Kumiko Report 26/Feb/2017
沖縄ゆまーる(連帯)ツアー

2月14日 伊江島へ

13日は、名護市のホテルで泊まった。ホテルの夕食会場は丸テーブルのパーティ会場風で、正面にマイクもあった。そこで、今回はじめて自己紹介の時間を作った。

今回の参加者は北は北海道から南は与那国まで、16都道府県から参加して頂いた。ナンセ47人もの人の挨拶だからタイムキーパーの私としては大変だったが、こういうツアーに参加される方たちだから、それぞれ手際よくかつ印象的な挨拶をしていただいた。

翌日、大型バスもろともフェリーに乗って伊江島へ。伊江島と言えば阿波根昌鴻さん。私は1972年に伊江島に行ったことがある。

阿波根昌鴻(1901年3月3日 - 2002年) 17歳でキリスト教徒となり無教会主義に強い影響を受ける。成人して伊江島へ渡り結婚。1925年キューバ移民。その後、ペルーへ移り1934年に日本へ帰国。帰国後は京都(一燈園)や沼津で学び、伊江島に帰った後はデンマーク式農民学校建設を志し奔走する。建設中の学校は沖縄戦で失われ、一人息子も戦死する。敗戦後、伊江島の土地の約六割が米軍に強制接収された際、反対運動の先頭に立った。



沖縄戦の初期、昭和20年4月16日から21日まで、「六日戦争」と呼ばれる日米の激しい戦闘が伊江島で繰り広げられた。日本軍約2000人、村民約1500人がこの6日間で戦死した。

米軍の飛行場や団結道場を見た後、千人洞へ
行った。

ニャティヤ洞(千人洞)

戦争中、千人もの多くの住民が避難していた場所
として千人洞と言われている。たしかにとても
広い洞だった。

また、ここは子授けの神として古来より崇められ
ているビジル石が洞内にあり、妊婦がこの石を
持ち上げて軽いと感じれば女の子、重いと感じ
れば男の子、子宝を授かりたいと祈願して持ち
上げれば願いが叶うと言い伝えがあるそうだ。

また、この千人洞から海を見ると、ある場所から
ハート形に見えるということで、この千人洞は、
神秘の島伊江島のパワースポット、観光スポット
にもなっている。




ニーバンガジュマル
に行った。

二人の日本兵が敗戦も知らず、アメリカ兵の
目を逃れて、このガジュマルの上で二年間
過ごした。


当時は、もっとたくさんガジュマルがあった
そうだが、今は、この木だけになっている
という。

樹上生活をしていた二人の兵士は、うるま
市出身の佐次田秀順さん(当時28歳)と、
宮崎
県出身の山口 静雄さん(当時36歳)

ニーバンとはガジュマル(樹木)のある宮
城家の屋号からきているそうです。

この後、昼食は、
わびあいの里で。

わびあいの里は、沖縄戦終結から40年目の1984年6月23日に開設された。わびあい」とは、家庭も社会も国も、平和で豊かに暮らすためには、わびあいの心によってしか実現しないとの阿波根昌鴻の信念から、若き日に学んだ京都の一燈園で実践されている「三詫びあい」から名づけられた。

偶然、この昼食の場に「花こま」のメンバー4人がいらしたので紹介した。

そこで私は、「花こま」さんと昨年の6月に函館で行われた函館労音の元事務局長佐藤美津雄さんの「追悼コンサート」で会ったこと。それがきっかけで今回「平和コンサート」に出演していただいたこと。1969年、ボーチェアンジェリカをやめた横井が函館労音によっていかに育てられたことなど、演奏活動の初期の頃の話しをしました。

その後、同じ敷地にある「平和資料館」
である「ヌチドゥタカラの家」を見学した。

1984年12月8日に開館し、平和のためには戦争の原因を学ばなければならないという阿波根さんの考えを具体化したもの。土地闘争の中で収集した米軍の爆弾、原爆模擬爆弾、鉄線、標識や戦争直後の生活用品や闘争を記録した写真や土地を守る会の旗などが展示されている。

