優香を愛してくださった皆様へ

 

前略 生まれてからずっと未熟児集中治療室(NICU)で病気と闘ってきた優香が,6月25日午前2時10分亡くなりました。心不全でした。2歳と24日の生涯でした。

 思えば,優香はお腹にいるとき胎盤下に原因不明の血腫ができ,それと双子のように一緒に成長しました。お腹の中にいるときから生きてるのが不思議と何度も言われ,妊娠24週で604gというとっても小さな体で生まれてからも,幾たびの危篤状態を乗り越えてきた力強い生命力の子でした。
 優香が誕生した時,一緒に成長していた血腫は優香より大きく1キロもありました。血腫による大量出血を度重ね,それが原因でお腹にいる時から感染症にかかったと見られます。そのため肺の発達が標準よりかなり遅かったらしく,未熟児特有の慢性肺疾患で生まれた後も,他の未熟児の赤ちゃんのようにすんなり人工酸素がとれませんでした。
 何度かの抜管チャレンジで7ヶ月後に一度口のクダがとれましたが,鼻の下に透明のクダをちょこんと乗せたまま,人工酸素を減らすことができませんでした。
 1歳になる前にミルクをたくさん飲むと具合が悪くなることがわかり,水分が多いと心臓に負担がかかることが分かりました。慢性肺疾患が進行して肺高血圧症へ,さらに肺と心臓をつなぐパイプが余分にあり,それも疾患として扱われました。体の血管はことごとく蛇行し,細く,点滴をする回数が増えれば増えるほど針が入りにくくなっていきました。
 慢性肺疾患と肺高血圧症は対照的な治療でした。慢性肺疾患は水分をできるだけ排除する必要があり,肺高血圧症は水分を多めに必要としました。そのさじ加減が専門医でもかなり難しく,常に綱渡り的な治療でした。

 1歳2ヶ月の時,肺高血圧症の治療薬として認可されたばかりのフローランを使ってみることにしました。実験的な治療でした。1週間は調子よく過ごしましたが,その後副作用の血圧低下が見られ,フローランは中止。事実上フローラン治療は失敗しました。この時半月ほど危篤状態がつづき,再びクベース(保育器)に入り,モルヒネを使って眠っていました。おしっこの刺激も危険なためクダを入れました。
 半年ほど自由に動きがとれ一人遊びも上手にでき,離乳食をはじめていた優香でしたが,これ以降口にクダが入ったまま,人工呼吸器もついて,人工酸素の濃度がきわめて高い状態となりました。優香自身もわけのわからないままクベースに入れられたことにパニックになり,眠りから覚めた後は泣いてばかりでした。泣くと具合が悪くなるので,モルヒネを止めた後も,入眠剤,鎮静剤,安定剤を使うようになりました。
 フローラン治療の失敗から1ヶ月後やっとクベースから出た優香は,口にクダが入ったため寝たきりになりましたが,少しずつおもちゃで遊ぶようになり,絵本を楽しむようになりました。自分の置かれた環境を受け入れてくれました。

 1歳半の時,口のクダを抜く試みをしましたが,一度何とか抜けたものの,2,3日でまたクダが入りました。ミルクを飲むと具合が悪くなることが続き,ミルクをストップ。2日で600gもやせ,日に日に体の肉がとれ,痛々しいほどやせていきました。このままでは危険だと思い,主治医にミルクの再開をお願いしました。ミルクの再開と同時に,今度は一酸化窒素(NO)の治療をしてみることになりました。これはダイオキシンのもとになる有毒ガス。不認可である上に失敗する可能性もあるということでしたが,体内に入ると消えてしまうというので,他に選択肢がないため,治療せざるを得ませんでした。NO治療はまるで化学の実験のようでした。優香のベッドの後ろで実験装置のような器具が組み立てられました。のちに私の身長近い大きさのタンクが病棟に持ち込まれたときは、周囲のお母さんたちを驚かすことになりました。NO治療は2ヶ月半くらいやりましたが,幸いにも優香の体を回復に導いてくれ,ミルクの消化もよくなりました。やせてガリガリだった優香が治療が終わる頃にはふっくらしていました。しかし,この間も順調だったわけではなく,感染症にかかっては様態が悪化し,NO濃度を上げることもありました。

