読書メモ

・「坂本龍馬の「私の履歴書」
(八幡和郎 :著、ソフトバンク新書 \730) : 2010.05.16

内容と感想:
 
小説や大河ドラマでは美化されすぎている坂本龍馬。明治維新の立役者、ヒーローのように捉えられているが、誤解も多いようだ。 本書は自伝形式で書かれ、人間くさい、よりリアルな龍馬像が示されている。
 「竜馬がゆく」、「龍馬伝」等で描かれている内容の誤りも、「私とは関係ない」とか「事実でない」、「そんな憶えもない」などと一人称で指摘しているのが面白い。 「竜馬がゆく」が書かれた頃には知られていなかった事実もあるだろうし、小説では面白おかしくフィクションを挿入することもあり仕方がない部分はある。
 第六章では京都・近江屋で暗殺される場面が描かれる。 もし暗殺されていなかったらその後の歴史は変わっていたかと著者は問い、龍馬に「大きな流れでは違いはなかった」と語らせている。 既に大政奉還は実現され、新しい政体の確立に向けて世の中は動き始めていた。 明治新政府に呼ばれたとしても役所勤めは向かないと言わせている。なるほどそうだったかも知れない。
 「おわりに」では、龍馬は「独創的な思想家でも、すごい人格者でもない」といい、 彼の素晴らしさは「チャンスを上手に生かす」、「問題を軽やかに登場し理屈より行動で示すことで解決したこと」にあったと書いている。 「触媒」の役割、あるいは野球ならピンチヒッター、リリーフピッチャーにも例えている。 自由奔放に見えながら、オープンな心で他人からよく学び、天下国家のことを思い、自分がやれることを考え行動した人物であった。

○印象的な言葉
・坂本家は金で身分を買った。長宗我部旧臣ではない。経済力があれば郷士になれた。土佐で郷士が冷遇されていたのは事実ではない。上士との対立はあった。
・「藩」という語は江戸時代には公式には使われなかった。脱藩という言葉もなかった。郷士の次男坊だと単なる無断出国にすぎない
・大政奉還は龍馬のアイデアではなく、以前からいろんな人が議論していた
・龍馬はひどい近視だった
・龍馬の名は「馬の形をした龍」(中国の霊獣)
・江戸時代は商工業者に課税するノウハウがなかった
・町人の旅は自由だったが、農民には難しかった
・岩崎弥太郎は神童として知られ、権力にも食い込んでいた。後藤象二郎らと、土佐の参政・吉田東洋の側近でもあった。 長崎で土佐商会の財務担当だった頃、龍馬からたかられた。海援隊の財務も監督した。
・1854年、土佐では南海地震が発生、津波にも襲われた。そのとき竜馬は土佐に戻っていた
・山内容堂は日和見だった
・龍馬の「脱走」は家族に迷惑をかけないため。
・1863年、勝海舟に頼まれ、越前・松平春嶽に金策に行く。そこで横井小楠、三岡八郎(由利公正)にも遭う
・タイミングを見計らうのが信条、死ぬことに美学は感じない。仕事ができたのは、命を大事にしたから
・世界を横行したらそれなりに眼を開く。天から受けた知を咲かさないといかん。海外にいくかも知れなかった
・蝦夷地開拓計画:諸国において領地の加増は期待できず、人口は増えていた。蝦夷地をフロンティアとして期待。国防のため。浪士の追い出し対策。
・新撰組:超法規的で無茶苦茶な警察活動
・1864年、四カ国艦隊が下関を砲撃。停戦交渉で高杉晋作が土地の租借を断固拒否し、名を上げた。欧米と戦った薩長は外国からも評価された
・亀山社中:薩摩の海軍の一部でもあり、政治工作部隊でもあった。活動資金は自分で稼ぐ
・薩長同盟は龍馬の独創でも彼一人の功績でもない。中岡慎太郎、土方楠左衛門らが熱心に動いた
・新井白石は「天皇家は山城の小領主」と言っていた
・1867年、大政奉還後、象二郎に頼まれ、越前へ。春嶽に上京を促す手紙を託された。三岡八郎と会談

-目次-
第1章 高知城下で富豪の次男坊として生まれる
第2章 学問は苦手なので江戸にスポーツ遊学
第3章 勝海舟先生の秘書から薩摩に移籍する
第4章 薩長同盟で私にしかできなかったことは何か
第5章 海援隊と『船中八策』についての真相は
第6章 龍馬が生きていたら歴史は変わったか