週報バックナンバー


週報(2002年12月29日)

   この一年を省みて
                                         朝位真士
「あなたの神、主が御心にかけ、年の初めから終わりまで、常に目を注いでおられる」(申命記一一章一二節)
「主のなさる御業の経験」という目標、「主の御旨の成就」という題で元旦からスタートして早や二〇〇二年も
終わろうとしています。私はこの一年を静かに省みて、様々な事が教会関係に又個々人にあった事を思い出して
います。最初の二月から四月迄に、悲喜こもごもでした。二月七日に原田かつ姉(九九才)召天。三月三一日イー
スターに高水政次兄受洗。三月二日影山明男兄(七〇才)召天。四月四日相沢こう姉(八四才)召天。四月一六日佐
野重治兄(八六才)召天。五月一九日教会バザー。五月二六日チャペルコンサート、岸義紘先生のサクソフォン演
奏。六月一六日大田ドロシー女史集会。六月二三日新里兄が一年ぶりに退院して礼拝出席。八月六日〜八日CS
夏期学校、桐花園。一〇月二六日〜二八日鳥取新生教会特伝御用。一一月三日召天者記念礼拝五二名。一二月一
五日ペアンテ・ボーマン師のチャペルコンサート。夜であったが四九名出席。一二月二二日クリスマス礼拝三七
名、祝会三二名。二四日夜クリスマスイヴ集会二六名。相良おり絵さんのヴアイオリン演奏、ピアノ伴奏小室敦
子さん。そして、今日の年末感謝礼拝。以上のようなめまぐるしい諸集会でした。この一年を省みて思うことは、
前半には召天者が続出したことです。「主のなさる御業の経験」という目標で歩いて参りました。私は四人の方
々の召天に際し、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」という御言葉の
通り、現実には受け入れがたい、喜べない、祈れない、感謝できない状況にもかかわらず、喜び、祈り、感謝す
る事が、信仰者として大切なことではないかと思いました。新しい年、主の御旨を期待しましよう。

2003年元旦礼拝 1月1日午前11時より

週報(2002年12月22日)

   クリスマスを迎えて
                                               朝位真士
 アドヴェント・クランツに四本目のローソクがつけられた。 クリスマスおめでとう!!
 私は一九六一(昭和三六)年一二月二四日に北九州復興教会故山中日出刀牧師より受洗した。今年で四二回目の
クリスマスを迎えた。当時私は、マンドリンクラブに入部して、毎日のように練習に専念していた。クリスチャ
ンになってから、クラブの練習が大変有意義に思えた。このクラブ活動を通して、ボランティア活動に力を注い
だのである。高卒後、商社に就職した。ボランティア活動は縦続されて、日曜日礼拝後、隔週、盲児施設の子供
たち(小一〜高三)十数名にマンドリンを教えた。今考えると冷汗が出る。
 クリスマスの事に話が戻るが、もし私が教会に導かれてなくて、洗礼を受けていないとどうなっていたかと、
思うと末恐ろしくなる。今頃は、新宿や渋谷、池袋あたりで毎晩飲み歩いていたかもしれない(現在は、御霊の酒
に酔っている)。神様は、私を選んで救ってくださった。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜び
を告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あ
なたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしる
しである。」(ルカ二章一〇〜一二節)この救主イエス・キリストの誕生を祝う事がクリスマスの本当の意味で
あるが、現代人は主人公のイエス・キリストを除外して、ただ自分達だけの楽しみや喜びを見出そぅとしている。
そこに大きな誤算がある。救主イエス・キリストを私たちの心の王座にお迎えして、イエス・キリストの御降誕
を心から祝い、この救主を信じる事が、このクリスマスの目的である。あなたもイエス・キリストを迎えません
か?

週報(2002年12月15日)

  待降節を迎えてV
                                              朝位真士
 アドヴェント(待降飾)第三主日を迎えて、いよいよ来週クリスマス礼拝であるという事を強く感じています
が、早速今日午後二時からは教会学校のクリスマスがあり、今夕はペアンテ・ボーマン先生(東京交響楽団首席
チェロ奏者、神学博士、伝道者)を迎えてのクリスマス・チャペルコンサートがあります。桜上水駅構内にはポ
スターも貼ってあります。今回で三回目のコンサートです。夜六時半という時間になったことで、少しの不安も
ない事はないが、しかし教会員の方々が祈り、トラクト配布をしてくださり、電話やお手紙で友人、知人、家族
を導いてくださっている事を信じたいものです。とにかく、開いてみないとわかりません。過日、ポーマン先生、
ルリ子先生にTELした際に、彼女はこう言っていました。「夜の集会は、新しい方や若者にはでやすいかもし
れませんね。」と。私は、ボーマン先生方は物事を肯定的に考えておられる方々だなあと思い、自分の信仰の消
極性を反省しました。
 次に、一二月二二日(日)クリスマス礼拝。午後は横田兄の司会による祝会。彼のユニークな、確信に満ちた司
会に期待したい。
 一二月二四日〈火)午後六時から三〇分間、桜上水駅北口前でクリスマスソングの合唱。引き続いて午後七時よ
りクリスマス・イヴの集会、キャンドルサーヴィスの時をもち、相良おり絵さん(国立音大ヴアイオリン科卒、
桜ヶ丘教会教会学校出身者)のヴァイオリン演奏。司会は榊原姉です。
 このクリスマスの一連の行事を通して、私たちは、「ことばは肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わた
したちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、恵みと誠とに満ちていた」とあるように、
とこしえの父なる神から生まれられたキリストの超時間的誕生がそこに明らかにされていることを覚えたいもの
です。

週報(2002年12月8日)

  待降節を迎えてU
                                              朝位真士
 アドヴェント(待降節)第二主日を迎えて、アドヴェントクランツにローソクが二本立てられた。メッセージは、
ルカ伝の講解説教であるが、この第二主日では、主は再び歴史の終末において来られることが警告されている。
このように、この時期にその昔ベツレヘムの片隅に卑しい姿をとってこの世に来られたみどりごにおいて、王者
なる神にめぐり合う備えをすると同時に、日々信じる者の心の中に来られる主を迎えるように励み、こうして人
々をさばくために再び来られる主のために準備をする。すなわち、緊張して姿勢を正して未来の降臨に備えるた
め、過去の歴史に降臨された主が、現在、今、各自の心に降臨されるようにつとめるのである。事実、主は二千
年前の昔、ユダヤのベツレヘムに生まれられた。しかし、多くの人の心には、主は迎えられなかった。今も、た
くさんの人々がその恵みにあずかっていない。そうした人々の心の中にも、主はお生まれにならねばならない。
また、彼を迎えた人々の心の状態はどうであろうか。その心には、あまりに多くの同居者が雑然と混み合っては
いないだろうか。その昔のべツレヘムの宿屋と同じように(「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからであ
る」(ルカニ・七))。その心の座敷には、主の宿られる場所さえないほどではないだろうか。わたしたちは、心
の中にわだかまっている諸々の悪念(「人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、
殺意、姦淫、貪欲、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など。こららの悪はみな中から出て来て、人を汚
すのである。」(マルコ七・二一〜二三))や、この世における思い煩いのようなものを取り去らねばならない。
そして、心の奥座敷をあけて主を待たねばならない。 一五日(日)午後六時半、桜ヶ丘教会に集合しよう!!

週報(2002年12月1日)

  待降節(アドヴェント)を迎えて

                                              朝位真士
 いよいよ今週からアドヴェントに入ります。このアドヴェントとは来臨の意味で、主イエスの受肉された降誕
を迎える心の準備をするとともに、再臨の準備の時ともされています。フランス、スペイン地方の教会で、クリ
スマスに洗礼を受ける準備の期間を四〇日間として守ったのですが、後にローマ教会がこれを取り入れ、クリス
マスを迎える準備の時とし、一一月三〇日に最も近い主日から始まるものとされ、降誕節四週間前の日曜日から、
救い主を待ち望むよう守られております。
 アドヴェント・クランツにローソクが四本立てられますが、クリスマスの四週間前の日曜日から一本ずつ点火
され、最後に四本とも点火されることになっています。是非皆様方に、お祈りをして頂きたい事があります。そ
れは、一二月の諸集会です。一二月一五日(日)午後二時から三時半迄行われるCSクリスマス集会。同日午後六
時半、ペアンテ・ボーマン師夫妻を迎えてのクリスマス・チャペルコンサート。今年で三回目ですが、特に今回
は夜のクリスマス・コンサートとなりました。ボーマン先生は東京交響楽団の首席チェロ奏者であり、当日演奏
会があるためです。夜ですと、なかなか新しい方も出席しにくいし、教会員の方々も一日中(礼拝もあります)と
なると少し無理な気もします。一二月二二日(日)午前一〇時半、クリスマス礼拝のためにも祈ってください。一
二月二四日(火)午後七時、クリスマス・イヴ集会、一二月二九日(日)午前一〇時半、年末感謝礼拝のためにも。
 最後に、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名は『神は我々と共におられる』」(マタイ一・二
三)とあるように、アドヴェントを迎えるこの時期、イエス・キリストを心の中に迎える準備をさせて頂き、今
年も救い主を待ち望みましよう。

週報(2002年11月24日)

  西東京教区伝道協議会に参加して
                                                朝位真士
 二〇〇二年一一月二一日(木)〜二三日(土)迄、西東京教区の伝道協議会(教職・信徒共同セミナー)が、箱根の
スコーレプラザホテルで行われた。主講師は小島誠志牧師(松山番町教会牧師・元教団議長)。今回のテーマは
「信仰の縦承」で、二回の主題講演があった。教職・信徒約七五名の出席(名簿による)であった。一日目は、小
島誠志先生がルカ八章一六〜一八節を引用して、「信仰の縦承」のパートTを語られた。最初は先生の自分史を
ユーモアをもって語られた。家庭的な暗さの中での主との出会いを明確に語られ、献身の証しも語られた。分団
ではA〜F迄六分団に分かれ、教職と信徒混合で、教職も信徒も赤裸々な悩みを語り合った。二日目は、三人の
方々が発題。高津兄、市川兄、吉岡師康子師がそれぞれの立場から信仰縦承の内容で語られた。一人は市の元教育
長として、一人は青年の立場(クリスチャンホーム)、一人は牧師の立場として語られた。主題講演パートUは小
島師より、元教団議長の立場から、全国の教会の内容、約一七〇〇の教会の実状と現状を語られた。信仰縦承は
単なる親が子に、子が親にというより、教会全体の問題として考えねばならない。信仰縦承は将来のキリスト教
会にも大きな影響があるので、教会として真剣な祈りの課題として取り組まねばならない。夜は、交わりと証し
の夕べとして、二人の教職と一人の信徒の証しがあり、大変楽しい一時であった。三日目には、教区アワーとし
て、沖縄教区より山里勝一先生と西尾市郎先生が来られて、「沖縄教区との交流−沖縄キャラバンを迎えて」と
して、約三時間熱く語っていただいた。
 最後に一言。信仰錐承は私共の教会の将来を決定する重要な課題であると思った。教会は、救われる人をめざ
す事である!!