 NO治療が終わってからも,肺炎にかかり,感染症にかかり,翌年3月には人工呼吸器を長い間使っていたため,肺が耐えきれなくなって左肺がつぶれました。脇の下に穴を開けて左肺に向かってクダを差し込み,24時間吸引し肺がもどるまで半月ほど要しました。穴を開けたため胸に残ってしまった傷跡も3ヶ所。お嫁にいけるかしら,と心配しましたが,傷口は少しずつ目立たなくなっていきました。
 優香は起きているときはよく遊びました。医療器具が大好きで,おもちゃの聴診器を買ったこともあったけど,本物が良いらしく,看護婦さんの聴診器を握って離しませんでした。知恵もずいぶん出てきて,看護婦さんを呼ぶ時枕元のおもちゃを片っ端から床に落としたり,両手両足でベッドサイドをバンバン叩いたりしていました。他の赤ちゃんが抱っこされている様子を見ると,とても羨ましそうで,この頃から具合の悪い時も優香の頭の下に腕をいれ抱っこのまねごとをしました。すると優香は喜び,安心し,にこにこして私の顔を触ったり,髪の毛をひっぱったり,鼻の穴に指を突っ込んだりしました。本当に可愛らしく,この時間がどんなに楽しかったことか・・・

 4月以降は感染症の値が少しずつ下がっていき,回復の兆しが見えてきたため,肺高血圧症は治ってきたのではないかと見られ,慢性肺疾患の治療に専念,水分を出すため利尿剤を使いました。相変わらず泣くと具合が悪くなるので,鎮静剤,入眠剤はよく使いました。特に5月半ばからの使用が増え,日に2回使うこともありました。それでも効かず,6月に入るとモルヒネを使うことに。そのため面会中眠ってばかりでしたが,人工呼吸器の設定は徐々に下げられました。
 ところが,6月14日夜半,突然優香を心不全が襲いました。肺高血圧症がなりを潜めていたと思っていた矢先,血圧が急低下,心臓が止まりかけ40分間首から上が低酸素状態になりました。心臓マッサージと蘇生の薬を何本も投入したそうです。
 肺高血圧症の患者さんが亡くなるときに襲われる心不全,でも優香は肺と心臓をつなぐパイプが余分にあったため,心臓への圧力がそこから逃げ一命を取り留めました。しかし,40分という長い間の低酸素状態は,脳味噌に水分をためむくみが発生,脳障害が残る可能性が高く,以前の優香には戻れないということでした。薬を目一杯使っていても状態は悪く,首から点滴針を入れ,心臓手前まで長い点滴針を差し込みました。両手両足も点滴針をつけ,優香の体はぴくりとも動きませんでした。この状態が3日間続きました。

 それまでは長い入院生活で,また明日があるからという気楽な思いで病棟に通っていた私でしたが,この時から優香のために1日を大事につかい,一生分の愛情を注ごうと思いました。面会時間も2時間半しかもらえなかったこれまでと一転,こころゆくまで一緒にいてもよいという許可がもらえ,お兄ちゃんも病棟に入って面会することが出来ました。NICUに子供が入るのは初めての試みでした。大人の不安をよそに,お兄ちゃんは優香の手を握り,歌を歌い,声をかけました。すると,それまで殆ど反応のなかった優香が両手両足を動かし,目を開けたのです。
 その日から優香は少しずつ回復をみせてくれました。脳障害もきっと回復できると私は思いました。優香は赤ちゃんに戻っただけなのだから,また一からいろんなことを教えて遊んでやれば,必ず以前の優香に戻ると思いました。
 優香の手を握って指の一本一本を曲げたりのばしたり,体をさすり,頭を撫で,顔にキスをし,歌を歌い,声かけをし,面会中一分も無駄のないように過ごしました。優香は当初硬直していた体が少しずつやわらかくなり,手足もけいれんがありましたが,それも治まり始めました。固く握っていた手も開くようになり,1週間ほどすると以前と同じようにやわらかい手になりました。目を開けると白目しかできなかった優香。でも黒い瞳は徐々に下へ降りてきました。耳は聞こえるらしく,声をかえると体がピクッと動くので,眠っていても声をかけるようにしました。眠っている姿は以前の優香そのものでした。

