読書メモ  

・成美文庫「北条早雲 〜 物語と史蹟をたずねて」(土橋治重・著 \543、成美堂出版)



きっかけ:
  北条早雲は戦国大名のはしりの一人とも言われる人物である。その領土の規模からいえば駿河・伊豆・相模にわたる地域を治めた大大名といえる。しかも一浪人からのし上がったところから国盗人とも梟雄とも悪口を言われ、私自身も好印象をもってはいなかった。しかし余程のやり手だというイメージだけはあった。そんな程度の早雲の知識であったから、つい本屋でこの本を見つけたのをきっかけに、もう少しその人物像を理解しておきたくなった。
  私が通勤で使う小田急線はその名からも分かるように、小田原を基点とした鉄道会社である。その小田原は北条早雲が1495年に大森氏から奪ってから代々、拡張したという小田原城の巨大な城郭を中心とした城下町で有名である。先日、清水・熱海へ遊びにいった帰りに友人の運転する車が小田原の手前で事故って、電車で帰ることになって寄った駅がJR東海道本線・早川駅は1590年に早雲の子孫、北条氏直が豊臣秀吉の小田原攻めで攻められたときに、秀吉が一夜にして城を築いたと伝えられる石垣山の最寄り駅であり、そんな縁もある。

人物:
  さて、北条早雲の北条という姓は最初から北条ではなく(最初は伊勢新九郎と名乗っていたらしい)、鎌倉時代の執権政治を行った北条氏とは全く関係がなく、鎌倉時代の北条と区別するために後北条氏ともいわれることも恥ずかしながら今回初めて知った。

  早雲の出生は様々な説があり伊勢とも大和とも言われるが、関西の出らしく、もともと関東出身ではないらしい。唯一の関東との繋がりは、駿河の大名、今川義忠(織田信長に桶狭間で討たれた義元の2代前)の側室の北川殿が肉親(妹とも姉とも言われる)であったことだ。この縁を頼ってか偶然か、なにしろ今川家に取り入って、みるみる力を発揮、家臣にもなり、氏親(義忠の子)から57歳(1487年)で興国寺城(沼津市)を授かり一城の主となると、ここを基点に勢力を東へどんどん拡大していった。その手法は元の領主のお家騒動などに乗じた、乗っ取り的なものが主であったが、いずれにしろ実力のない領主が力のあるものに取って代わられる下克上の時代の流れからは当然の成り行きであったのであろう。

  乱波(忍者)の風魔小太郎は普通の家臣のような禄はもらわなかったが最も信頼された片腕であったらしい。

  著者の分析では早雲は軍略家ではなく、優れた政治家だったと述べている。年貢を抑えたりと領民には良い領主であったらしい。

  1519年に88歳という長寿で亡くなった後も、1590年に秀吉に攻められ滅亡するまで、氏綱、氏康、氏真、氏直とよく国を治めたようだ。57歳で一城の主となったように必ずしも若いうちに成功したわけではなかったが、当時としては高齢にも関わらず精力的に活動し、伊豆一国を切り取ったところは健康と時流を味方にしたとも言えるかも知れない。人生どう転ぶか分からない、心身の研鑚を怠らず天命を待ち、時流を掴む目も持ったそういう人物であったのだろう。

(1999.12.16)