週報(2002年11月17日)

   ホ群・信徒・教職セミナーに参加して
                                              朝位真士
 過ぐる一一月一一日〜一三日迄市川サンシティーホテルで、全国から教職八〇名、信徒四四名の合計一二四名
という参加者で、今回は「二一世紀に向かうホ群教会の信仰」「神癒と再臨」というテーマで開催された。一日
目は、開会礼拝、司会潮義男師、説教八束潤一師で、マタイ一二章二二〜二八節より「神癒と再臨」について語
られた。まず四重の福音の基本的なこととして「新生・聖化・神癒・再臨」はどれも神様がなさる聖なる愛の業、
救いの業であるということ、つまり、主イエス様の生涯と十字架の死、そして復活の業を通して豊かに現された
聖霊がその力をもって人を新たに生まれさせ、つくり変え、弱きからだにも働きかけ、そして、再臨において救
いを全宇宙にまで成就し、神の国を完成させると語り、神の国(再臨)の到来を待望している。発題T「神癒(いや
し)」は、大友英掛師、中島聡師の若い教職達が、神学的、理論的に語り、発題U「再臨」は、加藤誠師、田中寛
也師と二人の中堅の教師達が、理論と実践を交えながら語った。二日目は、全体協議会が行われ、発題者四名、
信徒の証しが四名の方々によって語られ、実にリアルに神癒(いやし)の業を証しされた。分団協議には、信徒・
教職を交えて話し合いがなされ、教団の中に於けるホーリネスの使命を確認させられた。聖会は、司会川崎理子
師、説教池田玲二師によって、出エジプト一九章一〜八節、「神の宝の民」と題して、三つのポイント、@鷲の
翼に乗せて、Aもしわたしの声に聞き従い、Bわたしの宝・祭司の王国・聖なる国民、について語られた。三日
目は、教職・信徒分かれての分団であった。閉会説教朝位フミ子師、マタイ二五章一〜一三節を通して、「主の
再臨に備えましよう」というメツセージでしめくくられた。

週報(2002年11月10日)

   鳥取新生教会に招かれて
                                           朝位真士
 キリスト伝道会の実行委員として、去る十月二六日〜二八日迄、鳥取新生教会に参りました。十月二六日(土)
羽田より鳥取空港に午後到着L、早速三時から第一回目のキリスト教の集会を開きました。「神に帰る喜び」と
題して、ルカ一五章一一〜三二節より語りました。午後一時過ぎに到着して、すぐ三時から開かれました。一〇
名の方々が集まってくださいました。翌二七日の聖日十時半の礼拝メッセージは「万事を益としたもう神」と題
して、ローマ八章二八節より語りました。一二名の出席者でした。礼拝後会食して、更に午後二時より、テサロ
ニケ人への第一、五章十六〜一八節より「ギリスト教三原則」という題で語りました。八名の出席者でした。
 鳥取新生教会は、牧師山田忠義先生が牧会されて六年目の教会ですが、創立一九〇九年、現住陪餐一四名、礼
拝出席七名、祈祷会六名、予算四四六万円、七名の礼拝出席者の内二名の者が一定の間病気により出席できない
ことも起こりうるという教会です。教会員最高齢の方は九三歳で現役の役員で、毎回諸集会に出席されておられ
ます。奥様も八〇歳過ぎで会計役員をされておられます。書記の婦人も七九歳、他の役員も七五歳以上、まさに、
日本の教会の将来像を思わせる感じでした。地方都市の困難さを感じさせる思いがしました。しかし、老齢の皆
様方が輝いておられ、無口ではあるが黙々と教会の奉仕へと励んでおられる姿は、私自身学ばされる姿でした。
若い山田先生(五十数歳)に高齢の信者の方々の呼吸のあつたコンビネーションは、教会の雰囲気を漂わせていま
した。
「主に感謝せよ。主は恵み深く、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。」(詩一一八・一)
 鳥取新生教会に神の祝福を祈ります。

週報(2002年11月3日)

   召天者記念礼拝
                                                朝位真士
 日本キリスト教団では、十一月の第一聖日が「聖徒の日」となっている。この日は、信仰の先輩たちのことを
想起しながら、お互いが担っている使命を自覚することが必要である。この「召天者記念礼拝」に特別な基準は
ないが、キリスト教の歴史と伝統の中では、死後三日目、九日目、四十日目など、主の復活の告知を表す三また
はそれをさらに三倍した九、それに聖書的に象激的な四十に基づいた日数、年数などによる考え方があったよう
である。教会の暦に関連して死者を記念することがキリストにあって意味づけられ、関係者が集まってもつ記念
会に「主にあって共に生き、ともに主をあかしする」性格が明らかにされるからである。教団の教会として、公
同の記念礼拝をもつのは聖徒の日、復活節、あるいは地方によっては日本のお盆の頃に関係者を集めて行う所も
ある。
 今年も教会関係者の方々は、二月七日に召天された原田カツ姉(満九九歳)。影山明男兄(満七〇歳)は三月二日
に召天。相沢こう姉(満八四歳)は四月四日に召天。佐野重治兄は四月十六日に召天。他に緒方ナミエ姉の御主人
も召天。多くの方々、関係者が天国へ旅立たれた。ここで召天された方々の思い出を語ってみたい。原田カツ姉
は稲城の老人ホームに入居しておられ、九七歳で受洗され二年後に召天。影山明男兄は教会の忠実な会員であり、
特に教会会計、会堂会計を手伝ってくださった。長く病床の中、いつも忍耐強く一言も不平不満を聞いたことが
ない人で、温厚で無口な方であった。相沢こう姉は長く駒場の家庭集会を開いてくださった。佐野重治兄は佐野
とり姉の御主人で、姉の信仰的生き方を見て受洗された。
「『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである。』と。霊も言う。『然り、彼らは労苦を解かれて、安らぎ
を得る・・・』」 アーメン。

週報(2002年10月27日)

  熊澤義宣先生の告別式に列席して
                                              朝位真士
 去る八月七日に七三歳で召天された熊澤牧師の告別式が十月十四日午後二時、東神大チャペルで行われた。以
前西支区におられ、私も最寄牧師会で係わりがあった。井草教会牧師、千歳船橋教会(西南支区)の牧師や、東京
神学大学学長、聖学院大学教授を歴任され、その他、キリスト教メンタルケア・センター、心の泉会(クリスチャ
ン患者会)、日本エキュメニカル協会、日本FEBC〈ラジオ放送)、NEAATS(北東アジア神学校協会)、JA
TE(日本神学教育協会)などで役職をつとめ、NHK教育テレビにも出演、キリスト新聞の社説執筆など多彩な
活動をされた先生であつた。
「熊澤義宣教授は、今から約十年前二度目の心腑発作で新宿の榊原記念病院に入院されたとき、万一の場合を
考えて葬儀について遺言をしたためられた。その中で、この葬儀は『礼拝』として『この日はわれわれの主の聖
なる日です。憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたがたの力です。』というネヘミヤの言葉のような日であ
りたいという願いをのべ、司会者をはじめ、奏楽者、聖書の箇所と朗読者、祈り、讃美歌などすべてを決め、弔
辞も献花もなく、また司式者には式辞ではなく説教をして欲しいと依頼された。これらの準備の中には熊澤教授
の信仰と神学が現れており、司式者としてはこの遺志に誠実に従ぅべきであると考え、よって、この葬儀は神礼
拝として執り行われる。」と司式者大木英夫聖学院大学理事長先生が語っておられた。
 東神大チャペルは多くの列席者で満員で、立席の中で厳粛に行われた。熊澤先生の生前の人柄がしのばれた。
我が新会堂にも最寄牧師会で来られたことがある。無口であられたが、あたたかいお人柄であることを短いお付
き合いで感じた。天国で主とのお交わりをされていることを信じ、私共もやがて主にまみえる日を祈りたい。

来週(11月3日)召天者合同記念礼拝

週報(2002年10月13日) わたしが教会お休みしたのでありません。ごめんね。


週報(2002年10月13日)

   諸集会
                                              朝位真土
 私共の教会は、日本キリスト教団内のホーリネスの群に属している。ホーリネスの群は集会を大切にしている。
特に祈祷会を大事にしている。
 キリスト教会の誕生が祈祷と不可分の関係にあることは、聖書によって明らかである。「心を合わせて熱心に
祈っていた」弟子たちの一団に、聖霊がくだり教会が誕生した(使徒一・一四、二章)。この点からして祈祷会が
どんなに大切であるかが知られよう。祈祷の手は神のみ手を動かすものである。昔、モーセの手が海にさし伸ば
されて海の水は退き、イスラエル人はエジプト脱出に成功した(出エジプト一四・二一)。そのように教会のあら
ゆる伝道計画やわたしたちの信仰生活に力を与え、神がともにいますことを確信させられるのは祈祷によるので
ある。出エジプト記の一四章のエジプト脱出に続く一五章の勝利の歌は祈祷の力を示すものと言えよう。教会の
祈祷会は個人的な祈りもよいが、公の祈祷会であるから、祈りの内容も公のものに向けるようにありたい。
 教師のために祈り、教会の諸団体や教会が行なっている諸事業、また教会員で病気や試練と戦っている人々の
ため、さらに国の内外に起こっている諸問題のために、とりなしの祈りをささげるようにしたい。さらに心得た
いことは、公の祈祷会では個人の祈祷というより、会衆とともに心を合わせて祈るのであるから、会衆によく聞
きとれるよう発声に注意し、会衆も「アーメン」と和することができるように祈ることである。祈祷は限られた
時間内で全員が祈るのであるから、間を置かず次々と祈ることが望ましい。また恵みのあかしのある人は、敬虔
な思いをもって短くあかしすることによって、祈祷会を力に満ちたものとするであろう。この秋、私達は月一回
でも祈祷会に出席してみましよう。

週報(2002年10月6日)

  礼拝の内容
                                               朝位真士
 祝祷は単なる閉会の合図ではない。これから出てゆくこの世での歩みに、神が共にあることを求める祈りで、
ここに会衆は神の祝福と力とを受け、この世に派遣されてゆく。福音のあかし人としての使命感と勇気とがみな
ぎる時なのである。
 次に聖礼典について。バプテスマ(洗礼)と聖餐との二つで、按手札を受けた牧師により執行される。バプテス
マ(洗礼)は信仰生活の初めにおいてただ一回受けるだけであるが、聖餐は信仰生活の続く限り幾度も受ける。バ
プテスマは、わたしたちの罪の件がキリストとともに葬られ、キリストとともによみがえって新しい生命に生き
ることを象徴する聖礼典で、キリストの体として一体とされていることを意義深く示すものである(ローマ六・
一〜四)。又、バプテスマは、信仰の卒業でなく入門である。そして、キリストの体としての大切な使命を持つ行
動がこれから始まるのである。
 聖餐は、パンとぶどう酒とをもって行なう聖礼典である。キリストは、十字架上でその肉を裂き血を流してわ
たしたちを罪からあがなってくださった。パンはわたしたちのために裂かれたキリストの御体をあらわし、ぶど
う酒はわたしたちのために流されたキリストの御血をあらわすのである。その十字架の死を前にキリストは弟子
たちと食事をともにし、ご自分の死を象徴してパンを裂きぶどう酒を分けられた。これが聖餐式の起源である(コ
リントT・一一・二三〜三一)。またキリストは死人の中からよみがえって弟子たちのもとに来られたが、最初そ
のことに気づかなかった弟子たちも、パンを裂かれる様子でそれと悟った(ルカ二四・三〇〜一)。聖餐式は、
キリストの死の意味とともに、その復活の証言を伝えている。
 次回は、諸集会について述べてみたいと思う。

