読書メモ

・「織田信長 最後の茶会 〜「本能寺の変」前日に何が起きたか
(小島 毅 :著、光文社新書 \780) : 2010.07.05

○印象的な言葉
・信長は光秀に京都の他の人物(天皇)を襲撃させるために呼び寄せた(円堂晃)
・本能寺には公家たちがほぼ勢ぞろいしていた。五摂家を初め主要な公家の当主がみな参集した
・博多と堺の対立
・唐様の安土城。信長の中国趣味。信長の誕生祝いは中国伝来か
・坂本龍馬は(いい加減な連中の多い幕末志士の中でもとりわけ)計画性のない、思いつきに頼る、場当たり主義な男
・信長には中世的な教養がなかった。それが劣等感。開き直ってモダニズムの方に行った(司馬遼太郎)
・朝廷をないがしろにした鎌倉幕府や室町幕府。戦国時代は私利私欲に明け暮れるものが多く、幕府をないがしろにした
・信長の実力は正しき名目、兵力、財力の三要素の合体。抜け目のない外交かであり、巧妙なる宣伝者。仁者でもなく仁政者でもなかったが善政者であった(徳富蘇峰)
・平泉澄:一般向けのわかりやすい日本通史「物語日本史」。英雄的人物の伝記を連ねた
・司馬が書く信長に欠けているのが天皇。背景にあるのは戦争体験。信長の勤皇家としての側面を意図的に封殺・封印
・司馬は坂本龍馬の扱いでも天皇との距離を置く。彼を尊皇攘夷から大きく外れて描いた
・明の皇帝から任命された「日本国王」のほうが天皇より格上と認識されていたかも知れない
・天皇は旧王、日本国王は覇王(保立道久)
・一次史料を曲解せず素直に辿る行為は危険。だまされる恐れがある。表に現れる記録では笑顔で握手していても、裏では憎しみあっているかも知れない
・当時は生前譲位より在位崩御が伝統となりつつあった。正親町天皇はそれを意識していた(→信長は強引に譲位させたかったことになる)
・義満暗殺(※著者の説)の黒幕に摂関家の人物がいたかも知れない
・室町時代、五摂家は形式的には天皇の臣下だったが、実質的には将軍に服従。内大臣といっても特に職務はなく、家柄の格を示すだけだった
・有力戦国大名の城下町のほうが京都より棲みよいと感じた公家たち。生活に困窮して都を離れた
・19世紀後半の討幕にまで続く、近衛家と島津家との連帯
・朝廷と摂関家の権威の象徴は公事(くじ)。年中行事、祝祭カレンダー。暦は彼らの生命線
・光秀と家康が同盟者となって信長を葬り去ろうとした?
・なぜ信長は家康を堺から呼び戻して、公家たちと一緒に自慢の茶器を見せてやらなかったのか?家康は信長の勧めで堺に向かった
・禅僧こそ乱世の陰の主役(小和田哲男)
・信長以上にどうしようもない独裁者・秀吉
・戦国時代、関東は暦を京都とは別のものを使用。金貨主体の江戸、上方は銀
・遣明使という術語は一般には使われていない。義満の朝貢が忌むべきものとみなされてきた。天皇の存在をないがしろにして強引に進めた屈辱外交として忌避された
・義満は倭寇の消滅に貢献。合法的な交易活動に参与させることで。
・秀吉の海賊取締令により東アジア海域の交易活動を強大な軍事力により統制し、富の独占に成功
・銀の産出・精錬がさかんになり購買力が向上、桃山文化を生んだ。明では銀が主要通貨として流通、ポルトガル商人も故国で銀貨を使用
・西国大名は京都よりも中国大陸や朝鮮半島を向いていた
・東アジアの共通書記言語であった漢文
・生殖や出産における月の力
・当時の中国・明王朝が定めていた暦が世界基準だった。京暦とも三島暦とも異なっていた。日本の暦は唐から輸入した宣明暦。中国ではその後も観測精度の向上などで何度も改暦を実施。 しかしそれは日本には導入されなかった。
・禅宗は見ようによっては無神論ともいえる。仏とは自己の心の中に存在する、と説く

<感想>
・三職推任問題で信長は朝廷からの使者になかなか会おうとしなかったのはなぜ?

-目次-
プロローグ ―本能寺の変とその前日
第1章 信長はどう描かれてきたか ―天皇との関わり
第2章 本能寺の変の黒幕候補たち
第3章 永楽銭、石見銀山、倭寇 ―東アジアの経済交流
第4章 安土城、名物茶道具 ―信長と唐物
第5章 東アジアの暦と太陽暦、太陰暦
第6章 明暦と日本
第7章 宗教と信長王権
エピローグ ―そして太陽暦が採択された