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少々昔の話ですが、私の好きないい話。

「9.11物語

お互いを励ますようなエアーラインの従業員が書いたE-MAILが回し読みされている。
(これはデルタ航空のフライトアテンダントが書いた文章。)

フランクフルトを立ち、大西洋上空を飛ぶ事約5時間。 私は従業員用の席で、決め られた休憩時間を過ごしていた。
客席との間にしきられていたカーテンが突然開 け られ、コックピットに行くようにと言われた。
キャプテンから印刷されたメッセー ジを手渡される。
メッセージはアトランタ(デルタの本社がある)からで、アメ リ カ本土への総ての空路は閉鎖された、
すぐにいちばん近所にある空港に着陸せよ、行 き先をすぐに報告せよ、と書いてあった。

このメッセージの行き先を先導して れるはずの発信元のディスパッチャー(Dispatcher)がどこの空港に行けとも書い
て な いと言う事は、デスパッチャーがこのフライトをコントロールする事が不可能な
状 態> にいるのだと受けとれた。 私達はこの重大事のなかで一刻も早く着陸地点を探
さ ね ばならなかった。 決断はすぐに下され、いちばん近くにある400マイル(約7 4 0キロ)
彼方のカナダのニューファンドランド島にあるギャンダーだった。

即座にカナダのエアートラフィックコントローラーに連絡がとられ、すぐに許可
が お りた。 私達は緊急着陸のしたくをするように言われた。 この時もう一つのメッ
セー ジがアトランタから入り、それはニューヨークでのテロ事件を告げるものだっ
た。 他のクルーにその事を告げコックピットに戻ると、何機かの飛行機がハイジャッ
ク さ れアメリカの建物に激突をしているというニュースが入っていた。 私達は乗客
達 に アナウンスをする事にし、当座は事実を発表しない事にした。 “機のパーツに
損傷 がありチェックの為にギャンダーに緊急着陸をする” とアナウンスした。
“詳しくはギャンダーに着陸してから知らせる”とも言った。 不平を言う客は
多 かったが当然の事だ。

最初の連絡が入ってから約40分後に私達は着陸した。 世界中からの約20機
が すでに空港には着陸していた。
指示された場所に飛行機をとめるとキャプテンは “皆さん、回りにいる飛行機
が 当機同様、同じ問題があってこの空港にいるのかと不思議に思っていられるのでは
ない でしょうか。 現実はこうなのです。”そして機内で知り得たアメリカの現状を話し始めた。
乗客の顔には大きな驚きと、信じられないというような表情が見られた。
ギャンダーの時刻は12:30pmだった。 ギャンダーからの司令は搭乗者全員、機中で待機せよ。
地上の人間も飛行機に近づく事を禁じられた。時たま空港警察の車が巡回するのみ。
数時間の内に北大西洋の空路も総て閉鎖され、ギャンダーだげでも世界中から53機が着陸した。
27機 は アメリカの飛行機だった。 外国の便を優先とし一機一機、全員が機内から出る
ようにとの連絡が入る。 私達の機の順番はアメリカのエアーラインの中で14番目、6 pmに出る予定と決まる。
そんな中で機内のラジオにより、ニューヨークのワールドトレードセンターとワシントンのペンタゴンに
飛行機が追突した事を始めて知る。

皆携帯電話で連絡をとろうとしていたが、システムの違うカナダでは使う事が出来なかった。
通じてもカナダ側のオペレーターが出るだけで、アメリカへの線は混線しているか、
遮断されているかなので後でかけなおしてくれ、というものだった。
夕方、トレードセンターの崩壊とハイジャックされた全4機の墜落を知る。
乗客達は完全に戸惑い、精神的に極度の疲労をみせていたが、事件に遭ったのは
私達だけじゃない、回りを見てみなさい、と言う声によりどうにか落ち着きを保とう
と していた。 同じ状況に遭遇した53機もの飛行機があるのだ。 私達はまた“我々
はカナダ政府の保護下にある。 カナダによって救われたのだ。”とも言って励まし
あった。 6PMにギャンダー空港側から私達が外に出られるのは翌日の11AMにな
るとの連絡が入る。 乗客達はこのアナウンスを静かに受けとり、機中泊の用意をし
始めた。ギャンダーは必要な医療、水、トイレの清掃等の協力を約束してくれ、それを
守ってくれた。

幸運にもその夜、医療介護が必要な乗客は一人もでなかった。 妊娠33週間の
若い女性がいたがクルーは全員で面倒をみた。 居心地の悪い機内での一夜も何事も
無く明け、9月12日、10:30AMに飛行機から出てもよいという許可がでる。
飛行機の回りには多くのスクールバスがとめられ、それにより乗客はターミナル
へと運ばれた。 私達クルーは同じターミナルに運ばれたが乗客とは違う場所だった。
税関を通り赤十字に名前、住所、便名等を登録した。 乗客と別れ別れになった私
達は車に乗せられてギャンダーの小さなホテルに運ばれた。 乗客がどこへ行ったか
は全く解らなかった。

