読書メモ
・「知られざる「吉田松陰伝」」
(よしだみどり :著、祥伝社新書 \760) : 2010.05.05
内容と感想:
「宝島」や「ジキルとハイド」の作者スティーヴンスンが松陰について書いていた!本書はそれを発見した著者の謎解きの書である。
松陰より20歳下のスティーヴンスンは会ったこともない彼に心服していたようだ。
スティーヴンスンの人生も波乱万丈であったが、自分の人生に彼を重ねて見ているようでもあった。
松陰の通称は吉田寅次郎。
スティーヴンスンが「人物と書物に親しむ」という本の中で「吉田寅次郎」という短い伝記のような文を書いている。第1章にはその文章の全訳が掲載されている。
スコットランド人のスティーヴンスンはエディンバラ大学にいたとき、日本から来ていた正木退蔵から松陰の話を聞き、のちにその感動を文章にしたのだ。
正木から聞いた話とは「愛国と冒険・苦闘の連続と、希望と挫折の物語」だったという。
正木は松陰の門下生でもあり、明治12年に出張で渡英していたときに、スティーヴンスンと会ったらしい。
松陰は幕府老中・間部詮勝襲撃計画に失敗し、投獄され、処刑される。
辞世の詩を残しているが、
そこには「日本を救う大事はこれからという時に、死なねばならぬ我が身の運命」の嘆きが込められ、
彼は「想像を絶するほどの悔恨と無念さを噛み締めていた」ようだ。
スティーヴンスンの文には、投獄された松陰に同囚のクサカベなる人物が、刑場に向かう前に残した言葉「瓦となって残るより玉となりつつ砕けよや」が書かれている。
その言葉はスティーヴンスンの人生のモットーとなった。
実は、その言葉は松陰が処刑される直前に同じ牢獄にいた高松藩士・長谷川宗右衛門のものだったが、正木が勘違いして語ったもののようだ。
そしてスティーヴンスンは「生きる力を与えてくれる日本の英雄の話」として、「吉田寅次郎」を書いた。
終章では著者はスティーヴンスンと松陰の共通点をこう書いている。
「誰にも分けへだてなく、彼らの深い教養をまるで太陽の光のように惜しみなく人々に与えた。存在するだけで人々の心を明るくし、
眠っているような魂を目覚めさせることができた」。
松陰を描いた本はこれまでにいくつか読んだが、本書は意外な視点から書かれたもので、非常に興味深かった。
松陰の人物像をスティーヴンスンは正確に伝えているし、私の松陰に対するイメージはいささかも揺らぐことはなかった。
幕末の日本という、遠い異国の一人の人間の生き様が、外国人を感動させ、その人生にも大きく影響を与えた、というのは面白い。
○印象的な言葉
・吉田松陰の行動力、激情。反逆。高潔な志に忠実。最高のもののために戦う。外国の軍事力を羨ましく思うと同時に、彼らの文化をも羨望。彼らと対等になりたい。
観察能力、観察の習慣。憂国の士。予言的魅力、明るい光を発散するかのような説得力。不撓不屈の精神、柔軟な心。感化力。事態の切迫、確信の激烈さ。
すべてを日本のために捧げた生涯。知性のみが自由だった。知性で対抗する刀を磨いた。きらきらした眼、火のような弁舌。門下生には弟のように接した。
・「二十一回猛士」は判じ文字。生家の姓「杉」、「吉田」を分解したもの。寅次郎の「虎」の徳は猛。
・温かいもてなしには、返礼の挨拶の詩を残す
・魂が不遇によって打ち砕かれたりしない
・勇気をもってしたころの結果が悲劇的であったとしても、その失敗は成功と違わない(ソロー)
・安政の大獄:最も聡明で活動的な人物たちが減った
・スティーヴンスンの世界観:弱き者や小さきものの立場からものを見る
・19世紀末のイギリスの都市は石炭の黒煙の公害。心と空気が澱んだ時代。
・1840年のアヘン戦争後、1860年代のイギリス議会では自由貿易主義と反植民地主義も少数派ながら台頭しはじめた
・1707年にイングランドに併合されたスコットランド。イングランドではスコットランド人が就職差別された
・本を読み、字句を研究している場合ではない、世界情勢を広く観察すべき
・名誉や利益を目的としない純粋な学問
・偽善的生活や物質主義に偏った社会の腐敗を直視し、古い慣習にとらわれずに自然と芸術を愛し自由に生きようとする
-目次-
序章 なぜ、世界最初の吉田松陰伝が英国で
1章 スティーヴンスン作『ヨシダ・トラジロウ』
2章 誰が文豪に松陰のことを教えたのか
3章 どうして伝記は封印されていたのか
4章 松陰伝がサンフランシスコで執筆された理由
終章 スティーヴンスンが日本に残したもの
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