読書メモ
・「【信長の戦い@】桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった」
(藤本 正行 :著、新書y \760) : 2009.06.29
内容と感想:
既に著者は1982年に桶狭間合戦における信長の奇襲が後世の人間による創作だと指摘。
本書は信長の戦いをテーマに三部作を予定して書かれた一作目。
そこでは「信長という人物と、その生きた時代の戦いの実相、人々の価値観などを述べたい」としている。
本書では改めて桶狭間合戦の信長奇襲説を否定し、
テレビの歴史番組でもお馴染みの小和田哲男氏の一般社会に対する影響力の大きさと、彼の発言が「歴史の常識」となっていることの問題点についても指摘している。
また、「甲陽軍鑑」を典拠とした新説「乱取状態急襲説」等にも反論を行なっている。
第一章では「信長は最初から、疲労している敵に新手の自軍をぶつけ、そこに勝機を見出そうとしていた」のだと主張する。
それは何も著者のオリジナルな説ではなく、
義元の「前軍を攻撃し、撃破された前軍の混乱が後方の義元の本陣に波及、全軍総崩れになった」と素直に「信長公記」(首巻)を読んでいるだけだ。
奇襲説を説く戦前の陸軍が作成した「日本戦史」では、奇襲に際して貴重な情報をもたらしたとして簗田政綱が最高功労者としたが、
奇襲が事実ではなかったとする著者から見れば、それは「日本戦史の編者の勝手な思い込み」であったことがよく分かる。
簗田が合戦後に恩賞として得た領地は単に、簗田の激戦の結果に対するものと著者は考えている。
「おわりに」では史料としての「信長公記」を自説に都合よく誤読する研究者に対して、
「先行研究者の努力に対する敬意や、自身の研究に役立つ情報を提供してくれた人々への感謝の気持ちが窺えない」と苦言も呈している。
著者の「偽書・武功夜話の研究」や「信長は謀略で殺されたのか」などを読んだことがあるが、失礼な言い方かもしれないが、いたってまともで
説得力のある意見であり、奇をてらうような姿勢もなく好感を持っている。
○印象的な言葉
・「信長公記」には桶狭間合戦、長篠の戦いについて世間の常識とは全然別のことが記されている
・主力決戦はめったにない。それも午後に起きた例は珍しい
・義元の目的は上洛ではなかった。三河守任官と軍事示威的行動、領土拡張説。
最初から清洲城を力攻めするような無理をしてまで織田家を倒そうとしたとは考えにくい。
信長としても義元軍にある程度の損害を与えれば、当面の危機を回避できると考えた
・桶狭間合戦直前、先陣を命じていた家康を前線から下げた。義元はこの後の主力決戦を予想していなかった
・攻城戦では情勢不利と悟った城側は交渉により開城するのが普通。城を枕に討ち死にというのは稀。
・桶狭間合戦の奇跡的な勝利で「俺はなんでもできる」と異常な自信をつけた信長
・義元の三河支配の不安定さを考えると上洛は考えにくい。三河一国の完全支配、更には尾張への領土拡張の宣言
・信長は「決断を秘し、戦術に巧みなり」(フロイス)というのは、彼に接触した織田家関係者たちに共通
・歴史研究者が心がけるべき批判的な姿勢
・甲陽軍鑑は記述の正確度については「信長公記」には及ばない。成立時期は信長公記より早いが、明治以来、無視ないし冷遇されてきた。
桶狭間合戦に関する記事が20ある。
・「武功夜話」では前野小右衛門と蜂須賀小六が桶狭間合戦で義元に罠を仕掛けたことになっている
・信長は桶狭間合戦までに、しばしば寡兵で大軍を破っていた
○ネタ
・義元の領土拡張ペースを調べれば彼が上洛を目指していたかどうかはっきりするはず
-目次-
第1部 桶狭間の死闘は正面攻撃だった!
第2部 戦国合戦の「定説」を疑う
第3部 桶狭間をめぐる「新説」の登場
第4部 「迂回奇襲神話」の誕生と参謀本部
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