読書メモ

・「道元の考えたこと
(田上太秀:著、\900、講談社学術文庫) : 2004.04.10

内容と感想:
 
言わずと知れた曹洞宗の開祖・道元はどんなことを考えていたのか?仏教学が専門の著者が道元の著書「正法眼蔵」、彼の高弟・懐奘が編纂した「随聞記」から、道元の本音を探り、彼の思想の重要なものを分かりやすく説く。まえがきに書かれているように、道元のイメージは「坐禅一筋の宗教家であり、修証一如の実践家」であり、「厳しい、近寄り難い、冷厳な宗教家」である。彼をよく知らない私のようなものでも著者と同じような印象をもってもしかたがないほど孤高の思想家・哲学者と思われる。私の実家が永平寺のある町に近いこともあり、道元という名には親しみを覚えていたが、彼の思想をまだまだ理解してはいない。彼のことを書いた本や禅の本なども過去に読んでは見たものの、まだ腑に落ちない、自分の中で消化されていない。日常に流されているうちに読んだことも忘れる。そしてまた思い出したようにタイトルに道元という名を冠しているだけで本書を手にとる。今度は彼の本音に近づくことは出来るだろうかと思いながら読む。
 興味深いのは道元の建前と本音を著者が厳しく突いている点があちこちに見られることである。本音では出家信者しか成仏できないという出家至上主義でありながら、一方で在家の者でも仏法に親しみ、体得できるという立場でもある。また、釈尊は成仏するのに男女の差別はないと説いていているにも関わらず、それは正法でなく、(女性は成仏できないという)”女身不成仏”という女性差別的な思想を道元は信じていたようである。
 輪廻という思想がある。現代の仏教は葬式仏教だと私は捉えているが、その変わり果てた姿を釈迦が見たら腰を抜かすだろう。実は釈尊も「死後の存在について論じるのは現世で解脱を得ることとは何の関係もない」という現世と死後が断絶しているという立場であったらしい。確かに先祖や肉親を供養することは大切だが、それは仏教本来の姿ではないと私も感じている。仏教は心の問題を扱う宗教であり、儀式的なものを重視すべきではない。これは「8 坐禅が供養の信仰」でも取り上げられている点で共感できる。
 著者の突っ込みの鋭さは「本当はどれが正しい仏法であり、(略)・・見極めることに困惑した」、「正伝の正法と力説するあまりに、(略)・・基準をなにに求めればよいか、かれ自身、最後までわからなかったのではないか」に現れているが勿論、真意は道元を批難するところにはない。
道元は幼少の頃に両親に死別し出家した。「父母へのすべての想いも願いも儚いと自覚したとき、仏門における師を自分の父母と考え」たと著者は想像する。やはり道元の厳しさは幼少の体験が根本にあるのではないか。

-目次-
1 坐禅への信仰
2 礼拝への信仰
3 滅罪の信仰
4 本願の信仰
5 宿善の信仰
6 出家至上の信仰
7 輪廻業報の信仰
8 坐禅が供養の信仰
9 女身は不成仏の信仰
10 行儀作法の制定
11 恩愛を超えた信仰

 曹洞宗も勿論、仏陀の教え・仏教の流れを汲む宗派である。道元も自分こそは仏陀の真の教え「正法」を正当に継承するものという自負があったようである。ひたすら「坐ることで心身への執われから解脱する」という”只管打坐”の思想は、坐禅だけが正当だという(焼香、礼拝、念仏、懺悔、読経なども不要という)、坐禅原理主義的な極端さを感じざるを得ないが、それが道元の個性でもある。あれやこれやと小難しい経典を読んだり、厳しい修行をするのもよいが、”ただひたすら坐る”というのは、念仏を唱えるだけで成仏できると言う浄土真宗にも近い分かり易さがある。
 仏教は要は解脱を目指す宗教であるから、頭で考えるだけでは駄目なのである。悟りに至るプロセスが坐禅であったり、念仏であったりするわけで、そういうプロセスに容易に自由に行ったり来たりできるようになれば解脱者と言えるのだろう(私の想像だが)。何事にも執われず、あるがままに生きる、それが出来れば生きたまま成仏できる、そうすると生きることは苦しみではなくなる、というのが仏教でいう境地であり、道元の言う”心身脱落”のようである。

更新日: 04/04/18