ギャンダーの人口は10,400人。 赤十字によると10,500人の乗客、
クルーが今回の事件でこの島に着陸したと言う。 私達はホテルでリラックスし
て空港からの指示があるまで待つように、だがその指示はすぐには出ないだろうと言
われた。 ホテルのテレビを見る事で、テロ事件があってから24時間後にこの事件
の全容を知る事になる。
町に出たり、色々な発見をしたり、町の人の好意に触れたり、なるたけくつろご
うと した。 町の人達は私達“飛行機
で非常着陸した人達“に好意的だった。 連絡は2日後の14日、 7AMに入って
きた。 空港に8:30AMまでに行き12:30PM離陸、アトランタ着は4:30P Mの予定。

私が言いたい事はこの機内の乗客達から聞いた思いがけない勇気づけられる話の数々なのだ。
ギャンダーとその周辺75キロ範囲にある総てのハイスクール、会議所、宿泊施設、
集会所は、私達を保護するために閉鎖されていたのだった。 それらの施設は総
て町 の人口以上に膨れ上がった避難民達の宿泊施設に変えられた。 折り畳みのベッ
ドの 所もあったし、寝袋だったり、ソファーのクッションだけの所もあった。 総て
の高校の生徒達は“予期せぬ客達”の面倒を見るボランティアーとして仕事をした。
私達の乗客218名はギャンダーから45キロ離れたルイスポートという町に宿
泊 していたのだ。 宿泊所は高校。 もし女性が女性だけのトイレを欲しがれば女性専
用の トイレが作られた。 家族は一緒にまとまっていた。 年をとった者は選択の余地
なく 一般家庭へと連れて行かれた。 妊娠中の女性は24時間オープンの非常ケアー
セ ンターのある隣の家庭にひきとられた。 毎日全員が1通だけの電話とE-MAILを無
料 で利用する事ができた。 滞在中全員に1日観光旅行がプレゼントされた。 選択が
出 来、ある者は湖と港のクルーズ、ある者はこの土地にある有名な森林のツアー、
ある者は私達のために特別設置されたパン焼き工場でパンが焼けるのを見に行ったり
し た。

食事は総ての住民により賄われ、学校に届けられた。 荷物はまだ飛行機内に
あったので、洗濯施設の無い所にいる者にはコインが与えられ、洗濯所までの送り迎え
をしてくれた。
言い換えれば、この不幸な旅行者達が必要としている物は総て手に入れる事が出
来るという配慮をしてくれていた事になる。 乗客達は泣きながらそんな話をしてく
れた。 そして彼ら達は1分の遅れも無くギャンダーの空港に届けられた。 ローカ
ルの 赤十字同士が連絡をとりあい、どこのグループが何時に空港へ行かなければなら
な い という情報をつねに持っていたからだ。 全く素晴らしい。

乗客が搭乗してきた時、彼らはまるで長いクルーズを終えた人々のように見えた。
それぞれの宿泊した先の話を交換し合い、いかに自分がいい待遇を受けたかを自慢 しあっていた。
アトランタに戻るこのフライトはまるでパーティ会場の様だった。
乗客達は開けっぴろげでお互いの名をファーストネームで呼んでいたり、電話番号、
住所、E-MAILアドレスの交換をしたりしていた。

不思議な事が起こった。
ビジネスクラスの乗客が私に寄ってきて、機内案内用のマイクを使わしてくれないかと言うのだ。
乗客がこのマイクを使うのは禁止されている。 私は何か直感するものがあり
“勿論、どうぞ”と言ってしまった。

彼はマイクを渡されるとこの数日皆が体験 し た事を語り始めた。
全くの見知らぬ人々を暖かく迎えてくれた土地の人の好意に対しても語った。
“ルイスポイントの善良な人々に対して何か恩返しがしたい、
DELTA15(この飛行機の便名)と言う名の基金を作ろうじゃないか。
目的はルイス ポートの高校生達が大学へ行く為の援助金にする為だ。
彼は乗客の中から寄付をつのった。

後に私達に送られてきた書類を見ると、そこには乗客達の名前、電話番号、
住所が書かれ、トータルで$14500 (カナダドルに直すと約$20000)の寄付があった事が解った。
彼がバージニアに住む医師である事もわかった。
彼は集まった額と同額の寄付をする事を約束し、
現在ルイスポイントのハイスクールスカラーシップ設立の事務的な手続きをしている。
彼はまたデルタ航空の本社にも寄付を呼びかけると語っている。

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