週報(2002年9月29日)

   礼拝の内容
                                             朝位真士
 礼拝の内容を先週に引き続き記します。
 主の祈りは、主イエス・キリストが教えてくださった祈りの典型である。それはまず第一に神の栄光のために
祈り、次にわたしたちの日常生活のごく卑近なことについて祈ることを教えている。(マタ六・五〜一五、ルカ
一一・一〜四)。
 献金は、@すべてをささげてキリストに仕える生活の象徴である。それは礼拝の中の神に対する応答を如実に
示すものと言える。したがってそのささげかたは、その人の信仰の象徴とも言えよう(ルカ一二・二三〜三四)。
心が神のもとにあるようなささげかたをしたいものである。すなわち、生活の残り物でなく、最初に収入のうち
どれだけを献金しようと決めて、これだけを収入のあるたびにまず感謝をもって選び分け、これを献金するので
ある。献金の額については、旧約時代に収穫十分の一を神にささげたことから(レビ二七・三〇)、収入の十分の
一献金が奨励されているが、このことを基本としながら、「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こ
うしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。」(コリントU・九・
七)とある。
 献金はまた教会の交わりである。各個人のささげた財産を教会で共有し、これを教会の必要な活動のために−
特に他の教会のために−用いることは教会の交わりの重要な一面を示している(使徒二・四四〜四五)。
 献金は祈りによって聖別して行なうものであるから、その取り扱いも丁重にすべきである。献金の祈りも、ず
ばりと献金のことに集中すべきである。又、献金は、献身を意味する。主イエス・キリストが、十字架上で死に
私達に愛を示してくださった如く、主イエスに対する、献身を含んでいる。額の高低ではなく、主に対する真心
が大切である。

週報(2002年9月22日)

   礼拝の内容(T)
                                             朝位真士
 礼拝の順序は、教会により多少相違があるが、どの礼拝にも、賛美、聖書朗読、祈祷、説教、献金等が含まれ
る。また、教会では礼拝ごとに、あるいは時を定めて聖礼典(聖晩式と説教)が執行される。
 賛美は、私たちを召してくださった神に対する賛美応答である。それは時として信仰の告白となり、ざんげと
なり、祈顧ともなる。それゆえ賛美歌は、歌詞をよく見ながらその気持ちで神に向かい、心をこめて歌うのであ
る。
 交読文は、詩篇を主体にして聖書の各所から集めた賛美と祈りであって、司会者と会衆が互いに読み交わす形
になっている。
 聖書は、わたしたちに対する神の契約書である。その契約の内容はわたしたちの救いに関することで、そこに
押されている証印は聖霊である。「人はパンだけで生きるものではない。神のロから出る一つ一つの言葉で生き
る。」(申命八・三、マタイ四・四)と書いてあるように、聖書はわたしたちを人間として真に生きる者とする神
の言葉である。新約聖書でも、み言葉は人間を養い育てる霊の乳、また食物である。
 説教は、「主なる神はこう言われる」と言って語ったように、主なる神の言葉を取り次ぐのである。とは言え、
語る者は人間であるから、それが神の言葉として聞けるためには、それを人間の言葉としてでなく神の言葉とし
て受け入れる態度がたいせつである(テサロニケT・二・一三)。                 −
 祈祷は、神との交わりである。神のみ名をあがめ、ほめたたえ、ざんげし、感謝をささげ、さまざまの願いいご
とをし、また決意をあらわす。生活の中で起こるあらゆることが祈りによって神に結びつく。こうして神ととも
に歩むキリスト者の生活が展開される。
 尚次回に礼拝の内容は続く。

週報(2002年9月15日)

  礼拝への備え
                                             朝位真士
 前回に引き続き「礼拝への備え」について学びたいと思います。
 @神を拝むのに気まぐれであってはならない。雨が降ろうが風が吹こうが、気が向こうが向くまいが、礼拝は
毎日曜日出席するのが本当である。礼拝は、人間の気持ちに従って行なうのでなく、神のみ旨に従ってなすべき
ことなのである。したがって、遠方に旅行する湯合にはその他の教会を教師に紹介しもらうとか、やむを得ず休
む場合はあらかじめ教師に断わるとか、礼拝出席を大事にする習慣をつけたいものである。
 A礼拝に遅劾するなどとは神に対して礼を失する。少し早めにみんなそろって出席し、緊張した思いをもって
開会を待ってこそ、充実した礼拝が守られるのである。
 B礼拝の対象は神である。それゆえ何をおいても神に心を向けることが大切である。礼拝堂に入ったならば、
心を神に向け、着席して黙祷するとか聖書を読むなど、礼拝に対する準備を整えるのである。また、礼拝中にあ
たりを見回したり、私語をしたり、本を読んだりするのは不謹慎である。
 C席は、来た順に前からつめるのが礼儀である。そうすれば、後から来た人が前へ出てくることによって人々
の気を放らすこともなく、またその態度は、神のみ前に出ようとする一生懸命さのあらわれでもある。
 D服装は、とくにりっぱにする必要はないが、神の前に出るにふさわしいものでありたい。
 E礼拝は、出席すればよいのではない。礼拝のときだけ口をぬぐつて神妙にしていても、ふだん悪いことばか
りしていては、かえつて神を踏みにじる行為となる。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔い
る心を、神よ、あなたは侮られません。」自分の罪を認めて恥じ、悔いている心こそ、神に喜んで受け入れても
らえる。日常生活全体で礼拝への準備がなされるのである。

週報(2002年9月8日)

   礼拝に出席しよう
                                              朝位真士
 九月に入り、礼拝に出席しやすい時期となりました。ところで、今日は「礼拝の意義」について、「信徒必携」の
中より引用してみよう。
 一、礼拝の意義
 信仰生活とは礼拝の生活である。すなわち、神を拝み、全身をささげて神に仕える生活である(ロ−マ一二・
一)。その中心にあるのが主日〈聖日)礼拝である。
 礼拝は、定められた時に神の御前に召し集められて行なうもので、主日(日曜日)に全信徒が一箇所に集まって
行なうところに意味がある。その神の前の集まりこそ教会なのである。そこでこの礼拝を、各自がめいめいに行
なう礼拝と区別して「公同礼拝」という.
 旧約時代には「安息日を心に留め、これを聖別せよ」(十戒)(出エジプト二〇・八)とあるように、一週の第七
日が安息日として守られていた。しかしキリストが死人の中から復活して弟子たちのもとに来られたのが一週の
第一日(日曜日)であったことから、やがて日曜日は「主の日」と呼ばれるようになり、安息日にとってかわった。
キリスト教の主日礼拝はここに由来する。したがって主日礼拝は、キリストの復活を記念する礼拝であるが、単
なる過去の記念ではなく、この復活されたキリストが今ここにいます、という確信と喜びをあらわすものであり、
さらに、わたしたちもやがて復活してキリストのみ前に集められ、神と友に住むのである、という終わりの日の
救いを望み見るのである。このように、礼拝はキリストに対する信仰によって神を拝むことである。それゆえ礼
拝に出る者は、それにふさわしい信仰と態度をもたねばならない。
 次回から「礼拝の備え」「礼拝の内容」について少しずつ学んでみようと思います。この際、私達の礼拝に対
する意識を変革して行きましよう。

来週(15日)は敬老の日礼拝です。

週報(2002年9月1日)

  主のための奉仕
                                              朝位真士
 イエス・キリストは「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分
の命を献げるために来たのと同じように」(マタイ二〇・二八)と言って弟子たちをいましめられている。信徒
にとって奉仕ということは単に何かの有効な働きをするというだけではなく、イエス・キリストの道を歩むとい
うことに他ならない。奉仕は「仕えること」であり、「仕える」ということは委ねられたものを管理することで
もある。奉仕にあたって信徒が最も気を配らなければならないことは、@自分に委ねられていることは何か、A
その委ねられたものをどのように管理していくか、という二つのことであろう。キリスト者に委ねられているも
のは「福音」であり、これをひとりでも多くの人に伝えることがキリスト者の使命である。また、信徒の奉仕は
普通には、(イ)教会内の奉仕、(ロ)社会への奉仕、というように考えられる。教会内での奉仕というのは教会の
組織の中で自分の賜物を生かして働くことであって、その奉仕の種類は数限りなく多い。教会では、総務に関す
るもの(運営、経理、企画)、伝道に関するもの(礼典、集会、訪問等)、教育に関するもの(教会学校等)といった
部門があり、それぞれの働きをすすめている。クリスチャンはこれらのどこかに着実な奉仕者として身を置くべ
きである。教会での奉仕の場はいくらでもある。清掃、受付、祈祷(献金奉仕)、トラクト配布、CS教師、役員。
そしてすべての機会に、このような小さなわざも「福音を隣人に伝えるため」に用いられているという自覚をも
つべきである。奉仕の秋、伝道の秋、私たちは主のために何かの奉仕をさせていただき、お客様信者ではなく、
全員が桜ヶ丘教会のメンバーに、主のしもべになろう!!

週報(2002年8月25日)

  「日本伝道の幻を語る会」に出席して
                                              朝位真士
過ぐる八月一九日(月)〜二一日(水)迄、市川サンシティホテルで「日本伝道の幻を語る会」が開催された。一
日目の開会礼拝は司会鈴木留蔵兄(九二歳)、原登師(八二歳)の説教。聖書出エジプト四章一〜九節を通して、モ
ーセの召命の記事を語った。講演T、司会吉本美枝師、講演藤井圭子先生(医者、出家得度し尼僧校および仏教大
学専攻科で勉学修行。のちに尼僧校舎監となり、やがて還俗。小児科に戻り結婚、二児出産。日本アライアンス
教団呉教会にて受洗。日本キリスト伝道会エバンヂェリスト。以来、講演会、婦人ランション、特別伝道集会等の
講師として、日本、台湾、アメリカ、メキシコ、カナダ等で広く用いられている)。マタイ二八章一八〜二〇節、
イザヤ六章一〜八節を通してメッセージを語った。特に、藤井先生の仏教の尼僧からキリスト教に回心した証し
は、私共に強くインパクトを与えた。講演U、司会は私、メッセージ松田幾雄先生(キリスト伝道会実行委員長)。
エゼキエル四七章一〜一二節を通して「聖書の流れゆくところ」「いよいよ始まるリバイバルの幻」と題して、
(一)生ける水の流れの特色、(二)生ける水の進展聖、(三)生ける水の流れの秘密を語り、「二一世記日本の教会
は、信徒一人一人が聖霊の宮としての自分を自覚し、主がご計画をもって働きかけておられることを知ることで
す。聖霊は家族の救いを具体的にどうすべきかの知恵を与え、実現され、クリスチャンの家庭が神の教会となり、
永遠のいのちの水が流れ始めるとき、リバイバルは実現し、一千万救霊は見えてきます。」と結んだ。二日目、
三日目とプログラムは進み、申込み参加者八九名、二日目夜は一三○名であり、献金予約を含め三二〇万円与え
られ、日本リバイバルの手ほどの雲を見ることが出来た。感謝!!

