「都市論ブーム」と言われたのは、もう数年前のことになる。今では、都市論はすっかり一般書の一つのジャンルとして定着した観がある。
なぜ都市論が注目されるようになったのか。それは、大都市の人々が「地域」に目覚め始めたからである。
高度成長期に大都市へやってきた人々も、時とともに地域に根を下ろし始めるようになる。地域への関心も高まるが、大都市はあまりにも巨大でつかみどころがない。都市論は、ここに生まれる情報ギャップに応えてきた。当然、最も巨大な都市である東京で、都市論は花盛りとなった。
しかし、人々が愛着を持ち始めたこの時、東京は巨大な構造物で人々を威圧する都市になり始めたのではないか。「東京は無理をしはじめたようである」。枝川公一著「東京はいつまで東京でいつづけるか」(講談社・1600円)はこのように警告する。
かつては東京にも生活文化が息づいていた。人々はそれぞれの住む地域で生活文化を呼吸しながら、満たされた生活を送っていたのだ。
ところが世界の中での地位が急に上昇した東京は、「大きな都市政治」に翻弄され、「小さな都市文化」が育つ環境を次々に失ってきた。もはや人々の住んでいる周囲には満たされるものがない。生活文化に飢えた人々は東京中をさまよい歩く。例えば、江戸の面影を残す下町・月島のもんじゃ焼き屋に集まるのは、こうした人々なのだ。
「建築探偵」こと藤森照信の仕事は、古き良き東京の文化を、残された建築の中に発見する試みである。「建築探偵日記」(王国社・1600円)はその最新刊。いつもながら、古い建築を捜し当て、その形や装飾を読み解いていく手腕には舌を巻く。
著者によると、高度成長期を生き残ったクラシック建築の多くが、バブル景気の時期に一気に取り壊されていったという。過去の東京を探す旅は楽しい。しかし現代の東京は、それすらも許さなくなりつつあるのだろうか。
(1993.8月配信)