読書メモ

・「信長軍団に学ぶ処世の法則
(加藤廣 :著、PHP研究所 \1,400) : 2010.08.01

内容と感想:
 
著者が小説「信長の棺」を出したのは何と74歳(2005年)のこと。 本書はこれが売れる以前に人事関係の雑誌に連載していたものをまとめた本。 信長軍団の武将たちの「処世術」、生き方に迫り、現代ビジネスパーソンが「企業組織で生き残っていくためのヒント」を読み取っている。 子飼いの代表・柴田勝家、準子飼いとして秀吉、中途採用者として光秀と荒木村重らを主に取り上げている。 言い換えれば、「中間管理職の処世術」の本である。
 「個々の武将に対する視点は、文筆だけに生きてきた歴史小説家たちとは一味も二味も違ったものになっているはず」と、 作家転身以前のビジネスの世界での実務経験から来る自負を「まえがき」に書いている。 戦国時代は成果主義、能力主義だった。特に武人は、明日は命はないという環境で必死に生きようとしていた。 そういう意味では単純に現代のビジネス社会と同列に比較してよいのかとも思う。
 北陸での上杉家との戦いの際に、 方面軍の軍団長である勝家と、後詰に派遣された秀吉との諍いは、主君を同じくする組織内での権力闘争、出世競争であった。 企業内でもありそうな話だ。 急成長する秀吉が面白くない勝家が、彼の弱体化を狙って、精強で知られる上杉軍に秀吉軍を直接ぶつけさせると見て、 秀吉は骨折り損はしたくないと戦線離脱、勝手に帰国して、信長にも責められる。それでも、上手く言い逃れして、別の戦いで挽回し、首をつないでいる。
 第七章では秀吉の処世術の見事さを二点挙げている。
 〜上司選びの視点、危機に際しての水平思考
水平思考とは「第三の道を捻り出す思考」だとする。 合戦で敵の攻撃に晒されると同時に、組織内では ライバルの出世に対し嫉妬し、足を引っ張る者たちによって窮地に追い込まれることもある。 そうした中で秀吉は第三の道を探ることが出来たのが並の同僚たちとは違った点のようだ。 そういえば最近、菅首相が「第三の道」云々と発言していたが、秀吉のような妙案を果たして捻り出せるだろうか。
 複数回に渡る一向宗徒の大虐殺に嫌気がさした武将たちは、信長の支持に従わず生け捕りにしたという。 徐々に暴君・信長から部下たちの心は離れていった。
 村重が謀反を起こしたときに、改心するよう説得のために向かった黒田官兵衛の息子を人質に取った信長は、 官兵衛が戻らないのにキレて、秀吉に人質を斬るよう命じたことがあった。 このとき秀吉は人質を隠した。これも命令違反だ。信長は怒りに任せて、秀吉に懲罰を与えそうなものだが、 ここも秀吉は乗り切っている。織田家の出世頭の秀吉を切ることはさすがの信長にも出来なかったのだろう。甘いといえば甘い。 「信長はダメ上司」という本が書けそうだ。
 著者は光秀の謀反に対して、 「単なる私欲で天下を取ろうとするような野心家」ではないとする。 それは「良識と勇気のある信長の家臣なら誰もが行なわなくてはならない正道だった」と擁護する。 「秀吉が仕切りに主君親子の中国遠征への参加を求めていた本心」は「親子を抹殺する陰謀の可能性」もあるとしている。 都から離れた最前線で戦死したように見せかけようと考えていたかも知れない。
 信長のような危険な上司に対しては、 「一定の間隔を置き、必要以上に中に立ち入らないこと」、 もし間隔を置けないような状況にさせられそうになったら「仮病を使ってでも逃げるべき」とアドバイスする。 その距離感のとり方が秀吉は絶妙だったのだろう。信長のような上司が現代にいかほど存在するのかは疑問だが。
 信長の人材登用のうまさが評価されることがあるが、競争させて、有能な者は抜擢して、こき使っただけとも言える。 人事をテーマにしている本として、いま「歴史から学ぶとすれば」として、 能力主義については「今のような安易な判断基準は持てない。もっと深い、洞察力を要する」、謙虚さや「個性を尊重した多角的判断」を加味するべきで、 人間観の根底には愛情も必要だと語る。残念ながら信長にはそうした視点は欠けていた。
 最終的に、信長は上司の器の限界を露呈していき、 光秀という良識と勇気のある部下の反逆にあう。ワンマンオーナーの孤独である。経営者はどう処世したものか?