週報(2002年8月18日)

  「教会生活の手引き」より
                                           朝位真士
 雪ノ下教会の手引きの問三一の中に、「神のいのちに生き、キリストのからだとして生きている教会の、いき
いきとした姿をどこに求めればよいのでしょうか。」の問の答として、「私どもに与えられている教会としての
使命に、どのように生きているかということでしよう。勿論、教会を作っているひとりひとりがいきいきと生き
ていることもまた不可欠なことです。そのいのちの躍動に触れていてこそ生きるのです。」
 共同体全体として、そこに生きることによって成り立つためには三つの条件があります。
 第一に「礼拝」です。この礼拝は、勿論何よりも主日の礼拝を意味します。それとともに、私どもの集まると
ころすべてにおいて、私どもはまず神を拝み、み言葉を聞き、賛美し、祈るのです。そうすれば教会のすべての
集会が、この「神を礼拝する」という教会の務めのためのものであると言えます。教会の礼拝行為に参知するこ
とによって、ひとりひとりもまた、「神の栄光をあらわすために」生きることを学ぶのです。
 第二に、「伝道」です。宣教という言葉でも言い表されます。福音を宣べ伝えることです。ひとりでも多くの
人が、福音に生きる喜びにあずかれるように最善の努力をするのです。礼拝に先立って、教会にとって伝道に生
きるということは大切です。
 第三に、愛に生きることです。教会の営みとしては「奉仕」と呼ばれます。愛は、まず教会という共同年の内
部にあって問われます。主イエスが弟子たちの足を洗われながら、互いに足を洗い合いなさいと言われたことを
真剣に受け止めます。教会員の問の愛の交わりがみこころにかなうものとなるようにするというのも、神からい
ただいた尊い使命です。私どもは、真の隣人となることを学ぷことです。

週報(2002年8月11日)

  夏期学校に出席して
                                            朝位真士
 過ぐる八月六日(火)〜八日(木)迄、神奈川県藤野の桐花園キャンプ場に、子供七名、教師七名、合計一四名で
参加した。今回の主題「イエス様の愛と祝福」というテーマで、有意義な三日間であった。
 六日午後二時から開会礼拝、安東努先生のメッセージで、マタイ一・一八〜二五節を通して、イエス様の来ら
れた目的を二つ語られた。(一)自分の民を罪から救うからである(マタイ一・二一)。(二)神は我々と共におられ
る(一・二二)。
 礼拝Tは、ヨハネ一・一四とヨハネ九章の記事より、黒田麻代先生のメッセージがあり、神の子イエスの働き
の一つである盲人のいやしのところから話された。
 七日午前六時半より朝の祈り。八時三〇分礼拝Uは、横田たみ子先生を通して、ヨハネ一九章より「十字架の
愛」について語られた。午後七時礼拝Vは、朝位フミ子先生を通して、ヨハネ二〇章より「イエス様の復活の喜
び」について語った。
 八日午前六時半より朝の祈り。午前一〇時、朝位牧師より三つの聖句、ヨハネ一・一四、ヨハネ三・一六、ヨ
ハネ二〇・三一を通して、この三日間のまとめとしてのメッセージを語った。
 学びは以上であるが、一日目は夜のきもだめし、花火大会、二日目の自由時間では堰堤の下や川の中での楽し
い水遊び、その日のハイキングでは全員で陣馬山に登った。ベテランの横田たみ子先生も幼子達と一緒に登山し
たことである。
 この三日間の末期学校を外部でしたことは数年ぶりであったが、子供達が自然の中で活き活きと学び、遊び、
食べたこと、また、先生方と子洪達の良き交わりの時であった。神と皆様方に心から感謝申し上げます。

週報(2002年8月4日)

  ホ辞ユースバイブルキャンプに出席して
                                              朝位真士
去る七月二九日(月)〜八月一日(木)迄、埼玉県飯能にある岩清水クリスチャンセンターで、ホ群ユースバイブ
ルキャンプが行われた。
今回のテーマ「あなたはわたしを愛するか」という題で、ペトロの生涯を学ぶことが出来た。主講師は伊奈聡
先生(日本キリスト教団喬木教会牧師)で、三回の聖会のメッセージをされた。聖会Tでは、マタイ一六章一三〜
二〇節を通して、「ペトロの信仰告白」の箇所から、主イエスの「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言
うのか。」という問に対してペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です。」と答え(一五〜一六)、その信仰
告白の上に天国の鍵を授けられたことを学んだ。伊奈先生の音楽、キーボードを交えながらのメッセージを約一
時間聞いた。立証は、宇都宮上町教会の医学生大野絵里姉が、名家(両親共医者)の家に生まれた者のプレッシャ
ーと心の葛藤を赤裸々に語った。聖会Uでは、ルカ二二章五四〜六二節、「ペトロの否認」の箇所を通して、ペ
トロの人間的弱さを、伊奈先生の人間的弱さを交えながら語られた。若い兄妹達に強いインパクトを与えた。聖
会Vでは、ヨハネ一二章一五〜二一節を通して、裏切ったペトロに対して復活の主があらわれて、「私を愛する
か」と三度もペトロに語られたことを学んだ。立証は、赤羽教会の深谷与那人神学生であった。牧師家庭に生ま
れ、信仰的な苦悩の中で献身に導かれた征しは、会衆に多くの感動を与えた。決心者、受洗決意者、献身決意者
もそれぞれ数名与えられたことは感謝であった。
 私も御用の一端を担わせていただいたが、若者達のエネルギーを湧いた四日間の集会であった。時間の長さを
感じさせなかった。出席者は四七名であった。皆様方のお祈りを心より感謝申し上げます。

週報(2002年7月28日)

  ホ群首都圏夏期聖会に出席して
                                              朝位真士
 第一三回(通算五〇回)ホ群首都圏夏期聖会に出席しました。今回は私共と瀬良姉、樋口姉の四名で参加しまし
た。合計一一三名の参加者で、盛大な聖会でありました。
 主題「大いなる喜び−きよめの恵み」、主題聖句はガラテヤ五・二二〜二三節です。二二日の開会聖会(T)は、
司会は深谷美歌子師、説教は山岡磐師で、ガラテヤ一章全体を通して寄られました。ガラテヤの緒論的な事を語
り、パウロのダマスコ途上に於ける回心の出来事を語り、その彼がキリスト教の伝道者となったいきさつを詳細
に述べ、特に「キリストの恵みへ招いて下さった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗
り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。」(一・六)という言葉に心が留まりました。また
「私を母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに・・・」(一・
一五)も心に残りました。夜は、司会、東海林師、説教、西潅満希子姉より二章全体が語られました。「生きている
のは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。・・・」(二・一九)
聖会W、司会、山田称子師、説教、原田謙師はガラテヤ三章より、「律法によるか、信仰によるか」という処で、
先生の証しを交えて熱ぽく語られました。聖会X、司会は音仲将師、説教は島隆三師で、四章全体を通して、特
に「キリスト者の自由」について、ルターの作品を引用されていました。また先生のトルコ、ギリシャ一三日の
旅行の際の事故について詳細に述べられて、神は救い守ってくださったことを語り、聖会Yは、司会、大友師、
説教、横山義孝師、ガラテヤ六章全体より力強く語ってくださいました。まるで青年の如く、七五歳過ぎとは感
じられないほど力強く一生懸命でした。

週報(2002年7月21日)

  西東京教区教師研修会に出席して
                                             朝位真士
去る七月一五日〜一六日迄、青梅のかんぽの宿で、西東京教区教師研修会が四十数名の参加者で開催された。
特に今回は、東京神学大学学長の山内眞先生を主講師として、「説教、テキストの解釈というテーマで、約二
時間の特別講演があった。その中で先生は、三つの内容について語られた。@テクスト理解の問題、Aテクスト
解釈の問題、B今日問われている諸問題等について語られた。@Aの問題については専門的な内容なので省略す
るが、Bの結論を少しピックアップしたい。
「日本基督教団に所属する会員の数は、年々減少の一途をたどっている。信徒は、全体として高齢化し、特に
若者の減少は著しい。教職についても数不足が深刻となり、増えるのは無牧の教会ばかりである.伝道不振、教
会の伝道力減退の原因は内にも外にもあり、いちいち挙げれば際限がない。世俗、物質主義、それらがもたらす
ニヒリズムの力は、デーモン的支配力、破壊力を発揮し、教会は熾烈な戦いを余儀なくされている。しかし、伝
道不振の原因、根源的問題は全方位に向けられている。教会のわざがそこに集束する礼拝が整えられていないと
ころにある。伝道は教会形成による。具体的には礼拝形成である。」と語った。毎週毎週の礼拝がいかに大切な
事柄であり、神の前に整えられてこの世に派遣されていく私達の姿勢の重要さを改めて感じた。
 次に、三人のパネラーによつて「教会のさまざまな課題」について意見が述べられ、分団で話し合いがなされ
た。ある教会は「伝道基金」を教会予算の一〇〜一三%位、他教会へ献げている。又、讃美歌二一の使用の仕方。
ある教会は七五歳以上が七〇名おり、若者とのギャップをどのようにしたらよいのか悩みを訴えられ、信仰縦承
の間題も深刻な課題であった。

週報(2002年7月14日)

   二〇〇二年上半期を感謝しよう
                                               朝位真士
 「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。」(詩一三六・一)
 本年も六ヶ月間を経過致しました。私は、この半年間を過ごしてきて、本当に主の御守りを感謝しています。
 現代は世界的に不況の時代です。まず経済的にも不況であり、リストラ、倒産等があいついでおり、年金生活
者も、利息が低利の為に、余り豊かな生活をする事が出来ません。健康的には、昨日迄元気だった方が急に病気
になり、しかも長期入院をしなくてはならない。私の友人の牧師は、教会の用事で店に行っての不慮の事故にあ
い、半身不随という状態になってしまった。しかし彼は、希望を捨てていない。治って桜ヶ丘教会に証しに行き
たいと祈っている。
 教会も、一人一人は試練や戦いの中にいる。私は、毎週の様に御病気の方々を訪問させて項きながら、神に祈
っている。
 最近、三浦綾子著の「私の赤い手帖から」という本を読んで、大変感動した。その本の中に「必ず治ります。
今しばらくの試練ですからね。」という見出しの記事がある。ご存知のように、三浦綾子は一九五二年、脊椎カ
リエスでベッドに入ったばかりで、原因不明の微熱が続いていた時、医学に強い不信をもっていた。そんな中で、
受洗した。何もかも信じられなくなって、しかしイエス・キリストの愛だけは信ずることが出来るという幸を得
ていた時、札幌北一条教会の小野村林蔵牧師が長老と来られ受洗を授けてくれた後、帰る間際に、「必ず治りま
す。今しばらくの試練ですからね。」と言われて帰られた。言葉通り、何年か後に三浦綾子は治ったのである。
私はこの本の記事を読んで、桜ヶ丘教会に希望がもてる。今教会は試練の時かもしれぬ。しかし、やがて、それ
は喜びの日、希望の日が来る事を。

