中西祐子著『ジェンダー・トラック』(東洋館出版社・4200円+税・1998年)

著者はこの春、武蔵大学に職を得たばかり。期待の若手教育社会学者である。そして本書は、1996年に提出された学位論文に加筆修正したものだという。第一印象は、装丁がおしゃれだということだった。3D処理されたフォントと、オフィスビルの階段を駆け上がる若い女性の写真を巧みに組み合わせた本書の装丁は、古くさい書体で題名と著者名を記しただけというのが通例の学術書としては、異例なほどあか抜けしている。中小出版社でもやればできるという見本である。
 さて、テーマはジェンダー・“トラック”である。女性学関係者にはあまりなじみのない用語だけに、多少の解説が必要だろう。
 学校卒業後、若者たちはさまざまな進路へと分かれていくわけだが、このような分化は卒業の時点で突然に起こるわけではない。実際にはそのはるか以前の時点で、分化させられているのである。日本の場合でいえば、最も重要なのは高校の学科の違いや高校間の序列の構造であろう。高校教育のスタートの時点から、生徒たちは別々の軌道に乗せられている。それは陸上の短距離競技で、トラックの内側からスタートした者は内側に、外側からスタートした者は外側にゴールするほかないのに似ている。このように学校教育が、将来の進路に対応して分化し階層化している状態を、トラックまたはトラッキングという。
 トラッキング概念は、生徒の進路というものが決して本人の自由な選択や成績のみによって決まるものではなく、学校教育の組織構造によって規定されることを示すものだが、同時に学校研究を階層・階級研究に結びつけるものでもあった。各トラックを前後に延長すれば、低所得階層から職業高校・ランクの低い高校へ連なるトラック、エリート進学校から銘柄大学を経て高所得階層に連なるトラックなどが視野に入ってくるからである。
 しかし著者によると、以上のような意味でのトラッキング、つまり能力の違いによって一元的に序列化された「アカデミック・トラッキング」の概念のみでは、女性の進路分化はとらえきれない。たとえば女子高生は、成績の上では十分可能な場合でも、国立大学や理工系学部への進学を避ける場合がある。彼女らの多くは教養系(人文科学系)学部へ進学するが、その先には専業主婦としての生活が展望されている。他方では社会科学系・理工系へ進学して職業を継続しようとする者もいる。このように女性の場合、同じように進学をめざす上位のトラックに位置する者たちの内部に、性役割を基準とした分化が起こるのである。
 そしてこのような女性内分化もやはり、学校教育の組織構造と関連があるというのが、著者の中心的な主張である。女子高校・女子大学の中には、伝統的に良妻賢母教育を旨とし、教養教育に重きを置いてきた学校もあれば、職業婦人や女性専門職の養成を重視してきた学校もある。そして両者は、カリキュラム編成の上でも、社会的評価の上でも、質的に異なっている。女子教育機関が分化したこうした構造を、著者は「ジェンダー・トラック」と呼ぶのである。
 以上のような概念装置と基礎的な事実の確認のあとで、著者は女子高校生徒と女子大学学生を対象とした調査結果から、出身学校が職業継続の意志や家庭と仕事の関係についての意識、すなわちライフコースの選択に与える効果についての計量分析に着手する。分析の過程では、パス解析、ログリニア分析などの高度な分析手法が手堅く活用される。そこから得られた結論は、出身学校の種類は、アカデミック・トラック上の位置(つまり偏差値ランク上の位置)の上下にかかわらず、また母親の学歴や就業形態とは独立に、ライフコースの選択に影響を与えているということである。要するに女子教育機関の内部分化は、女性のライフコースの分化と対応しているのである。
 学位論文という性格からは当然かもしれないが、本書は「教育社会学」という個別領域の研究史と研究方法を色濃く引き継ぐものである。そのため広く女性学に関心をもつ読者層にアピールするような魅力に欠ける部分のあるのは否定できない。しかし逆にいえば、それだけ結論の信頼性が高いということでもある。女子高校や女子大学の存在が男女間の格差を温存するのか否かという問題は、これまでも多くの論争を引き起こしてきた問題であるし、政策的にも重要である。その意味で本書は、男女共同参画社会に向けた教育改革を考える際に多くの示唆を与えるものになっていると思う。また個別分野の研究書としてみても、学校社会学の伝統と「ジェンダーと教育」研究の伝統を接合し、その上に高等教育研究まで視野を広げているという点で、その意義は大きい。以上の点を確認した上で、いくつかの問題点および課題を指摘しておきたい。