壁には「すべては剣をとる者は剣にて亡ぶ(聖書)基地をもつ国は核で亡ぶ」という阿波根さんの信念と、非暴力に徹するたたかいの基本となった伊江島土地を守る会の「陳情規定」が書かれている。




その後、阿波根昌鴻さんの、意志を継ぎ、伊江島の闘いを語り継いでいる謝花悦子さんの話を聞いた。

来年80才になる謝花さんの満身を込めた怒りのお話しに驚き、また、私自身あまりにも伊江島のことを知らない無知を恥じた。ただ、沖縄に来る直前、文化座の「命どぅ宝」を観てきたことが本当にヨカッタ。「命どぅ宝」は、阿波根昌鴻さんと瀬長亀次郎さんの二人を主人公にしたお芝居だ。




そのお芝居の中で、日本のガンジーと呼ばれる阿波根昌鴻さんは、非暴力を唱え、「乞食行進」を1年近くも行ったことも知った。庭には阿波根さんの胸像が木々の中にまるで人々に囲まれているようあった。



太平洋戦争後期、伊江島は日本軍の航空要塞として注目されたが、結局、1945年4月には飛行場を敵のアメリカ軍に奪取されてしまった。アメリカ軍はすぐに伊江島に沖縄本土の嘉手納基地に次ぐ大型飛行場を整備し、8月9日、長崎に原爆を投下したB-29爆撃機もここに着陸した。

一昨年、2015年12月15日の琉球新報の記事を見つけた。

伊江島補助飛行場 着陸帯、幅2倍超に 訓練増の可能性(琉球新報 2015年12月19日)

【伊江】来春着工予定の米軍伊江島補助飛行場の改良工事で、工事後の着陸帯敷地の幅が現状の2倍以上となる800~900メートルとなることが18日、分かった。17日の村議会12月定例会で、名嘉實氏が着陸帯の工事図面を現状の着陸帯の航空写真と照らし合わせて明らかにした。

改良工事が予定される着陸帯の名称は「LHDデッキ」で、強襲揚陸艦の甲板を模している。着陸帯の幅や面積が増加することで、工事後の離着陸訓練が増加する可能性がある。 沖縄防衛局は村に対し工事の詳細などの情報を提供しておらず、島袋秀幸村長は「村も独自で情報収集に励む」と述べた。




写真のようにターコイーズブルーやグリーンの美しい海に囲まれた神秘の島と呼ばれる伊江島は、、現在も、有事の際、対中国、北朝鮮を相手の航空戦に、いまだに米軍の戦略的価値を失っていない。72年前の 戦争による悲惨な歴史は、昔のことではなく、現在も続いている島なのだ。



今、私は、わびあいの里で買ってきた東京芸術座の朗読劇『花ぬ美らさ』のDVDを見ながら書いている。

「乞食行進」の場面がスゴイ!米軍に銃剣で脅され、土地を取られ、畑に入ることもできず、飢える寸前で、万策尽き果てて考え出されたした「乞食行進(伊江島陳情団)」。この沖縄を巡り歩いて訴えた行進は、新しい運動を生む。

この1年後に、屋良朝苗を会長とする16団体が集まった「全沖縄土地を守る協議会」が結成されたのだ。伊江島の問題は、沖縄全土の島ぐるみ闘争に発展していった。 

謝花さんは、「阿波根が非暴力と道理で闘った歴史は、今の辺野古や高江にもつながっている。」と言われた。私は、謝花さんの話しを聞いて、大きな力でこの体を揺さぶられたような、あるいは、あまりにも自分の日常と違うという異次元にこの体がおかれたような感覚になった。もっと知らなければと思いました。

フェリーに乗って伊江島から那覇市のホテルへ向かった。長いバスの車中、沖縄のテレビ局が制作した番組を見せてもらった。やはり本土とは違う基地問題を真正面から取り組むテレビ番組が沖縄ではつくられていた。

翌日は、オプショナルでひめゆり資料館などに出かけた人もあり、午後4時の飛行機で全員集合し、羽田に帰った。

沖縄ゆいまーる(連帯)ツアーは、抱えきれない程の大きなものを心の奥深くに残し、多くのことを学んで終わりました。

2017年2月26日

横井久美子     写真 前田孝子