週報(2002年7月7日)

  夏期の諸集会の為祈って下さい
                                                朝位真士
 今年も七月から八月にかけて、各集会、聖会、夏期集会があります。
 まず七月二二日(月)〜二四日(水)の日程で、第一三回(通算五〇回)ホ群首都圏夏期聖会が、主題「大いなる喜
び−きよめの恵み」、主題聖句ガラテヤ五・二二〜二三節「・・・霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、克容、
親切、善意、誠実、柔和、節制。」講師、山岡磐師、西海満希子師、絵鳩アツエ師、原田嫌師、島隆三師、横山
義孝師。私も、早天祷告会の壮年部の祈祷会のメッセージを致します。〆切は七月七日。未だ決断していない方
も、申込みに間に合います。今年は、埼玉県秩父のホテル美やまが会場です。どうぞ祈ってご参加下さい。
 次に我が桜ヶ丘教会の夏期学校です。
 八月六日(火)〜八日(木)、神奈川県の相模湖近くの桐花園という宿泊施設です。主題は「イエス様の愛と祝
福」。第一課「神の子イエス」、第二課「十字架の愛」、第三課「復活の喜び」と三つのテーマに分かれて、数
人の教会学校の先生方と、小学科と中学科(予定)の子供達と参ります。数年前にも野外で夏期学校を致しました
が、今年も事故や過ちがないように、又、子供達が恵まれる様祈って下さい。
 七月二九日(月)〜八月一日(木)には、ホ群首都圏ユースバイブルキャンプが、埼玉県飯能の岩清水クリスチャ
ンセンターであります。テーマ「ペトロの生涯」と題して、主講師は伊奈聡先生です。わたしも一部の奉仕をさ
せて頂きます。
 最後にキリスト教伝道会主催の第三四回「日本伝道の幻を語る会」が、八月一九日(月)〜二一日(水)、市川サ
ンシティーホテルで開催されます。講師は松田幾雄先生(日本キリスト伝道会実行委員長)、藤井圭子先生(医師・
キリスト伝道会エバンヂェリスト)。
 以上この夏も霊的に燃える事が出来る様祈って下さい。

週報(2002年6月30日)

  「教会形成」と信徒について
                                              朝位真士
 クリスチャンであることの真の意味を知り、また、教会の真の意味を知り、教会員であることの真の意味を知
り、その特権と幸いを喜び、主から託された使命のために生かされていることを心から感謝し、進んで教会生活、
信仰生活を励むとき、教会は必ず形成され、成長するはずです。
 クリスチャンが、教会と教会生活について考えるとき、拘束だとか、わずらわしいとかいう話を耳にすること
があります。それは、多分、本当に救われていないか、クリスチャンであることの真の意味が分かっていないた
めに言われる言葉ではないかと思います。救われてクリスチャンとなり、教会員とならせていただいているとい
うことは、本当は、大変な特権であり、喜びなのです。
 「クリスチャンは教会につながっていてこそ生かされ、用いられ、使命(役割)を果たすことができるという
ことです。」そして、そこに喜びがあるのであり、クリスチャンとしての生き甲斐を実感できる充実した信仰生
活があるということを覚えたいものです。
 教会と信徒の不離一体の関係は、「こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造
り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人
間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。・・・愛に根ざして真理を語り、あらゆ
る面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合う
ことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら
愛によって造り上げられてゆくのです。」(エフエソ四・一二〜一六)とあります。教会形成は「信徒個々人の
形成及び、共同体の形成である」。

週報(2002年6月23日)

  初代教会の成長と形成について学ぶ T
                                              朝位真士
 桜ヶ丘教会も創立七九年目を迎えています。六月一日は創立記念日です。私はこの時、初代教会の成長と形成
について御言が与えられました。「こうして、教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主
を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていつた。」(使徒九・三一) ここでは、
数的成長の記録が書かれています。又、教会成長には、信徒の質的な成長も伴っていました。使徒二・四二〜四
七を見て下さい。ここには、信徒個々人の成長の姿と同時に、共同体としての成長の様子も見ることができます。
又、使徒六・三〜七を見て下さい。機能的成長の記録を見ることができます。信徒が増えるにつれ、教会として
形成されていくための組織化がなされ、信徒の間に与えられている賜物の活用も進むことになって行きました。
長老や執事がたてられ、やもめのための制度が作られたことも記されています(Tコリ一二章)。
 また、使徒パウロは、教会が霊的な意味で「キリストのからだ」であり、からだ全体は各部分がしっかりと組
み合わされ、成長して、愛の内に建てられるのだとも述べられています。ここでも、生ける共同体、有機体とし
ての教会の質的、組織的成長の当然性を教えられています。
 ここで一言、教会員の方々、客員の方々、求道者の方々に申し上げたい。神様から与えられた賜物を積極的に
教会の為に献げて下さい。
 「信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める
人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行
いなさい。」(ローマ一二・五〜八)

週報(2002年6月16日)

   祈りと交わりの集い
                                              朝位真士
 よく質問される事ですが、「何のために、諸集会に出席しなければならないのでしようか。礼拝に出てさえい
れば、それで十分ではないかと思いますが。」特に最近は、「祈祷会」の出席が減少傾向にあります。どの集会
も大事ですが、特に祈祷会は教会の活動源だと思います。私は過去に於いて、祈祷会が多い教会はあらゆる面に
於いて神の祝福を得ていると思います。ここで、祈祷会の目的について考えてみたいと思います。
 第一に「聖書を学ぶ」ということです。よく私たちは「神のみこころ」とは何かという事を聞きますが、神の
みこころを問いつつ生きる私共の生活は、具体的には聖書を読みつつ生きる生活なのです。一人では仲々むずか
しい事でも、二〜三人で共に学ぶことは大変有意義な事と思います。
 第二に、それはいずれも「祈りの集い」です。教会生活とは本来「聖日礼拝と祈祷会を厳守する」ということ
でした。主の日「聖日」に教会堂に於いて礼拝をした者たちが、週間の祈祷会に再び教会堂に集まって祈祷会を
しました。現代は多忙な生活になって、さまざまな社会生活の条件が変わりました。しかし、私は、時代が変わ
り社会変動があっても変わってはならないこと、それは教会が祈り続けることであると信じています。
 第三に、私共はそこで共に「交わり」に生きます。「喜ぶ者と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」と勧め
ています。教会は兄弟柿妹の「慰めの共同体」であるというのが、長くプロテスタント教会が大切にしてきた教
会理解です。
 第四に、これらの集会は「伝道」のよい場所です。たとえば、こうした小さな集会からその歴史を始めていま
す。ひとつの家庭を軸として形成された小さな集会が、やがて成長して教会になるのです。祈祷会に励もう〃

週報(2002年6月9日)

  からし種とパン種      .
                                              朝位真士
 序、進藤愛子姉の記念会の事。
 本論、ルカ一三章一八〜二一節を通して、「からし種」と「パン種」のたとえについて語る。並行記事引用
(マタ一三・三一〜三三、マコ四・三〇〜三二)
 一八節「そこで」、イエスは腰の曲がった女のいやしを説明する。つまり、一八年間もの間病気の霊のもとに
抑圧されていた一人の女の解放は「からし種」のように小さな始まり。しかし、大きくなって、その杖に鳥が巣
を作るほどになるように、女性の解放は神の国の到来を準備する。ちょうど、少量のパン種が三サトン(一サト
ンは約一三リツトル)の粉全体を膨らすように。
 マルコ四・三〇〜三二を見ると、「からし種」のたとえの説明がなされている。「からし種」は神の国の象徴
として選ばれる。理由は、種としての小ささと成長したときの大きさの対比の激しさである。種は、黒からしの
場合は直径○・九五〜一・六ミリ、重さ約一ミリグラム、白からしは約二倍で、成長すると一・五メートル〜三
メートルになるという。成長した姿を表す部分はダニ四・九、一八に記されている。「空の鳥」が巣を作れるほ
ど大きな枝を張る。このたとえは、イエスの宣教と共に始まった神の国は始めは小さなものに見えても、最後に
は驚くべき大きな完成を見ることを表す。「パン種」のたとえは、内的変革すなわち人間社会にあって隠れた普
遍的影響力を及ぼすと言えるだろう。私達一人ひとり、家庭、社会、教会などの様々な分野の三サトンの粉を与
えられている。与えられた場で、キリストの福音というパン種を入れる責任がある。やがて全体が膨れるとある。
福音のパン種を入れて、人生のオープンで焼こう。きっといつの日か教会の成長を見ることができる大きな働き
となる。

からしについてもっと知りたい方は、SBのホームページを見てください。(管理人)
http://www.sbfoods.co.jp/spiceherb/hyakka/text/spk06.htm
http://www.sbfoods.co.jp/spiceherb/spice-QA/text/karasi5.htm
パン種についてもっと知りたい方は、オリエンタル酵母のホームページを見てください。(管理人)
http://www.oyc.co.jp/world1/w1_3.htm

週報(2002年6月2日)

  主イエスのいやし       、
                                                朝位真士
 序に於いて、バザーとチャペルコンサートの事について語る。
 本論に於いてルカ一三章一〇〜一七節を通して語る。 一〇〜一七節は、一八年もの間病気の霊につかれ、苦し
んでいるユダヤの女の人をいやされた話である。
 ある安息日に、会堂で起こった出来事であった。一瞬にして病が治った女は喜びに満たされて神をあがめたが、
その場に居合わせた会堂管理者は、それが安息日に起こったことだったので憤った。彼にとっては一人の病人が
長い間の苦しみから解放されることより、安息日の「しきたり」を犯さないことの方が大切だった。一四節のこ
とばにはその優先順位がはっきりと表れている。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。
安息日はいけない。」と。しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者達よ、あなたたちはだれでも、安息日に
も牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くべきではないか。この女はアブラハムの娘なのに、
一八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったの
か。」 (一五〜一六〉
 イエス・キリストはこの女の人をあわれみ、その病気をいやしてやった。女の人は感謝にあふれ、神をほめた
たえた。イエス・キリストにより神のみわざが、わが身の上になされたことを讃美したのである。
 二つのことが語られている。@この会堂司やこれに類した人間は、生身の人間を愛するより制度を愛する人間
である。Aイエスの行動は、神はいかなる人も不必要に長く苦しむことを欲したまわないことを表している。今
日為し得る愛の行為を、明日にまで延ばしてはならない。

週報(2002年5月26日)