 心臓が限りなく停止に近い状態だったため,内蔵の働きもずいぶん悪くなっていました。肝臓が3倍近くも腫れ,脾臓も腫れ,モルヒネを使っていたため腸が殆ど動かなくなっていました。また,この半月ミルクをストップしていたため胃がからっぽで,胃も炎症を起こしていたようです。14日には心臓マッサージをしたので気管支を傷つけたらしく,しばらく肺と胃から微量な血液が吸引されました。膀胱も悪くなっていて血尿が出ていました。

 そういう状態であるにもかかわらず,優香は回復をし,亡くなる2,3日前にはミルクを再開,30cc〜50ccをほぼ消化できるまでになっていました。半月近くもミルクを飲んでいなかったわりに,体重が減ることなく,薬などの水分でむくんだ分はふっくらして見えました。様態がだいたい落ち着きはじめた24日には,6月に入って2度目のお兄ちゃんとの面会がありました。ぐっすり眠っている優香。5月31日のハッピー・バースデーをこの日に祝って歌い,主治医からは危篤状態を脱しましたよという言葉。お兄ちゃんの面会で優香が良い反応をみせたため,これから先も定期的に病棟内面会をしましょうということになりました。私たち家族にとって心に残る一日でした。
 そして,その夜,日付が25日になってまもなく,優香の様態が変わりました。病院からお兄ちゃんと一緒に来て下さいという電話。無駄足になればいいが・・・と思いながら,小1時間かけて病院へ行きました。
 私たちが駆けつけると同時に主治医も駆けつけました。心臓マッサージ,蘇生の薬を10本近く投入した後でした。優香は目を開けており,その顔は脳障害を克服したかのように,以前の優香そのものの顔でした。
 お父さん,お母さん,お兄ちゃんに囲まれ,優香は安心したようでした。『輪になっておどろう』を歌い,優香の手足を握りました。優香が笑っているように見えました。ゆっくり目を閉じていく優香に,私は「もういいです。何もしないでください」と主治医にお願いしました。口のクダや点滴の針を取ってもらいました。胃に入っていたミルクの用のクダ,気管支に入っていた酸素用のクダ,どちらにも血がべっとりついていました。どんなに痛かっただろう。どんなに辛かっただろう。点滴の針も首から心臓手前まで10センチの長さで入っていたのに,優香は苦しそうな顔をしていませんでした。なんて強い子,がんばり屋さんの優香。すばらしい,私の優香。

 医療器具を全て取り外して,私は優香を縦抱きに抱っこしました。「優香,お母さん嬉しいわ。優香をこうして抱っこしたかったよ。ずっと長い間抱っこしたかったの。願いがかなって嬉しいわ」
 私はしばらく優香を抱っこしたあとで,主治医はじめスタッフに優香にお風呂を入れて欲しいとお願いしました。何ヶ月もお風呂に入っていませんでした。一人一人が石鹸をつけ,優香の体を洗ってくれました。きれいな体になっていく最中も,歌を歌い,話かけました。新しい服を着て,再び抱っこ。やっと自由になれたね,優香。
「優香はやっと退院できます。これは退院なので皆さんと記念撮影しましょう」
と私は言い,スタッフ揃ってカメラに向かいました。ポラロイド写真の中,優香はとっても穏やかで眠っているようでした。