○印象的な言葉
・40歳で組織とサラリーマンの限界を知って脱サラを考え、二足のわらじを履こうと決心。10年計画で二足になるように。複線人生
・口先だけのアドバイザーでなく、経営者と一緒になって苦労するコンサルタント
・精鋭ばかりでは組織は活性化しない。バランスよく人材を採用
・中高年の再教育は企業の務め
・兵農分離、楽市楽座は地域の事情。三大河川による氾濫により尾張は米作に向かなかった。租税の多くは米ではなく絹だった。男手は要らず、男を通年兵力として使えた。 兵農分離は政策ではなく事実としてあったもの。絹を最大の消費地・京都に安く、迅速、安全に輸送するために、京都への道筋を支配しようとした。楽市楽座もその結果。
・信長を精神病理の視点から分析
・水平思考で第三の道を探る秀吉
・信長は人の意見は聞くが、最終判断は自らした。民主独裁制。オーナー経営者
・和を尊ぶと意思決定が遅くなる
・自由という名の不安。そこからの遁走としての共同体志向。慣れと諦め。未熟な個を主張する不安からの逃避。組織は効率的になり、勇猛軍団となる。参加者は自虐的傾向を帯びる。 それはやがて組織自身や個人を傷つける。組織は硬直し、競争から脱落。個人は組織にしがみつく。
・アメリカの管理職は部下の仕事を細部まで把握。複数の専門職の観。年功特性は引き続き保持・蓄積される
・日本の専門職軽視。出世コースで遅れをとりやすい仕組み
・中高年層に年功賃金を維持してやるのは企業に果たしてきた役割からも礼儀。それが駄目なら年功特性を付与させるための余裕期間(再教育)を与える。
・「平」がつく年号は247の内に7つある。いずれも疫病、凶作、大乱の時代
・ファブレスな情報産業。製造立地、在庫、流通などの制約が少ない
・歴史学者や時代小説家の歴史観の欠陥は、科学的診断の無視からきた。サラリーマンをミスリードした。(→良い面もあったのでは?)
・信長の過大評価:時代の流れへの便乗、経済学の基礎知識の不足、精神構造の医学的分析の欠如
・雨月物語(1776年):信長は信玄の智に及ばず、謙信の勇に劣る
・戦前の日本の植民地経営は欧米の真似
・占領軍のパージでかろうじて残った財界の三等重役たちは家康を再評価。縮み思考の家康礼賛。
・尾張兵の弱さは耕地への土着性が乏しかったから。そのため鉄砲へ傾斜
・「現代史を支配する病人たち」:英雄17人を病人としている
・勝家は信長に、人生の先輩として、部下の代表として物を言わねばならない立場
・家康は一向宗討伐を嫌った。三河には一向宗が浸透
・一向宗の同胞精神、「仏法の元における平等」。当時、西欧でも芽生えていなかった近代平民思想。信長はこれを危険思想とした。一向宗が近代派、信長が守旧派。

・山中鹿之助の一徹な忠義。私心のない心の持ち主
・戦いの心を情で曇らせるのは避けるべき
・本願寺との戦いに勝利が確定すると、秀吉は自分が信長より器は上だと思い始める
・裏で密かに若手をバックアップする度量。己の分を心得て生きる。
・村重は利用するつもりで信長に近づいたが、自分が利用されていることにすぐに気付く。謀反の時期を失した
・本能寺の変の翌日あたりが誠仁親王の二条新御所転居、親王の息子・興意法親王を信長の猶子にすること、正親町天皇退位の3つの要求の回答期限。
・当時、孟子の革命思想は普及していた。革命を目指す信長を恐れる朝廷は逆賊信長を討つ忠臣の出現を求めた。光秀は朝廷の要請を待っていたはず。
・光秀の謀反の前の愛宕山での連歌会は謀反の決意表明などではない。信長側近と交流の深い人たちも参加していた。
・信長は極端に無駄を嫌った。中高年の痛みを考慮しなかった。家臣たちは常に緊張を強いられた
・焦るイライラ型、落ち込む挫折型、開き直り型の中高年サラリーマン
・欧米では階層別に異なる生活を棲み分けしている
・基礎教育ができていないと一人前になるまでに時間がかかりすぎる
・自分のような不完全な人間が人間を評価できるのか。評価における過ちに対する予防措置を講じるべき

-目次-
序章 ビジネス戦国時代をいかに生き抜くか
第1章 破天荒な上司、信長
第2章 子飼いの幹部、柴田勝家の立場
第3章 年功序列から能力主義へ
第4章 孤立する秀吉
第5章 信長が断行したリストラ
第6章 自分の生き方に目覚めた荒木村重の謀反
第7章 良識と勇気のある部下が辿った道
終章 歴史に学ぶ「組織を生きる」処世術