   チャペルコンサート礼拝
                                             朝位真士
 今回も岸先生をお迎えすることができて、心より感謝申し上げます。
 私共の教会は、新会堂が建設されて四年が経過しました(一九九七年一二月完成、一九九八年二月献堂式)。こ
こ二〜三年は、地域に開かれた教会として、楽器演奏とともにキリスト教のメッセージを伝えるチャペルコンサ
ートを春と冬に開いています。岸義紘先生は二回目です。大変気さくな方で、楽器演奏とメッセージを携えて、
どんな小さな所、家庭集会、朝祷会、教会、ホテル、聖会、ゴスペル・コンサート等に行かれ、席のあたたまる
暇のないほど多忙な方です。ビデオ・テープで聖書を学ぶことのできる信徒向けのJTJ宣教神学校の校長であ
り、ミッション二〇〇一巡回伝道者、国体水泳元神奈川県代表選手、ムラサキスポーツ競泳チーム所属選手等、
多くの賜物を主のためにすべてささげて御用されている先生です。三五歳から巡回伝道一筋。一般向けサックス
CDや讃美CDをリリースしておられます。
 私は、岸先生と数年前からお交わりをさせていただいていますが、一度付き合って頂くと決して忘れられない
霊的魅力と人間的魅力を兼ね備えられた先生です。又、先生は、キリスト教的な著書を何冊もお書きになってお
られます。メッセージは大変わかりやすく、主イエス・キリストの福音をストレートに語り、音楽(サックス演
奏)とメツセージを携えて、全国を巡回されています。又、神学校校長として学究的な面もおもちです。主の御心
ならば、二〇〇三年も私共の教会へ来て下さり、サックス演奏とメッセージを語って下さいます。
 岸先生の働きが祝福されるようお祈りさせて頂きます。

週報(2002年5月19日)

  聖霊による一致
                                              朝位真士
 序、聖霊降臨日の起源について語る。
 本論、使徒二章一〜一三節を中心に語るが、関連記事として創世記一一章一〜九節と、「バベルの塔」の記事
を引用する。又、副題のテキストとして、ガラテヤ三章一〜五節を引用し、「御霊によって歩む生活」を送るに
はどうしたらよいのか考える。最後に「聖霊による一致」は御霊によって歩んでいないとあり得ないと結論づけ
る。
 まず第一に、バベルの塔の出来事を引用する。
 第二に、使徒二章一〜一三節。新しい備えを全うして、ひたすら主の約束を待った弟子たちの小さい群れに、
ペンテコステの日(五旬節の日)約束の聖霊が与えられた。旧約以来語られてきた神の約束が、聖霊の降臨という
かたちで成就されたのである。聖霊の降臨は新しい時代の実現、すなわち地上の神の国である新しい教会を生み
出し、福音の宣教の基礎を築く原動力であった。そして、このペンチコステの日の大事件が、キリスト教の世界
的発展の出発点となったのである。
 「五旬祭の日」は旧約では「七週の祭り」と呼ばれ、過越祭の第二日から数えて五十日目にあたり、麦の収穫
が終わる感謝祭の日である。ペンテコステとはギリシャ語で「五十日目」を意味する。この日はまた、キリスト
が十字架につかれてからちょうど五十日目にあたる。偶然の一致ではなく、旧約以来の預言の約束が、神によっ
て実現された意味深い日である。またこの日は、歴史的には、キリスト教会の誕生日である。この日は、地域に
開かれた教会として、バザーが行われる。いろいろ意見もあると思うが、なんとか一人でも教会に導かれる事を
祈りたいものである。

週報(2002年5月12日)

  ゆだねられているもの
                                              朝位真士
 序に於いて母の日の起源を語る。
本論に於いて、テモテへの手紙二・一章三〜一四節を通して「ゆだねられているもの」について語る。パウロ
は、愛弟子テモテの事について語り、特に、三〜一四節に於いて「ゆだねられているもの」を守る。
 パウロは、「愛する子テモテ」のために、神の祝福の「恵み」、赦しの「あわれみ」、それに神との交わりに
よる「平和」を祈って、この手続を語っている。
 (一)パウロの祈り (三〜四)
 キリスト者にとって、取りなしの祈り以上の励ましはない。テモテのために祈る時、パウロがいつも思い起こ
すのは、自分の過去、現在い未来にまで至る神の摂理とその恵みであった。
 (二)テモテの信仰(五)
 テモテの信仰も、パウロと同じように、信仰の素養の上にはぐくまれたものである。その信仰は敬虔な祖母ロ
イスと母ユニケを通して伝えられたもので、パウロは神の恵みに感謝せざるを得ない。旧約聖書を見ると、選民
イスラエルが彼らの信仰を縦承するために、どのような家庭教育をしてきたかが分かる(申命記六章)。宗教改革
者ルターも「小教理問答書」の終わりにあたって、「各自がこの教えを守るならば、全家に幸があるであろう」
と結んでいる。信仰教育の場としての家庭に対するルターの期待と、信仰の縦承という事柄に対する深い配慮を
うかがい知ることができる。今日、霊のイスラエルとしての教会は、「家の信仰」の自覚と訓練にもっともっと
意を用いなければならない。
 (三)テモテに与えられた賜物 (六〜七)
 力の霊、愛の霊、思慮分別の霊。
 最後に、苦しみを恥とするな〈八〜一二)。又、キリストへの忠誠(一三〜一八)。

週報(2002年5月5日)

   時を見分ける
                                                 朝位真士
 序、最近の出来事。
 本論、ルカ一二章四九〜五九節を通して学ぶ。 この箇所は、三つに分かれている。(一)分裂をもたらす(四九〜
五三節)(二)時を見分ける(五四〜五六節)(三)訴える人と仲直りする(五七〜五九節) まず注解書によると、
(一)分裂をもたらす(四九〜五三節)では、四九〜五〇「地上に火を投ずるために」終末的審判である。イエスは
その実現を願うが、まず「受けねばならない洗礼」すなわち十字架上でイエスが受ける苦しみは、単なる肉件的
な苦しみだけではない。神から受けるさばきの苦しみ、罪人の罪に対する神の怒りが待ち受けているのである。
このイエスの苦しみは、すべてを丸く収めようという表面的な平和はもたらさない。むしろイエスがもたらすの
は分裂である。この分裂は、真理が明らかになるための分裂であり、真の平和、神とのまことの平和に至るため
に生じる分裂である。
 (二)時を見分ける(五四〜五六節) 彼らが空模様を見分けることができるのと同じである。それでいながら、
どうしてイエスによって終末という新しい時代に突入したことを見分けられないのか。イエスのわざやことばを
見聞きしていながら、彼らは何の危機感も感じずにいる。だからイエスによって偽善者と糾弾されるのである。
イエスの神の国宣教の言葉と奇跡のわざは神の国到来のしるしである。
 (三)訴える人と仲直りする(五七〜五九節) イエスは自分で正しい判断をすることを人々に求める。負債の裁
きを受けるために告発人とともに役人のところに行くとき、その途中で仲直りをする最後のチャンスがある。人
はいまその最後の時としての人生の途上にある。

来週(12日)母の日礼拝。

週報(2002年4月28日)

  福音の力
                           朝位真士
 序、最近の出来事。
 本論、ローマ一章一六〜一七節を通して「夫君の力」と題して語る。
 この部分は、前段の感謝の力強い締め括りであると同時に、一一章ま
での長い本格的なパウロの福音理解の主題を提示している。
 「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ
人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」(一六
節)これはパウロの告白的宣言である。彼にとって「福音」とは、「十
字架の言葉」であり、それは、「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦
人には愚かなもの」であるが、「召された者には、神の力、神の知恵」
(Tコリ一・一八〜二五)なのである。「神の力」はギリシャ世界では
人間の力を越えた奇跡的な力、ユダヤ教では歴史の中に働く神の救済の
わざを指すが、ここでは終末時に世界に実現する神の支配を意味する。
 「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わり
まで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生き
る』と書いてあるとおりです。」(一七節) 最後の引用はハバクク書二
章四節「見よ、高慢な者を、彼の心は正しくありえない。しかし、神に
従う人は信仰によって生きる。」の引用聖句である。
 福音は、信じる者に、救を得させる神の力である。

週報(2002年4月21日)

   目を覚ましている人
                           朝位真士
 序、最近の出来事。
 本論、ルカ一二章三五〜四八節を通して「目を覚ましている人」につ
いて語る。この箇所は、「人の子は思いがけない時に来るから、用意し
ていなさい。」(四〇節)と語る。主人の思いを知りながら、何も準備せ
ず、あるいは主人の思い通りにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる(四
七節)。なすべきことをしない怠惰の罪に対するさばきの警告と恵みに
は責任が伴うことを教える。
 ここでは備えの大切さを、イエスはたとえ(四五〜五一)で説明する。
弟子たちは「主人からその家のしもべたちを任されて、食事時には彼ら
に食事をきちんと与える。」(四五節)ことを期待されているしもべの立
場にある。主人の命令に「忠実な思慮深い僕」は、やがて主人から大き
な信任を得、もっと大きなことを任せられるようになる。しかし油断し
立場を悪用して仲間を打ちたたいたり、好き勝手に宴会騒ぎをしたりし
ている不忠実なしもべは、思いがけない時に帰る主人から厳しく処罰さ
れることになり、後悔することになる。再臨までしばらく時があり、遅
れているように見えるが、それは来ないということではないから、備え
が必要である。だから、常に目を覚ましている人は幸いである。

週報(2002年4月14日)

   思い悩むな
                       朝位真士
 序、マタイ六章二五〜三四節を引用。
 本論、ルカ一二章二二〜三四節から学ぶ。前のルカ一二章一三〜二一
節では多くの資産を持っていた者に対する誉告であったが、この箇所で
少しの資産しか持たない者にも言うことがあった。この箇所全体を通し
てイエスが禁じていることは、思いわずらい、ないしは思い悩むことで
ある。イエスは、無為無策で無鉄砲な生き方を勧めているのではない。
彼が人々に教えたことは、自分の最善を尽くし、後は神に任せよという
ことである。
 イエスは言った。「神は鳥や草花を養っていて下さる。ましてや、あ
なたがたをそれ以上に配慮されないことがあろうか。」「まず神の国を
求めなさい。」神の国とは何か。神の支配であり、それは、神の御心が
天と同じように地上でなされる状態のことである。神を信じる者は、御
国を来たらせたまえと祈り求めるべきである。神の国が来るとき、すべ
ての必要なものは欠けることなく与えられるのである。
 クリスチャンの悩みは、「信仰の薄さ」(二八節)、信者のうちに潜む
異邦人的な具体例から論証される。第一に生命は、神の摂理的養いによ
って支えられる。生命の成長に、人の心配は全く無力である(二五〜二
六)。
 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい(マタイ六・三三)。これ
を人生の主目的としましよう。

週報(2002年4月7日)