 2時間後,優香は初めて我が家に帰ってきました。車中ではうっすらと夜が明けていて,これがお外だよ,これが風,あれが雲,車が走ってるよ,等々話はつきませんでした。家の前で車から降りて,私は優香を抱っこしながらゆっくり階段をのぼっていき,玄関を開けて優香がやっと家に帰ってきてくれた喜びでいっぱいになりました。
 お兄ちゃんも大はしゃぎ。優香に部屋を一つ一つ紹介しました。私たちは写真を撮り,ビデオを撮り,4人で円になってポケモンのカード・ゲームをして遊び,一緒に布団に並んで眠りました。お昼を過ぎる頃から,病棟を卒業した友達やお母さんが遊びに来ました。みんな優香を抱っこしてくれ,「頑張ったね,えらいね」と誉めてくれ,子供達は優香の頭を撫でたり手足を触ったり。「初めまして,優香ちゃん,ずっと待ってたよ」って言ってくれるお兄ちゃんの友達もいました。優香は嬉しそうな顔をしていました。時々薄目を明けて様子をうかがってる風でもありました。終日誰かが優香を抱っこしていて,優香は存分に抱っこされてとってもいい気持ちだったと思います。

 通夜,告別式はやめ,自宅でお別れ会という形をとりました。優香を心から愛してくれた人たち,優香が帰ってくるのを待ってくれていた人たちが次々と訪れてくれました。主治医はじめ病棟のスタッフも揃って来て下さいました。
 優香は棺に入っても,なお穏やかで微笑んでいました。肩を揺り動かしたら,今にも目を開けそうなくらいのきれいな顔でした。

 優香が亡くなったことはこの上ない哀しみであります。
 でも,生きていた頃の優香は常に痛い思い,苦しい思い,我慢しなければならないことが多すぎました。全てから解放されて,優香は私のもとに帰ってきてくれました。わずか2年という生涯ではありましたが,優香にとっては一生分の価値があったのではないか,と思えます。実際、亡くなる数日前から優香の手がお婆ちゃんのように、しわしわになってきていました。子供らしくない手。亡くなったあとそれを眺めていると、優香は2年という生涯ではあったけれど、この2年が彼女の一生だったのではと思えるほどでした。
 お父さんが「人間アロマテラピーになれ」と言って「優香」と名付けました。彼女は名前通り,出会う人々に希望と勇気を与え,病棟のオアシスになってくれました。生きていた頃だけでなく,亡くなった後も優香を抱っこした人たちに,いろんなことを教えたと思います。優香は名前通りの人生を全うしたのだと思います。
 亡くなった後の表情からも,病気に負けたのではない,勝ってから休息に入ったのだと思えました。
 24時間常にマラソンをしているような心臓でした。脳障害も克服したのだと確信しています。

 優香が亡くなってから、しばらくお兄ちゃんは優香の写真をいつもそばに置いて遊んでいました。毎日朝起きたら『優香ちゃん、おはよう』、幼稚園に行く前には『優香ちゃん、行ってきます』、帰ってきたら『優香ちゃん、ただいま』、夜寝る前には『優香ちゃん、おやすみ』と言って手を合わせています。それは3回忌を迎える今年になっても続いています。幼稚園の友達が家に遊びに来ても、友達の前で挨拶し、友達も真似をして手を合わせてくれます。

 お兄ちゃんには優香と同い年の妹や弟のいる友達がたくさんいます。それを目の当たりにする度に、『優香が生きていたらこんな風かな』と私は思い、お兄ちゃんはちょっと羨ましいようで、友達の妹や弟を可愛がります。もしかすると優香と重ねて見ているのかもしれません。

 お父さんもお母さんもお兄ちゃんも、時間が経てば経つほど、優香がますます大好きになっています。優香がまた帰ってきてくれるかなと期待しながら、帰ってきてくれなくても、いつの日か再び4人で逢える時がくることを待ち遠しく思っています。
 優香を抱っこしたいって強く思うことが度々あります。でも、そういうとき、お兄ちゃんが優香の分もお母さんを大切にしてくれるのです。優香は永遠にお母さんの娘で、お兄ちゃんの可愛い妹です。お母さんはそれが何より嬉しい。

 優香が闘病中たくさんの方から励ましのメールを頂きました。亡くなったあとも同じ境遇のご家族や病院関係の方からメールを頂きます。ありがとうございます。新たに「YUKA's Room」を訪問された方も、優香の短い一生に触れて、生きていること、生かされていることの素晴らしさを感じていただければと思います。

2002・2・8.  


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