読書メモ
・「歴史と出会う」
(網野善彦 :著、新書y \660) : 2009.08.08
内容と感想:
著者は網野善彦(2004年に亡くなられた)となっているが、彼が書いた本というよりは、「出会い」をキーワードに
彼の評論文や対談などを寄せ集め、構成した本である。縄田一男や北方謙三、宮崎駿との対談もあって興味深く読ませてもらった。
V章の冒頭では意外にもアニメ映画「もののけ姫」に対する評論が書かれている。
網野はこの映画を次のように観た。人間は自然を殺して生きてきた。「しかし自然はそんなにヤワなものではありませんから、
殺しても殺しても生き返る強靭な生命力を持っている。人間自身もそれは同じだ」ということを表現していると。
自然も、その一部である人間も逞しい。だからといって人間が反省もなく、従来どおり自然破壊することを認めているわけではないだろう。
W章では学問のあり方について次のようなことを言っている。急速に変貌しつつある日本社会において学問がなすべきことが多いと言い、
「狭い専門領域にとじこもっていてのでは、もはやこの状況に対応できない」「異なった学問の間の緊密な協力」が必要としていると。
逆説的ではあるが、そのためにも「自らの方法を一層鍛え、独自な分野を深く掘り下げる」ことが求められるとし、
そうなって初めて真の交流や協力が達成できるとしている。
ますます複雑化する世の中で一人の人間に出来ることは限られている。だからこそ各自が得意分野ごとに役割を分担し、協力し合うことで、
効率的になり、新たなアイデアや相乗効果も現れてくるだろう。
これは学問の世界だけの話でなく、ビジネスの世界や公的なサービスなどでも同様だろう。
社会を良くし、幸せに生きていくためには皆が持つべきマインドである。
○印象的な言葉
・「日本の歴史」シリーズのようなものを全巻読む。歴史の流れをおおまかに掴む、通観する。
・わからないことは無限にある
・北海道は殆ど能登の人が開発したようなもの。伊勢の漁民も多い
・海も自然も誰のものでもない。無所有が本質
・民俗学者は文献に頼ってはいけない。自己を十分に確立しないまま、文献史料の扱い方を知らないままで、文献に頼ってはいけない。
文献のみに閉じこもってはいけない。フィールドワークを積み重ねる
・学者の本を読むときは、なるべく年次を追って読む。人の意見はどんどん変わっていく
・明治政府は国民国家をつくるために偽りに満ちた日本社会の虚像を作り出し、日本人に刷り込んだ
・惰性を合理化しながら先へ進んでしまう。それが間違いや傷口を大きくする
・職能民、移動・遍歴する非農業民
・一人の男の生きる姿勢が文章に貫かれていればハードボイルド小説
・南北朝時代、日本列島を短期間に東西に大軍が広範囲に動いた。九州自立、東北自立という地域的な動きがあった
・「生きる」ことは何かを殺すこと。人間も自然を犠牲にして生きてきた。今、自然からの復讐を受け始めている
・アジール:世俗の世界から縁の切れた聖域、自由で平和な領域
・昔、日本の本州の西半分は照葉樹の森だった
・江戸時代になっても百姓はみな腰刀を持っていた。鉄砲だってあった。百姓の中には商人や職人など色々な人がいて、農業はその中の一つにすぎない。
・士農工商はイデオロギーであり、実態ではない。基本は武士と町人と百姓の3身分。職能民などは別の身分。
江戸時代の農民は多くて人口の4割。一向一揆を支えていたのは都市民。
・室町期以降、山伏が鉱山を見つけて歩いた
・日本の地名には「森」はあまり出てこない。林や山が多い。平地の林も「山」と言っていた。
・栗の木の栽培は縄文時代から
・南北朝期が日本の時代区分上の画期。天皇の地位の変化もこの時代。
・ペリーが来る前から19世紀に米国の捕鯨船は日本海に来ていた。対馬や松前などにも上陸
・主流になろうとするな、傍流であればこそ状況がよく見える。主流になれば多くのものを見落とす。その中に大切なものがある。
・人の喜びを自らの喜びとする
・コメ中心、農業中心のこれまでの歴史、社会に対する見方に異議
-目次-
1 名著との出会い
2 歴史と小説の出会い
3 中世史と映像の出会い
4 出会いと別れ ―追悼記
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