攻撃には向かない
・武田家滅亡の原因は多くの農民兵が死んだこと。軍団が組めなくなり、農業生産力も落ちた
・一向宗徒に対しては例を見ない大量虐殺を行なった。天才ならそれ以外の方法を取ったはず
・越前の一向宗徒は内部分裂により組織だった抵抗が出来なかった。一時、本願寺の直轄領となったが地元から見れば本願寺も搾取する権力だった
・一揆持ちの国を認めても、現代の日本が「過激な宗教思想の国家」になったとは思えない
・当時は日本人の半分以上が一向宗徒といわれた
・本願寺の指導者も世俗にまみれ、門徒に戦いを強制するだけ。乱世に農民らが夢見た仏の世界を作り出すことはできなかった
・佐久間親子らに対する折檻状の内容は信長の狂信性、狭量さを表わす
・軍役を負担する者は武具も兵糧も自弁。それでも労役に加わったのは寄親の武将の強要と、戦場での金品略奪の利益があったから
・家康は信長の恵林寺虐殺の一件で、誰もが「信長のやり方はおかしい」と考え始めた、と読んだ。暴君はいつか自滅する、と読んだ。
・光秀も信長が天下を治めることになれば、全てを狂った独裁者が決定することになると不安に感じた
・当時、近江、山城、大和、美濃、尾張など信長の分国には十間(30m)以上の巨木はなかった。遠く平安京の昔に伐採されてしまった
-目次-
桶狭間の戦い
美濃攻略戦
上洛戦
金が崎の退陣、姉川の戦い
三方が原の戦い
浅井・朝倉攻め
長篠の戦い
一向一揆戦
本願寺包囲戦
折檻状
武田攻め
本能寺の変
情報・謀略戦
安土城
|