  愚かな農夫
                            朝位真士
 序に於いて、先日召天した相沢こう姉の事について語る。
 本論に於いて、ルカ一二章一三〜二一節を通してメッセージを語る。
この箇所では、パレスチナの人々が何かの決着しない争議を尊敬するラ
ビのもとに持ってくる。しかしイエスは金銭上の争いにかかわり合うこ
とを断固拒否したのである。ただその要求は、物質的なものに対してど
ういう態度をとるべきかを弟子たちに教える良い機会となった。所有物
を有り余るほど持っている者にも、またそれらを持たない者にも、その
どちらに対してもイエスは言うべきことがあった。多くを持っている者
に対しては、イエスは「愚かな金持ち(農夫)」の話をした。この男につ
いては、二つのことを語っている。@この男には自分のことしか眼中に
なかった。Aこの男にはこの世のことしか眼中になかった。
 結論「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意し
た物は、いったいだれのものになるのか。」と言われた。
 「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとお
りだ。」(ルカ一二・二〇〜二一)
 次週もこの問題を考えましょう。

週報(2002年3月31日)

   二〇〇二年イースターを迎えて
                            朝位真士
 イエス・キリストが私達人類の罪の為十字架にかかり、三日目に復活
されたことをお祝いするのが、イースタ(復活祭)といわれ、キリスト
の復活を記念する日であり、AD三二五年のニカヤ会議にて、春分の後
の第一の満月後の日曜日と定められました。キリストの復活によって、
罪の結果であり、人間の最大の敵である死に勝利をもたらされたこの日
を記念し、教会では特別礼拝、聖餐式、洗礼式などや、墓前礼拝を行う
事もあります。また、復活を象徴し、美しく彩色されたり、みことばや
絵などのかかれた卵(イースター・エッグ)を用いる習慣は、古くから各
国々にあります。今年は、三月三一日(日)の今日、イースター礼拝を守
る事が出来て感謝しています。
 明日から二〇〇二年度のスタートです。主の復活を記念する礼拝を守
らせて頂き、早速明日から三日間、ホーリネスの群年会があり、四月二
八日(日)礼拝後には二〇〇二年度の教会総会があります。これは教会員
として大切な会議です。会員の方々は、是非ご出席下さい。五月一九日
(日)にはペンテコステ礼拝(聖霊降臨日)。教会の誕生日ともいえます。
その日にバザー(地域の方々に教会に親しんで項く為)もあります。五月
二六日(日)、チャペル・コンサート。岸先生をお迎えしての特別集会が
あります。どうか皆様方、祈ってご参加下さい。

週報(2002年3月24日)

   レント(受難節)から受難週へ
                                              朝位真士
 レントは、灰の水曜日(今年は二月一三日から始まり、復活日前日(三月三〇日)までの、主日をのぞいた四〇
日間であり、この四〇の数字は、ノアの洪水の日数、イスラエルの民がシナイの荒野をさすらった年数、エリヤ
が断食した日数、シナイ山においてモーセが断食した日数、イエスが荒野で断食した日数であり、主の受難(十字
架)による勝利と復活を待望させるのである。
 受礼週は今週(三月二四日〜三〇日)で、レントの最後の一週間、エルサレム入城、最後の晩餐、裁判など十字
架に至る主イエスの苦しみを覚えるときである。
 最後の晩餐がなされ、主が弟子たちの足を洗われた木曜日は「洗足木曜日」と呼ばれ、主が十字架にかかられ
た金曜日は「受難日」と呼ばれ、欧米では昼から午後三時まで礼拝がなされ、エルサレムではヴイア・ドロロサ
を十字架が行進する。このような受耕週の礼拝や断食、十字架行進などを取り入れることによって、私たちもよ
り深くキリストの十字架を心に刻むことができるようになるのではないだろうか。
 私たちの教会にとっても、このレントの時期に二人の方々が召天された。二月七日に原田かつ姉、三月二日に
影山明男兄。また三月一四日に相沢こう姉が入院された。しかし、四月から二〇〇二年度に入り、五月一九日
(日)礼拝後にバザー(目的、地域の人々を教会へ)とペンチコステ(聖霊降臨日)、五月二六日(日)岸義紘先生によ
るチャペル・コンサート(サックス演奏とメッセージ)と、教会の大切な行事が続く。悲しみの時期を通った桜ヶ
丘教会がイースター(三月三一日)を迎え、ペンテコステ(五月一九日)を迎え、教会員全体の祈りを必要としてい
る。

週報(2002年3月17日)

  桜ヶ丘教会での一年
                                               松村俊一
 自転車で家庭訪問をする。風を切って走るとサイクリングをしているようで楽しい。朝位先生の方が元気だ。
急な登坂があってきつい。でも心は、さわやかだ。ここの教会の人達は中高年層が多い。一緒に食事をする。
いつもオイシイ。会話が楽しい。又、息子さんも娘さんも、お世辞でなく、良く育っている。憲義さんの感性の
すばらしさ、真奈さんの純粋さ。そして朝位先生の熱心さ、フミ子先生のシンの強さ。それぞれ学ばされる。又、
立派な信仰の方々、悠々と人生を楽しんでいる方々、何でも上手にこなしてしまう人々。ご高齢なのにヘルメッ
トをかぶってバイクをとばしてくる人。皆さん、主の栄光をあらわしている。
 CSの子供達が可愛い。東京聖書学校の「週番日誌」に書いたところから引用させていただく。「○月×日、
CSの司会、寝不足でメロメロになってしまった。『最低よ。』という子供もいた。愛する(最近、特にみんな可
愛くてたまらない)生徒達から、こう言われてショックだった。反省。しかし午後、会堂で祈りながら眠ってしま
った。子洪達が寄ってきた。やっばり可愛い。そして優しかった。」よく公園でオニゴッコなどをして遊ぶ。皆、
とても元気だ。なかなか捕まらない。この子供達、日々、祈れるようになってほしいと願っている。
 この間の「耳の日」。私は三月二日に聴覚障害者との交わりに参加してきた。高水さんは、おられなかったよ
うだ。三日に行かれた。ぜひ、他の人達と共に受洗されますようにお祈り致します。アーメン。

週報(2002年3月10日)

  影山明男兄の召天に際して
                                             朝位真士
 私共の教会の忠実な会員であり、教会会計、特に会堂会計を手伝って下さった影山明男兄の召天の報に接した
のは、三月二日午前一一時であったと思う。その日の午前一〇時五〇分に召天。私は、影山家の御自宅に伺い、
兄を迎えた。本当に安らかな寝顔であった。
 翌三月三日(日)午後六時、桜ヶ丘教会礼拝堂で前夜式が行われた。会堂には大勢の人々が集まった。翌三月四
日(月)午前一一時三〇分、告別式が行われた。前日同様大勢であった。
 兄の略歴を記すと、一九三一年六月五日、影山儀之介、宣子の次男として金沢市小立野で誕生。一九五〇年四
月、金沢大学薬学部入学。一九五四年三月、同大学卒業。同時に製薬会社外国部に入社。その後、一九五八年三
月、旧姓斉籐由美子婦と結婚、二人の男子が与えられている。何よりも特記すべき事は、影山明男兄の御家庭は
クリスチャンホームであり、兄は一九三七年三月、聖公会金沢聖ヨハネ教会の直川久之助先生より幼児洗礼を受
けておられ、一九八二年二月、桜ヶ丘教会において、前任牧師西海静雄先生の前で信仰告白をしている。
 私は影山兄とは八年間のお付合であったが、彼の人となりを述べてみると、大変温厚な方で、無口な方である
が、存在感のある方であった。仕事熱心であり、病気にかかっても忍耐強く、1言も不平不満を聞いた事がない
と由美子夫人は語っておられた。私が板橋の病院に何度か訪問すると、いつもニコニコしておられ、「先生あり
がとうございます。」と感謝の気持ちを表しておられた。彼の桜ヶ丘教会での礼拝は二〇〇一年五月二二日が最
後であったが、その前、涙を流して礼拝に出席する喜びと感謝を表しておられた姿が今でも頭に焼きついている。
御遺族の上に神の慰めをお祈りいたします。

週報(2002年3月3日)

  二〇〇一年度教会総会を終えて
                                                朝位真士
 二月二四日礼拝後教会総会があった。現住陪餐会員五二名中二〇名出席、委任状二一名、今迄にない異例の総
会であった。
 一号議案は、二〇〇二年度宣教方針を朝位牧師より語る。まず大体の骨子は、一、年二回チャペルコンサート、
五月二五日(日)岸義紘先生サックス演奏とメッセージ。一二月一五日(日)ベアンテ・ボーマン先生のチェロ演奏
とメッセージ。二、教会バザー、五月一九日(日)礼拝後予定。目標、地域の方々に教会に入っていただく。収益
金を会堂返済に充当する。三、祈祷目標、@個人信仰の確立、A全家族の救い、B個人伝道による教勢倍加。四、
集会目標、@礼拝出席五〇名(当面四〇名)、A夕拝一〇名(当面五名)、B祈祷会一五名(当面一〇名)、CCS出
席一〇名、D受洗者三名。五、賛美歌二一を礼拝の中で歌う。六、聖書を読む集いを夕拝にもどす。七、教会案
内(印刷)を作成する。結論、二〇〇二年度は、明るく、前向き、全員参加の教会、お客横信者の減少につとめる。
 二号議案、三号議案は、二〇〇二年度一般会計収支予算案と二〇〇二年度会堂会計収支予算案の松下会計役員
の説明の後、一同挙手をもって可決された。
 特に教会は高齢化と病気の方々が多く、礼拝その他の集会に影響があり、経済的にも響いており、なんとか新
しい方々の救いと、教会から遠のいている方々の信仰復興を切に願いたい。キリストの体なる教会、神のみ名の
崇められる教会形成をさせて頂きたい。桜ヶ丘教会の真価の問われる年である。

週報(2002年2月24日)

   ベルゼブル論争
                            朝位真士
 序に於いて、ルカ一一章五〜一三節を引用して、祈りの具体性につい
て語る。「しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは
起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来
て必要なものは何でも与えるであろう。求めなさい。そうすれば、与え
られる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そう
すれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門を
たたく者には開かれる。」(ルカ一一章九〜一〇節)
 本論では、ルカ一一章一四〜二三節を通して、ベルゼブル論争につい
て語る。イエスの働きが、ベルゼブル(悪霊の頭)の力であると言ってい
る者に対しての反論である。(一)「内輪もめ」は国が波びるから、悪魔
が部下を追い出すはずがない。(二)イエスのわざがベルゼブルのわざな
ら、「あなたがたの仲間」ユダヤ教悪霊術師も同罪になる。(三)わたし
が、神の指によって、悪霊どもを追い出しているなら、神の国はあなた
たちのところに来ている。結論としては、強い人が武装して自分の屋敷
を守っているときには、その持ち物は安全である。
 私共は、悪魔より強力な全能の神によって守られている事を確信しよ
う。

週報(2002年2月17日)