 第一に、学位論文という性格を考慮してもなお、本書の叙述の範囲とスタイルはあまりにも禁欲的すぎはしないだろうか。引用文献はほとんど教育社会学関係の文献ばかりであり、フェミニズム関係の文献はただの一つも含まれていない。こんなことを言うのは釈迦に説法かもしれないが、これまでケイト・ミレットやジュリエット・ミッチェルはじめ多くのフェミニズム理論家たちが、家父長制の再生産に対する教育の機能について論じてきた。フェミニズムの培ってきたこの問題設定を正面から取り上げなかったことが、本書の問題設定を狭くしていることは否めないと思う。著者はより大胆に、家父長制もしくはジェンダーの再生産過程に占める女子向け教育機関の役割について、明確な位置づけをすべきではなかっただろうか。
 この点に関連して第二に、教育社会学者内部にしか通用しない概念装置に過度に依存した記述が散見するのが気になった。その典型が、教育の「地位形成機能」と「地位表示機能」の区別である。この区別は天野郁夫によるもので、前者は知識の獲得を通じて地位達成をもたらすこと、後者は階層文化の伝達を通じて所属階層を表示することと定義され、女性の場合にはとくに地位表示機能が重要であるという。そして著者は、この区別を援用して、女子教育は「地位形成機能」を担う部分----キャリア女性養成型の学校と、「地位表示機能」を担う部分----教養婦人養成型の学校に分化している、とするのである。両者のこうした区別は、教育社会学者の間ではしばしば用いられているようだが、概念的には明らかに混乱している。そもそも地位を表示するといっても、獲得していない地位は表示しようがないから、地位形成から離れて地位表示が成立するはずはない。伝統的な教養系女子教育を受けることがエリート男性との結婚を可能にし、「エリートの妻」の座をもたらしたとすれば、それはある種の地位形成機能が作用したということにほかならない。出身階層を表示するという意味なら理解できなくもないが、それが意味をもつのは就職なり結婚なりによって自らの地位を獲得する時点までのことだ。問題は形成か表示かということではなく、地位をもたらす様式の違いなのである。学会の「権威」の所説を無批判に受け入れるのはやめた方がよい。
 第三に、本書が対象としているのは性役割やライフコースについての希望が形成されるまでの過程であり、実際のライフコースではないことに注意が必要である。キャリア系大学に通う女性も、採用活動における企業側の女性差別を前に就職を断念するかもしれないし、就職しても女性差別の現実を前に挫折するかもしれない。あるいは夫の転勤や家庭の事情で退職を余儀なくされるかもしれない。いやむしろ、これが現実に起こっていることである。その意味で本書の議論は、広い意味での性役割の内面化過程にとどまっているといわざるを得まい。こうした限界を少しでも打ち破るためには、女性のキャリア研究について参照しておく必要があったと思うが、これに関連する記述はわずか十数行、しかもその多くが『女性のデータブック』からの引用である。今日のジェンダー研究の主力ともいうべき女性労働研究の動向を知る人々には、この点で不満が残るのではなかろうか。
 最後に本書から少し離れて、本書を読みながら最近のジェンダー研究の動向について感じたことを述べさせていただきたい。ジェンダー研究は、量的には飛躍的な発展をみたといってよい。しかしそれだけに専門分化が進み、既存の学問分野に吸収されてしまう傾向が生じているのではないだろうか。その弊害はいくつかある。ジェンダー研究は歴史が浅いだけに、「論文の書きやすい分野」である。そのため、フェミニズムの問題提起とは無縁のところで論文を量産する傾向が生まれていると思う。
 より重要なのは、既存研究領域の伝統的な問題設定や分析方法、叙述のスタイルに縛られる傾向が強まってきたと思われることである。これは、学問的には進歩かもしれない。しかしフェミニズムのもつインパクトの源泉のかなりの部分が、既存の学問の領域設定を超えた脱領域性にあったことを考えると、それでいいのかという思いは残る。実際、本書を読んでいて私は、既存の個別学問領域の伝統のなかでジェンダー研究をすることの窮屈さをしばしば感じさせられた。
 教育社会学の研究者として、立派な仕事をされたと思う。次の飛躍に、期待したい。

(『国立婦人教育改革研究紀要』第2号 1998年)

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