「荒れ野の40年」の中のヴァイツゼッカー

宮井秀人


 私はこの本を買ったその日のうちに一気に読破してしまった。なんと、平易でいて重みのある言葉の数々だろう。終始、ヴァイツゼッカーの生の声が聞こえるようであった。読んでいる間、感動と驚きで胸がいっぱいになった。
 まず感じたのはヴァイツゼッカーの驚くべき率直さである。なぜ、これほどまで謙虚に自国の罪を認めることができるのか。これが日本であれば、右翼的な思想を持った人々の攻撃を恐れて、論調が弱腰になるだろう。ところが、彼の演説は少しも弱くならないのだ。
 冒頭、今を生きる人々への気の遠くなるような細かい気づかいが示される。戦時中迫害されたユダヤ人や精神病患者、ジプシーといった人たち、戦後、故郷を失った人々、戦中戦後を通して頑張った女性たちなどなど、数えきれない人々への、哀悼や謝罪、感謝の言葉が語られている。
 このヴァイツゼッカーの演説にはしきりに「心に刻む die Erinnerung」と言う言葉が用いられる。彼はそれを「歴史における神のみ業を目のあたりに経験すること」、また「ある出来事が自らの内面の一部となるよう、これを信誠かつ純粋に思い浮かべること」と説明している。つまり、人々に「真実」から目をそらさないことを強く説いているのである。そして、ヴァイツゼッカー自ら、誰より歴史の真実を自分の「心に刻ん」でいる。これが前述の率直さにもつながるのだろう。罪を認識するにはまず、何が起きたのかを見極めなければならない。そのため、ヴァイツゼッカーはこの演説で長い時間を割いて、改めて、歴史を掘り返している。
 軍医として戦地のビルマに派遣され、過酷な状況にさらされた私の祖父は、後年亡くなるまで、私に当時の体験を語ることを拒んだ。それを、私は「歴史は掘り返すべきではないのだ」と勝手に誤解して、それ以上問いたださず、時間が経てば戦争の後遺症は全て解決するのではないか、と安直に考えていた。ところが、ヴァイツゼッカーのこの真摯な態度に触れて、その考えが大きく変わった。彼は「神のみ業の経験」が「和解への信仰」を生み出し、それを忘れるものは、「和解の芽を摘み取る」ことになると説く。そのため「われわれ自身の内面に、智と情の記念碑が必要」と説いている。忘れることは和解につながらないのだ。自らの「心に刻んだ」強固な歴史認識。この演説が感動的だったのは、むしろヴァイツゼッカーが、国家元首としてよりも、一個人の人間として、それを力強く語っているからであろう。
 彼は語る「罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関わりあっており、過去に対する責任を負わされているのです。」
 最近、ドイツの若い人の間で、「自分が生まれてもいなかった時代のナチスの行った罪までかぶりたくない」という考えが広がっているという話を聞く。日本でも同様のことが起きている。しかし、ドイツ人がカントやベートーベンを誇る限り、自分たちがヒトラーの息子であることを免れないのではないか。私たち日本人もまた同じである。
 ヴァイツゼッカーはあまりに理想主義者に過ぎるのかもしれない。その思想は、また、彼が幼いときから身に付けたキリスト教の教えから来るものかもしれない。しかし、それは私のような異教徒にも強く訴える力を持っている。私たち日本人は、罪を率直に認め、許しを請い、和解を求める理想を精一杯追求しなければならないのではないか。「現実」を語るのはその後でも良い。