   最高の祈り
                           朝位真士
 序に於いて、主の祈りのマタイ六章九〜一三節を引用する。
 本論に於いて、ルカ一一章一〜四節の主の祈りを引用する。主の祈り
を中心にした弟子たちに対するイエス・キリストの祈りについての教え
であるが、マタイ六章九〜一三節と比べると、多少の違いがある。主の
祈りの内容も、ルカの方が簡潔である。「父よ、御名が崇められますよ
うに。」イエス・キリストは、神に「父よ」と呼びかけるようにと教え
る。そこには恐れも疑いもなく、ただ御子イエス・キリストのゆえに、
神を「父」と呼ぶことを許された関係だけがある。そして、神に栄光を
帰するものとなさせたまえとの祈りである。「御国が来ますように。」
イエス・キリストによってあらわされた御国が完全に到来するように、
また御国の到来を確信する信仰の持続を、この祈りによって願うのであ
る。「わたしたちに必要な糧を毎日与えて下さい。」わたしたちはこの
ように祈ることによって、すべてを神が与えて下さることを深く知り、
与えて下さる日毎の必要を感謝して受けるべきである。「わたしたちの
罪を赦して下さい。わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますか
ら。わたしたちを誘惑に遭わせないで下さい。」心から神の赦しを願う
者で、他人の罪を赦す心のない者はあり得ない。また、試みの危険から
神が救い守って下さるようにと祈るべきことを教えられた。
 この祈りが主イエス・キリストの教えられた「最高の祈り」である。

週報(2002年2月10日)

  必要なことはただ一つ
                           朝位真士
序に於いて、マリアの事について、マタイ二六章六〜一三節、マルコ
一四章三〜九節、ヨハネ一二章一〜八節を引用して、イエスの足に高価
なナルドの香油を塗った事を語った。
 本論に於いて、ルカ一〇章三八〜四二節を引用し、マルタとマリアの
物語を学んだ。二人共気質は違うが、イエス様にとって、教会にとって
なくてまならない大事な人物である。活動的な姉のマルタ、静かな妹の
マリア、二人共イエス様に対して最大限のもてなしをした。しかし、マ
ルタは、「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせています
が、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃって
ください。(四○節後半)と、イエスに対して不平不満を述べている。
奉仕は本来感謝の思いから出るべきだが、彼女の場合、義務や責任から
出ている。他方マリアは感謝の思いからイエスの足もとに座っている。
主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩
み、心を乱している。しかし必要なことはただ一つだけである。マリア
はよい方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(四一〜四二節)
 人生に於いて、もっとも大事なことは、「主イエスを愛して、そのこ
とばに聞く」という事ではないだろうか。マリアは、その事をした。

週報(2002年2月3日)

 真の隣人は
                           朝位真士
 序に於いて、断食祈祷会の報告をする。
 本論に於いて、ルカ一〇章二五〜三七節を通して語る。この善いサマ
リヤ人の話は、まず律法の専門家がイエスを試そうとして、「先生、何
をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしようか。」という問い
かけから始まって、愛の戒めをめぐる問答が語られている。ここには、
何人かの人物が出てくる。ある人、祭司、レビ人、サマリヤ人。この箇
所の中心的問題即ちサマリヤ人の深き愛以外に、種々の真理を暗示す
る。第一、イエスは祭司やレビ人等の宗教制度に対して常に大きい反感
をいだき給うこと。第二、人種的、種族的、宗教的反感や対立が如何に
無意味なものであるかということ。第三、敵をも愛する愛が神の前に如
何に貴いものであるかということ。第四に、実行に現れない学問や知識
は、神の国に於いては無意味であるということ。トルストイは「愛のあ
る所に神あり」と言い、ペンゲルは「人はただその宗派心や国民的偏見
を捨てた後、初めて真に自由にしてかつ完全なる愛を実行することがで
きる」と語った。
 最後に、ネパールに医療協力をされた岩村昇先生の話をした。彼が、
大学の助教授の職を辞してネパールに赴いたのは、日曜学絞の時「善い
サマリヤ人」(ルカ一〇・三〇〜三七)の話を聞いたことが発端であるこ
とを語った。

週報(2002年1月27日)

 喜びあふれる
                           朝位真士
 序に於いて、「真の喜び」とは何かという事で、イギリスの偉大な政
治家ウイリアム・グラッドストン(首相を四回経験)の「最大の喜びを味
わったのは、若い日、田舎の教会で受洗し、神の子とされたことだ。」
という言葉と、イタリアのアッシジのフランチェスコの「本当の喜びと
は神のため兄弟姉妹のために奉仕する労苦そのものである。」という言
葉を語った。
 本論では、ルカ一〇章二一〜二四節を通して、イエス様の喜びあふれ
る事について語った。新約学者ウイリアム・パークレーは、この一〇章
二一〜二四節の所に三つの重要な思想があると語っている。@二一節は
単純さと知恵といったものについて教えている。単純な精神は学者の受
け入れることのできない真理を受け入れることができる。キリスト教は
キリストについて知ることではなく、キリストを知ることである。A二
二節は、イエスと神との特別な関係のことを教えている。イエスは「神
がどのような方であるかを知りたいなら、わたしを見なさい。」と言っ
たのである。B二三〜二四節は、イエスは全歴史の完成であることを教
えている。
 結論として、真の喜びというのは、この世の喜びではなく、神から与
えられるものであり、イエス御自身から与えられるものである。フイリ
ピ四章四節、ネヘミヤ八章一〇節、「主を喜び祝うことこそ、あなたた
ちの力の源である。」

週報(2002年1月20日)

   悔い改めない町
                                              朝位真士
 序に於いて、マタイ一一章二〇〜二四節を引用する。
 本論に於いて、ルカ一〇章一三〜一六節を中心に語る。七二人の弟子たちに励ましと訓示を与えている間に、
イエス・キリストを拒否したガリラヤ地方の町、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムのことを思いおこし、
「お前は不幸だ。」と言われた。ティルスとシドンはともにフエニキヤの最も繁栄した都市であったが、偶像礼
拝を行う堕落した町であった。もしこれらの町で、イエス・キリストの宣教と力あるわざがなされていたら、彼
らでもとうの昔に悔い改めていたであろう。コラジン、ベトサイダの町は、イエス・キリストご自身の伝道にも
かかわらず悔い改めもなく、むしろイエスを拒否した。それゆえ、裁きの時には、ティルスやシドンの方が軽い
罰で済む。これは、イエス・キリストを拒否するものへの警告であり、伝道において迫害を受けるであろう弟子
たち、または私たちへの慰めである。
 カファルナウムの町は、イエス・キリストのガリラヤ伝道の拠点であったが、それゆえに天まで上げられるよ
うな町とでもいうのか。否、イエス・キリストを受け入れないものは裁きを受け、罪のゆえののろいの場である
陰府にまで落とされるであろう。
 イエス・キリストが派遣する弟子に聞き従う者は、イエス・キリストに聞き従う者であり、弟子を拒む者は、
イエス・キリストを、更にイエス・キリストを遣わした神を拒む者である(一六節)。彼らに対する裁きを思うべ
きである。私共も福音を語る場合、二種類の人々に出会ぅ。一つは、イエス・キリストを受け入れる人、二つは、
イエス・キリストを拒否する人。いずれにしても私たちは結果を恐れず、福音を宣べ伝える事に心を用いなけれ
ばならない。

週報(2002年1月13日)

   主は派遣する
                                              朝位真士
 序に於いて、元旦礼拝のメッセージを語る。
 本論に於いて、ルカ一〇章一〜一二節と一七〜二〇節を通して「主は派遣する」というテーマで語った。主は
先に一二弟子を派遣し、今度は七二人を派遣した。その理由について語った。旧約との関連を見た時、一二使徒
は一二部族の代表として意味を持つが、今回の七〇人という数字はイスラエルの七〇人の長老達によってイスラ
エルの民全体が代表されていたことに結び付く(出二四・一)。すなわち、旧約の七〇人の長老に代わる七〇人の
弟子は、新しい神の民を代表し、私たちすべてのキリスト者を代表しているのである。「収穫は多いが、働き手
が少ない。だから、収穫のために働き手を送って下さるように、収穫の主に願いなさい。」(一〇章二節)
この働きには収穫が保証されているが、労苦が多く、その働き手も少ない。また危険が絶えず伴っている。小羊
を狼の中に送り出すような危険である。これには迫害という外面的な危険もあれば(マタイ一〇・一七〜二三)、
霊的な危険もある(ルカ一〇・一七〜二〇)。収穫が多い時に、収穫の主に感謝することを忘れて自らを誇りやす
いからである。また、働き人の任務はキリストによってもたらされた神の平安を伝えることである。彼らが派遣
された目的は、何よりもまず「神の国はあなたがたに近づいた」(一〇章九節)ことを人々に知らせることであっ
た。キリストと共に到来した神の豊かな支配に目を開かれ、キリストを遣わされた神を知って、その交わりに入
れられること。これがその使信である。
 私共の教会も、一人一人が主に派遣された者として、この福音を家庭に、職湯に、学校に、地域社会へ伝えて、
二〇〇二年は一人が一人をキリストのもとに、教会に導いて、愛の共同体の一員としての自覚をもちましょう。

週報(2002年1月6日)

   二〇〇二年を迎えて
                                             朝位真士
 元旦礼拝において、二〇〇二年の聖句「あなたの神、主が御心にかけ、年の初めから終わりまで、常に目を注
いでおられる。」(申命記一一章一二節)と目標「主のなさる御業の経験」が与えられました。メッセージは、申
命記一一章一〜一二節から「主の御旨の成就」というテーマで語りました。
 古き二〇〇一年はすでに過ぎ去り、今新しき二〇〇二年がおとずれました。私達は年頭に当たり、それぞれの
考えや計画をもっていることと思われます。しかし、「人の心のは多くの計らいがある。主の御旨のみが実現す
る。」(箴言一九章二一節)とあるように、最終的には主の御旨のみが成就するのです。なぜなら、主は天地万物
を創造されたとき、ご自身のご計画を立て、これによってすべてのことを行われたからです。一二節「それは、
あなたの神、主が御心にかけ、あなたの神、主が年の初めから年の終わりまで、常に目を注いでおられる土地で
ある。」今日のテキストの中の「土地」とは、神がイスラエルに約束されたカナンの地のことです。現在的に拡
大解釈するならば、私たちの住んでいる土地であり、また約束の地「天国」であるかもしれません。その地は、
「あなたの神、主が常にその上にある」と言われています。そして、「年の始めから年の終わりまで」、定住す
るカナンの地を、主は絶え間なくかえりみられ、特別な配慮が与えられる地であると言われます。それには条件
があります。「あなたは、あなたの神、主を愛し、その命令、掟、法および戒めを常に守りなさい。」(一節)と
語っています。「主がかえりみられる。主の目が常にその上にある」と言うのです。
 今年も「主の御旨の成就」がなされる様お祈りいたしましょう。


讃美歌86番 「み神の恵みは」

1.み神のめぐみは/量(はか)り知られず/ときわの愛こそ/比(たぐ)いもなけれ/あめなるみ神に/まさりて深く/わが身の憂(うれ)いを/たれか憐(あわれ)まん。

2.み神のみ子なる/貴(とうと)きイェスは/十字架(じゅじか)の悩みと/恥とを受けて/罪ある者には/ゆるしを与え/疲れし者には/安(やす)きをたまう。

3.奇(くす)しき恵みを/日に日に覚(さと)り/ちからの限りに/仕えまつらば/望みのひかりは/心に満ちて/たたえの言葉は/口にぞ溢(あふ)れん。

325333C By Grace We have Communion With God

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